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くるまのがっこう!
吉田ヒデカズ
人はみんな、一人ひとつ世界を持っている。
今まで生きてきた20年間の経験上、目の前にいるこの人が自分と一生関わることがない存在だということはすぐに判断できた。
桜並木の遊歩道に春北風が吹いて3ヶ月切っていない僕の前髪を鬱陶しく揺らす。4月の日差しが目に突き刺さってきて僕は目を細めた。
周りが見たら確実に不快になる姿を晒している僕とは対照的にその人の風に吹かれる姿は美しく、思わず手を伸ばして触れたくなった。
二十歳の男が女性に抱く一般的な欲とは違った魅力的なものに触れたいという本能が二十年間積み重ねてきた経験と理性を一瞬で打ち負かし、僕は右手を伸ばしてしまった。
「あ、僕の人生終わった」
手を伸ばしきった次の瞬間に頭によぎったその感情がすぐに全身の汗腺を刺激して汗がジワジワと防寒仕様の肌着に染みてくる。
「これは痴漢になるのか・・・ 親になんて言おう・・・ 前科がある人間は就職できるのか・・・」
目の前にいる女性が反応するまでの1秒足らずの時間にたくさんのマイナスイメージが汗腺にさらに強い刺激を与える。
「悲鳴をあげられて、近くを通りかかった男に取り押さえられるんだ」
しかし想像した展開が繰り広げられることはなく、女性はまっすぐに僕の目を見つめてきた。
突き刺さってきていたように感じていた日差しも、今は気にならない。春北風が止んだ。
細く白い綺麗な彼女の手がコートに包まれた胴体とは違って外気に晒されて冷え切った僕の右手を優しく、柔らかく握り締めた。
僕の目をずっと捉えていた彼女の目が一瞬下に逸れるとまた視線を元に戻し彼女はすぐに笑顔になった。
可憐、美人、可愛い。そんなよく聞く表現では表せないほど、その笑顔と雰囲気に僕は幸福感に満たされた。
春の北風が暖かな春風に変わった。桜が散り始めた。同時に彼女の左手がゆっくりと離れ、我に返った僕のあっけにとられた表情を見て彼女は声を出して笑った。
遠くのほうにある古びた鉄橋の上を走る原付の音も川を挟んで向こうの土手を走る中年ランナーの派手なウェアも目に入らない。
感じるのは高くて透き通った笑い声と笑顔、右手に残った彼女の体温。
人はみんな、一人ひとつ世界を持っている。それらが交じり合うとき新しい世界が生まれる。
何がきっかけで世界が生まれるのかは誰にも分からない。
しかし僕が思わず伸ばした手が、彼女との世界を作ったのは間違いない。
その世界がどんな風に広がるのか、このときの僕には分からなかった。
むしろ広がるのかどうかすらも分からない。
そんな僕の世界の外で原付は鉄橋を渡りきり、中年ランナーは息を切らす。
気が付くとこの数十秒で彼女はすでに僕の世界の一部になっていた。