第三百五十九話 宵闇に
シメイとイサベルを送りがてら、王室居住区に駒を進めたところ。
薄暮の中、なにやらうごめくものがあった。
丸っこいシルエットには見覚えがある。
細長い人影と揉めてシメイが仲裁に入ったのは、もう4年も前の話だったか。
「やんごと無き方がお寝みになっているんだ!」
ひと言に、揉めていたふたりは案外あっさり引き下がった。
これまた4年前と同じように。
「これはよいところにおいでくださいました。不逞なるジジイが」
「無礼な!……胡乱なる若輩がこちらの邸宅の様子を窺っておりましたので問い質したところ、逃げ出したもので。取り押さえんと格闘していたところを、このだらしなく太った男にとがめられた次第」
するとどうやら、不審者はただ一人ということらしいが。当の胡乱なる若輩氏、実にしおらしい。ならば大丈夫だろうと頷きかかったところに、収まらなかったのがだらしなく太った男氏。不逞なるジジイ氏に張られたものか、腫れた頬を持ち上げる。
「このジジイもお邸の周りをうろついていたんですよ! ……近衛中隊長閣下の御前ぞ! 神妙にいたせ!」
明らかに、一度言ってみたかったってヤツである。
アカイウスがいたら殴られてるぞ確実に……と振り向いたところへ。声の殴打が飛んできた。
「失礼いたしました! 自分は元近衛兵の某、所属は荒山関であります!」
ガッチガチの敬礼を見せてくれた。
そういうことなら話は早い、続けるべしと伝える代わりに頷けば。
「上京したところ、かつての上官ハサン殿下のご存命を耳にし、ご挨拶せんと……」
語尾を濁していた。
懐かしさに足を向けた。顔を見たい……嘘はあるまい。部下と上官、そういうものだ。
だが実際近くに来てみれば、お邪魔しても良いものかと。
所属○○関(あるいは城、柵)と名乗る近衛兵。現地採用の家名持ち階層に間違いあるまい。
地元の軍事拠点維持に協力し、若き日十人隊長に、壮年に及んで地方名士の象徴・百人隊長に任ぜられ。引退時に近衛兵……近衛府所属の名乗りを許された男。
老後は一族にあって自慢のタネ、ご近所にあって悪ガキを説教するためのダシ。
地元じゃ負け知らずのそんな名物男も、しかし殿下のお邸を前にすればただの老爺に過ぎなくて。
これが以前のボロ築地なら、いくらかマシでもあったろうか。
むかし親しく怒鳴られどつかれした相手は、真新しい邸宅にお住まいの「殿下」であったと改めて思い知らされてしまっては……。
だが老人は誇らしげな笑顔を浮かべていた。
いま高い壁に拒まれるその事実こそ、かつて言葉を交わした相手が貴人であったことを、現役時代の栄光に偽りが無かったことを証明してくれると、そうした心境らしい。
「そちらの紳士は殿下のお側仕えでしたか。忠実なる方に守られご健勝に過ごされているご様子、僭越ながら安心いたしました。重ねてまさか中隊長閣下にお目にかかれるとは……泉下の同僚によき土産話となりましょう」
こういうのに限って迎えが来ないものなのだ。
言うだけ言ってこちらの話を聞きもせぬあたり、これまたいかにも老人で。
だが再度こちらに施した敬礼の古臭さ、翻した背の凝り具合。
この爺さまは今なお軍人なのだと思い知らされてしまうと。
「上官への報告を怠り背を見せる、聞かぬ話だ」
振り返った額には青筋が立っていた。
全て予想通り、あまりにも典型的な反応。こちらまで脊髄反射の声が出る。
「ついて参れ! 準男爵?」
「中隊長閣下の従兵として入営を認めましょう」
だらしない男から紳士に格上げされて、ケクラン氏もどうやら機嫌を直してくれたらしい。
ノリの赴くまま目で促せば、若者もどうやら乗っかることができたようで。
「その。私は……殿下の遠縁に当たる者です」
色褪せた端切れには、確かにハサン殿下の個人紋が染められてあった。
聞けば、ハサン殿下の妹君の玄孫であると。
都の名族に嫁いだ妹君・若者のひいひいおばあさまは早くに亡くなった。
その娘すなわちハサン殿下の姪にして若者の曾祖母にあたる人物は、幸せな結婚をして一男四女をもうけたそうだが、やはり若くして亡くなり。
その嫡男、若者の大伯父にあたる人物は健康だったが戦死したとのこと。このあたりで、一族間におけるハサン殿下の消息はそうとう曖昧になっていたらしい。
それでも三女にあたる人物・若者の祖母は、殿下が妹君に贈った布地を受けていた。切り分けられて子孫に渡ったその一片が、いま若者の手の中にあるという次第。
ああめんどくさ……と思うようではいかんのですよね。
この流れに目を輝かせるようでなければ、貴族など務まらないわけで。
ともあれ。
長生きは遺伝するはず。学問的なことは分からないが、経験則的なところで。
だがこの世界、女の出産と男の戦争は手堅い予測を寸断しにかかるから。
「一族のうちに不正を働いた者、また租税を滞納した者があり」
離散、と称すべき状況にまで襲われて。
いまや連絡を取れる親戚は、従姉妹がふたりとのこと。それも嫁ぎ先にて忙しく。
「私はサシュアにある宮内省の出先機関で、春より少録を務める幸いに恵まれました」
提示された官印に、直感した。
アスラーン殿下に俺が勧めた、王室末裔救済案であると。
ひとたび動き出そうものなら、遺漏の生ずる隙間も無いのがトワ系官僚団だ。
若者の身元に偽りはあるまい。
「ならば堂々となさればよろしかろうに」
元近衛兵が声を張り上げる。
軍人あがりにして耳が遠い、まさに層倍のやかましさ。ご近所一帯に響き渡るありさまで。
「しかしあなたもサシュアでしたか。サシュアはいずこ? 殿下のお噂はどこで?」
小さくなるばかりの若者。言えるはずも無かろう。
役人が年末に上京し、親戚を訪問する目的などただひとつ。猟官活動なのだから。
生きているなどとは知らず、知ろうともせず。
仕事の世話をしてくれたよそ人から、ご存命の事実を告げられて。
恥じるべきところ、衰微した一族には喜びもあまりに大きくて。
一族から役人が出れば……前近代だ、便宜を図ってもらえる。ひとりふたりは就職もできる。
さらに上は望めぬかと、従姉妹の婚家にせっつかれ。親族に恵まれず肩身狭い彼女たちの立場を思えば。ちいさな伝手、引きを頼るほか無くて。
だが最もつらくさびしい時期には姿を見せず、いまさら現れた親戚を殿下がどう思うか。
想像がついてしまうから、若者も小さくなっている。
(それでもだ、ヒロ。貴族にとって子孫がいないって事実は)
(そうね、ネヴィル。夜中ふと目が覚めた時、魂まで引き裂かれるような痛みを覚えるの)
(年寄りに孤独は身の毒だぞ。天真会では集会に誘うんだ)
「……面会は許可しよう。場合によっては叩き出すが」
老人を昂奮させるわけにはいかないから。
物分かりの良さそうな青年は、無言で面を伏せていた。
幸いにして、お目覚めの時刻にかち合ったらしい。
ブノワの気配りで暖かく整えられた一室、現れたハサン殿下の足取りは、相変わらずしっかりとしたものだった。
「アリエル?」
まさか、と思った。
夏に冬、季節の変わり目。老人には厳しい折柄だが?
(大丈夫よ。あたしが見えてるわけじゃないみたい)
「なんじゃ、カレワラか。例の件はどうなっとる!」
ふた言めにはこれだもの。心配するだけ無駄であったが、ともかく。
夏ごろであったろうか、ハサン殿下がわがままを言い出した。
「海が見たい」と。
「むかしアリエルに連れられ、鶺鴒湖へ船遊びに出た。今度は海に連れて行くとの約束、果たされぬまま過ぎてしまった」
誓いは子孫において果たされるべしと。
それぐらいなら構いつけぬが本来だが……正直、無茶だ。よほど良い季節を選んでも。
だから、その代わりというわけでもないけれど。
「今日は山深き里より便りが届いております、殿下」
サシュアは北の端にある、荒山関。
かつてはサシュア東端のメル国境、またイゼル州の山中にある関所と並び、王都三関と呼ばれた要衝であった。
だが王国の国境がエッツィオの北まで伸びたいまでは――いや、ハサン殿下の現役当時ですら――すでに国境からはほど遠く、三関の座も重坂関に取って代わられた、ただ急峻なばかりの峠である。
その責任者は当時ですら、俺が部下を飛ばした白金柵の尉よりはマシという程度の扱い。
骨肉の争いを経て王位を掴んだ先々代陛下による、王族冷遇政策のこれが一端で。
だが今となってはそれも良き思い出なのか、貴人たるもの不遇にあろうとその心は変わらぬものであるゆえか、はたまたいろいろお忘れになってしまったものか。ハサン殿下の目には喜びの輝きが宿っていて。
「そなたは……待て待て、思い出した! 首が太いものだから、いつも襟元を開けておった!」
行李の中に潜めておいたものらしき軍服へと、老近衛兵はいつの間にやら着替えを済ませていた。
「ええ。殿下にそれは厳しく『教育』されました」
中央から回されてくる近衛兵また小隊長は、やる気など失せ果てていて。
モラル無きその姿を地元の実力者たちも舐めくさり、士気の頽廃は目を覆わんばかり。
そんな通例を本気で正そうとした貴人があった。
「何事か、その締まり無き姿は!」
襟を正せボタンを留めよ靴を磨けと喧しく。
ふたこと目には「それが陛下の近侍を承る近衛兵か! 仰がれるに相応しき態度を示せ」
「覚えておいでですか、殿下。六十年前の大雪」
片や七十半ば、もうおひと方に至っては九十半ば。
長く生きた男達は数十年を一日のごとく語る、よく見かける光景だが。
この感覚には、どうしてもついてゆけそうにない。
「殿下は三年で異動されましたが、線引きいただいた砦。四十年かけてようやく完成いたしました」
豊かとまでは言えない土地柄、それでも地元は少しずつ資金を貯め工事を進め。
何とか停年に間に合いましたと差し出された図面は、案外器用に描かれていた。
「先年は雪が多く、地元でも難儀しましたが。備蓄倉庫、また避難所へ充てた二の丸のおかげで大事無く過ごせました。ふもとの住民、みな仰ぎ見ております。今年殿下のお噂を耳にしたのも、何かのご縁やもしれません」
「大したことはしておらん!」
ご当人の意識には偽り無い、はず。
だらしない・みすぼらしいのが嫌いなだけで。
砦も立派に改修しようと、そればかりを願っていたに違いないけれど。
それでも言動を貫き通していればこそ、周囲の人を動かすこともできて。
安楽椅子の眼前に広げられた図面の山並みを懐かしげに眺めておいでであった。
どうやらご機嫌うるわしいと、そう拝察したところで。
「もうひとり、お目通りを……殿下の御妹君の玄孫とのこと」
ぽかんと口を開け、まじまじと若者を眺め。
睨みつけたかと思いきや、うつむく額にはっと目を留めて。
やがて赤くなるまぶたに頬。
「宮内省の少録に籍を得たそうです」
その頬をぷくうっと膨らませ、そっぽを向いて。
「せっかく王都にありながら、この歳末に何をぼさっとしておる! 官吏ならば走り回って顔つなぎに励まぬか!」
(そんなことできる方じゃないくせにね)
(気まずい思いはさせない、か。生前にお会いしてみたかったな)
「せっかく来たのに、小遣いだけ渡してもしかたない。何か……そうじゃ。日記を」
物心ついてより、ほぼ一世紀にわたり書き綴られた記憶。
誰も口にはしていなかったが、俺に与えられるものと。周囲みなそう信じていた。
貴族の日記は、記録は、託され継がれ、活かされねばならぬものだから。
宮内少録では、記録を託されても活かせない。
結局のところその中身は、俺に伝えざるを得ないけれど。
日記そのものの所有だけでも、若者に帰せしめておけば。
強情張りで潔癖な殿下にできる、これが精一杯の口利き。
それすら顔を真っ赤にして、やっとのこと口にされていたから。
「海外の便りですが、年明けには手をつけます。来年の秋頃には吉報を」
海へ連れて行く代わりに交わした、約束を。
「遅い! 迎えが来てしまうわ!」
だから先様も避けて通るんですよ、そういう人に限って。
殿下のお邸には、なお用事もあったけれど。
老人の散歩に付き合うぐらいの余裕もあった。
「若い方は正直ですな。広がる未来と胸締め付ける羞恥心、板ばさみに小さくなって。姿ばかり虚勢を張る老醜とは、悩みの質から違う」
宵闇の寒気に、ただ黙々と駒を進めるのは耐え難いから。
隣を行くカレワラ家の老兵を相手に、元近衛兵は舌を回していた。
「よくしてくれた孫が亡くなりまして。以来代わる代わる、たらい回しにされておったのですが。親族会議の口汚さに耐えられず。『都の知り人の世話になる』と飛び出してまいりました」
九十過ぎのハサン殿下に及ばずとも、地元ひとすじ七十年の男にあてなどあるのかと。
愚かな問いを発しなくなるぐらいには、多くの人と出会ってきた。
「山に分け入る前にせめて。殿下も常々口にされていた王都を、待賢門をひとめ見てからと」
待賢門。王宮は東の端、雅院また近衛府のほど近くに建っている。
王国の若き後継たるべき者、老賢人をここより招待すべしと、それが名の由来。
東とはまた、青にして春。全て合わせて、待賢門は近衛府の象徴でもあって。
「その殿下がご存命と伺い、途端に意気地が無くなりました」
「当然だ。上官の命無き突出は許されない。それすら守れぬ男が多くて難儀している」
信じられぬほどおとなに見える近衛府の面々も、思い返せばみな若い。
自主自律など言われるまでも無く身に付けた、勝手放題の公達でもある。
ハサン殿下の規律主義、見習うべきところは多い。
ともあれ待賢門だ。
闇の中聳えるその影は、ずんぐりと何の面白みも無い。
それは俺が、近衛府の連中が、毎朝目にする見慣れた姿で。
だが思えば、初の祭礼。この前でトロットを踏んだ時には昂揚を覚えたものだった。
そんな若者の憧れそのままに門を見上げ、敬礼を施す老人。
目の良い哨兵が気づいたようだ。姿勢を正し、礼を返している。
これもまた近衛府の姿。
師範たちの芸に目を輝かせるもまた、ひとつの姿。
政局のイロハを学び、臭いものに腕を突っ込みかき回し。
またその手を戦場で朱に染める、これ全て近衛府の風景。
仰がれるべきその姿に、俺は責任を負っている。
「帰るか。殿下のお邸に」
闇の中敬礼をほどいた老人が、案外素直に振り返った。
荒山関:愛発関
メル境:不破関
イゼルの関所:鈴鹿関
重坂関:逢坂の関
が、それぞれモデルとなっております




