小夜
同性愛要素を含みますのでご注意ください。
幼なじみの男子に告白された。
薄闇をオレンジ色の頼りない照明が照らしている。足下が掘炬燵式に切り抜かれた卓の上がぼんやりとしているのはしかし、照明のせいではなく酒が回っていたからだと思う。グラスの側面には水の粒が浮かび上がっていた。手に取ると湿った冷たさが掌の熱を奪う。使い古しの消しゴムのように小さくなった氷が、丸くなった角をぶつけ合い小さく軽い音を立てる。溶けた氷で味の薄くなったウーロンハイで唇を湿らせた私は、しなびたポテトフライを口に運び、フライの角を舌でなぞっている。彼は返事をくれと言わんばかりに、私をまっすぐ視ている。切れ長の一重瞼から生えた睫毛は長く、少し濡れていたように思う。三秒と目を合わせていられずに、私は顔を伏せた。馬鹿みたいに伸びた髪の一束が肩口を滑って顔の横に垂れる。その髪に指を挿して梳いてみる。黒い簾の向こうには、自分のものとは別の髪が見えている。栗色の巻き毛。フリルの多いチュニックと相まって小さな顔と体を大きく見せている女の子。他の卓の喧騒を全く気にしない寝顔は私と同じ歳だが少女と形容するのがふさわしく思える。彼女もまた私と彼の幼なじみだ。
昔ながらの友人三人で楽しく飲もう。そういう話だった。一人が寝てしまったからといって私に好きだと告げてきた彼の態度は、なんとも不誠実な気がした。
「こんな事、今言うべきじゃなかった。ごめん」
しびれを切らしたように開かれた彼の唇は乾いていた。私はげんなりして、頬杖をつきながら二本目のポテトフライをくわえた。乾いた男の唇より、寝息を立てている赤く潤いを蓄えた女の唇を見ていたい。私は紙ナプキンで手を拭ってから、彼女の巻き毛に手を伸ばし毛先を指でいじる。彼女はくすぐったそうに喉の奥から息を漏らした。私は指に絡めた巻き毛を解いた。まだ彼女に目を覚ましてほしくはない。
「気持ちよく寝てるんだから、起こすなよ」
卓の向かいで彼の声がした。言われなくても分かってるよ。私は彼女のグラスについた唇の跡を指でなぞる。なら、いいと彼は自分のグラスをあおった。喉仏が幾度か波打つと、酒は空になった。
「まだ飲む?」
卓の隅に投げ出されていた品書きを手に取り、彼に尋ねる。まだ終わるには早い気もしたが、結局締めのお茶漬けを二人で頼んだ。
注文した品が出てくるのを待つ間、私は彼の目を見なかった。ずっと隣で酔いつぶれている女の子を見ていた。
二人前のお茶漬けが運ばれてきても、彼女は目を覚まさない。私は諦めるような気持ちで湯気の立つ茶碗に視線を移した。暗い色の釉薬がかかっている。白米を盛る茶碗に比べ、直径が一回り大きく全体として平たい。形自体は無骨なもので、滑らかな曲線ではないがそれがかえって手に馴染みそうだ。器の中の出汁は照明の色を吸い込んで琥珀色に光っている。出汁に浸かった白米の丘の上に散らされた白ごまと三ッ葉が、アルコールに支配されていた私に食欲を思い出させた。箸を右手に取り、左手で茶碗を持つ。左手にはじんわりと熱が伝わってくる。飯と薬味を出汁の中に崩して、口へかき込むと、より鋭い熱さと共に海苔と山葵の香りが広がり鼻から抜けた。熱さが落ち着いてから咀嚼してみると、山葵の辛みと出汁の塩が米の甘みで和らぐ。たまにアクセントのあられを噛み砕いた時の香ばしさも嬉しい。嚥下した後は香りが残り、熱さは胃に降りていく。
「告白の返事だけど」
茶碗を一旦卓へと戻し、私は切り出した。彼も茶碗を下ろし箸を休める音がした。私は顔を上げて、彼の顔に焦点が定まらないまま、告白への回答を告げた。
「だと思った。知っていた、実は。君がヘテロセクシュアルじゃないってこと。それを確かめたかったのかもしれない」
訥々と語る彼はどこか嬉しそうでもあった。私は再び視線を茶碗に落とし、残りのお茶漬けを平らげた。出汁をすする音がいやに大きな音となって頭に響いていた。
私も彼も茶碗を空にしてしまうと、この席はお開きになった。彼が会計を済ませている間に、私は隣の酔いつぶれた眠り姫を起こしにかかった。目を覚ました彼女は眠そうな半眼でしばらく私の顔を見ていたが、事態を飲み込むと寝てしまっていたことを詫びた。立ち上がろうとした彼女は足下がふらつき倒れそうだったので私が肩を貸した。同性とはいえ彼女は小柄な体格なので、彼女を肩から吊り下げるような形になってしまった。それから三人で店を出た。手前の道路をいくつものエンジン音が一瞬だけ光の筋を残して通り過ぎていく。生温い夜風に流された彼女の巻き毛が頬を撫でた。
「この後どうする」
一歩先を歩いていた彼が、背中を向けたまま言った。急げばまだ終電には間に合う時間であった。
「とりあえず、この子送っていく。心配だしね」
肩から滑り落ちそうだった彼女を、もう一度強く抱え直した。わかったと、彼は振り返った。彼の方は完全に終電を逃したのでどこか泊まる所を探すらしい。私と彼女は駅前の二股になった道で彼と別れた。女二人で肩を寄せ合いながら、照明がまばらな駅前を歩く。終電を考えるなら、足早になりたいところであった。しかし彼女の千鳥足と甘ったるい髪の匂いがぬかるみとなって、私の足を捕らえていた。それでも足を引きずりながらなんとか駅構内へとたどり着いた。電子板を確かめる。終電が今まさにホームを出たことを私は悟った。
「電車、無くなってしまったみたいね」
私が呟くと、彼女は髪を私の肩に押し付けながら、ごめんと言った。なんだか嬉しそうに笑っていた。まったく気楽な笑顔だな。私は呆れ顔をつくったつもりだったが、口元は緩んでしまった。
二人で踵を返して駅の階段を下りるときにはもう、彼女は自分の足でしっかり歩けるようになっていた。そのくせ私の袖口を掴んで放さない。一歩進む度に巻き毛が私の肩を撫でる。霧のように私を包む彼女の匂いに軽い目眩を感じながら、ネットカフェでもないものかと具に裏道に並ぶビルを眺める。いくつかのビルを過ぎると、奥に入りすぎたらしく風俗店の看板が目立ち始めた。引き返そうかと思ったところで、彼女がひとつのビルを指差した。ラブホテルだった。
「いいの?」
「シャワー使いたい」
私は頷いた。
無人のカウンターで鍵を受け取り、私達はひとつの部屋に入った。内装は思ったより綺麗で、ダブルベッドのベッドメイクも問題なく為されていた。色使いがあつらえ向きといった風に、ピンク色多めなのだけが気になった。浴室は彼女が先に使った。その間私はベッドに寝そべって首だけを回して部屋を眺めた。ベッドの向かいの壁には液晶のテレビが掛かっている。電源を入れる気にはならなかった。ベッドの横には小さなテーブルがあって、その上にティッシュとコンドームが置かれていた。ティッシュを箱から一枚抜き取り、鼻をかんでテーブル下のくずかごに丸めて捨てた。やることもないので天井を眺めていて、うたた寝をしそうになったところで彼女が浴室から出てきた。白いバスタオルを体に巻き付けている。巻き毛は濡れて量感が削がれ、その中の何本かは上気した顔に張り付いている。バスタオルに締めつけられている胸は大きい。昔から体は私より小さいが胸だけは私より大きかった。今でも変わらない。ベッドの端に腰掛けた彼女の体をなるべく見ないように私は浴室に向かった。
浴室の扉を開くと、熱を持った湿気がまとわりついてきた。彼女の使ったお湯が冷めきっていなかった。蛇口をひねって新しいお湯を流す。シャワーのお湯が体にぶつかりべたつく汗を流していくと、アルコールで重くなった頭も少し軽くなる気がした。それから少し長い時間をかけて髪と体を念入りに洗った。
浴室から出ると、彼女はもうベッドに潜っていた。寝てしまったかと思ったが、私が風呂からあがったことに音で気付いた彼女は、上体を起こした。服は着ていない。タオルももう巻いてはいなかった。掛け布団で胸元を慎ましく隠している。私もバスタオルを投げ捨てて、彼女の隣に滑り込んだ。ベッドは彼女の体温で温かくなっていた。彼女が枕元のスイッチで灯りを消した。
その夜、セックスはしなかった。ただお互いの体を撫であう。彼女の肌はどこを撫でても絹布に似て滑らかだ。ただ一カ所だけ指に掛かるところがあった。肩口にひとつかさぶたができているらしかった。そのかさぶたの周りを私はしつこく撫でる。
「くすぐったい」
そう言う彼女は、掌を私の大きくない乳房に重ねていた。声に嫌悪の響きは感じられなかった。
懲りずに彼女のかさぶたの周りを円を描くように指先で撫でる。描く円を大きくすると、彼女の胸の感触が指先に伝わる。ひどくやわらかく、どこまでも形を変えていきそうなのに、肌の張りが沈む指を押し返してくる。幾度か大小の円を描いているうちに、私の意識は闇に落ちた。
翌朝、少し早めに私達はホテルを出た。朝の陽がビルの間から射している。風俗店の毒々しいネオンは鳴りをひそめておとなしい。二人で手をつないで裏路地から抜ける角にさしかかった。来た道を振り返ると、私達のいたラブホテルから二人の男が出てくるのが見えた。一人は見知らぬ背の高い筋骨逞しい男だ。もう一人は昨晩私に告白してきた彼だった。
私はつないだ彼女の手を一層強く握って、裏路地を抜けた。
初投稿です。楽しんでいただけたら幸いです。