純粋な恋愛を妄想する女
夢に出てきた設定を勢いで書きました。。。
今日も相変わらずの天気だ。時間が早すぎるせいで曇っているのか、ただ日が昇っていないだけなのか判然としない。電車とバスを乗り継ぐために出勤時間が早くなってしまう。そのことにまだ、体が慣れていないためか、緑川桜はぼんやりとした足取りで通勤の大通りを歩いていく。途中でコンビニに寄っていく日もあるが、今日はいつもの通勤集団にまぎれていた。
顔は覚えてないけど。
後姿は覚えつつある。電車の時間は正確だし、人間の行動もかなり一定している。一定のリズムに乗っていないとまた厳しい時間に復帰できないからだろう。見覚えるのある眼鏡のフレームの会社員に、いつも煙草を吸っている専門学校生と思しき少年、日の丸が縫ってありそうなカーキのレトロな色合いのハットを被った老年の男。そして、桜の職場のすぐ側の私立のカトリック系女子校の制服を着た少女。参考書を持っているコや友人と軽やかな会話を楽しんでいるコ、そして、いつも通勤集団の先頭を背筋を伸ばして歩いていく二つに髪を結った少女。彼女はいつも一人で、まっすぐに前を向いて歩いている。その歩調が自分と同じなので、抜くか抜かないかで微妙な間があって覚えてしまった。
家を出る前は薄曇の天気かと思っていたが、すっかり明るくなっていた。朝の色だった。薄く青い空の色。目に入るもの全てがまだ寝ぼけていた色をしている。前を歩く恵須女の紺色のワンピースから白いシャツのコントラストが一番鮮やかだ。
いつもの5つ目の信号。そこで一旦集団は立ち止まる。そして、歩き出してすぐがこの時間でもやっている数少ない店、魚屋だ。このあたりに住み着く人間は本当に昔から住んでいる人だけで、商店が多く飲み屋街もすぐ側で治安が悪くあまり住みたがらないため、余計に物件が少ないという。こんなところでも毎日いろんな魚の発泡スチロールが並べられている。魚の独特の溜まった匂いが店の前を通るときに鼻につく。店先には水を流した後があって、いつもここで転ぶの嫌だと思う。店員も多くて意外と若い店員もいるようだ。カットソーにゴム長靴にゴム前掛けといういでたちで何人かが視界に入る。店頭でも魚を売っているような陳列するスペースもある。
売れるのかな。
そんなことをほぼ毎日考える。そして、今日も何事もなく日々を過ごしていくのだ。
でも、ね。
すぐ前を歩くお嬢様学校の通称、恵須女の少女。潔癖なまでの猛進振り。そして、若い魚屋。
中々いいんじゃない。
頭の中で魚屋が少女に恋をしていると妄想する。それくらいの楽しみくらいいいと思う。どうせ、頭の中で思っている分には害はない。若い肌と艶やかな黒髪を持つ若さの特権の塊のような少女達への嫉妬と純粋な賞賛。いつも、若いと思う。そして、そんな時間が自分にもあったのだという信じられない事実。懐かしすぎて心が苦しくなってしまうほど、切ない思い出。振り返ることは何にもならない。けれど、日常生活にはないときめきを彼女達に託している。
カトリックだから、親はきっと厳しいのよ。ずっと大人しく親に従ってきたような女の子。もしからしたら魚屋の男の子は一目ぼれだったかもしれない。毎朝早くに店に出て冷たい水と氷と猛烈な匂いの中、親方にしかられて同僚からはどやされて。そんな中で視界に入ってきた少女に恋をしちゃうのよね。きっと。中学ぐらいしか出ていないけど、それでも、一生懸命に働くことの意味を知っている。心は社会に先に出た分、他の同じ年の子よりも大人びていて。それでも、恋には今まで自分の学歴とか、仕事とかで積極的にはなれなくて。そんな男の子の純粋な気持ち。いいなぁ。身分違いの恋っていうか。まあ、高校生相手だと犯罪的な感じもするし。
そういった妄想は桜を楽しませた。
けれど、魚屋はずっと声をかけられないまま彼女が卒業していくのを見ていくの。毎朝、彼女の姿を見るだけ。名前も、何も知らなくてただ、彼女の横顔だけしか見られなくて。そのまま、でもいい。そのまま過ぎ去って思い出になっていく、淡い恋心。
今日もその魚屋の前を通る。結局は何も変わらないと思っていた。
「きゃっ」
目の前で少女が転んでしまった。派手に尻餅をついている。勢いのついた自転車が彼女のすぐ側を通り過ぎ、その際にハンドルに彼女のかばんがひっかかって彼女も一緒に引っ張られたのだ。
「大丈夫ですかっ」
その声が重なった。倒した張本人の会社員らしきオジサンはそのまま一度振り返って無言で猛烈なスピードで走り去ってしまった。
桜は苛立たしく思いながらも、少女に駆け寄る。呆然とした顔の少女ははっと左手をみた。そこには魚の発泡スチロール。さっきまで魚がいたらしき痕があり氷水にどっぷりと漬かっていた。悲壮な顔をした少女。
「あぁ、大変ですね」
その声に、桜は自分ともう一人、少女に駆け寄った人物を見た。魚屋さんルックの彼は店の中に入っていく。
「怪我は?」
少女は右膝の痛みを訴える。可愛らしい声だ。ヒロインにぴったりだと思いながら見る。そこは擦り傷が出来ていた。地面と擦れたのだろう。しばらくしみそうな傷だ。
「お湯で洗ってください」
さっきの青年がバケツにぬるま湯を持ってきた。なかなか気がきく。
「ありがとうございます」
顔を赤くして、少女が俯く。
「制服に魚の匂いがついちゃうね」
そういって青年が少女の手を取ってバケツに突っ込む。泡立つところからすると、魚屋さん御用達の石鹸か何かだろうか。
「あらあら」
それを見ていた桜は擦り傷から血が滲みこぼれてくるのを見て、さすがにこれ以上、お嬢様学校の制服を汚すのはかわいそうだと、ハンカチで傷口を押さえた。
「絆創膏は小さいのしかもってないし」
通行人たちは興味深く、もしくは何も見てないように過ぎ去っていく。
「あの、いいです。もう」
俯く少女は注目される恥ずかしさに耐え切れず、立ち上がろうとした、が、顔をしかめて座り込んだ。
「いたっ」
盛大に尻餅をついたらしい。いくら肉が多少ある尻でも痛い。自身も最近経験のある桜はなだめた。
「制服臭いの嫌でしょ、洗って。で、傷もバイキンが入らないようにしないと。学校でやってもらう?」
「あ、ええと」
少女は動揺してしまい顔を赤くして可愛らしい。なんだか、純粋だなと感じる。こんな初々しい反応を自分はしたことがあるか。
「はい、とりあえず、今は石鹸の匂いだから取れたと思う」
「ありがとうございます」
少女の声が震えている。
「おい、どうした?」
魚やルックの年配の男が店先に出てきた。
「自転車と接触しそうになって転んでしまったらしく」
「そうか、怪我してるな、救急箱もってこい」
奥に声をかけると野太い声が返ってきた。
「で、こちらは加害者?」
「いえっ」
反論したのは意外にも少女だ。
「助けていただいて、」
自分でも戸惑ったのだろう。
「そうか。本人は逃げちまったのか」
「みたいです」
救急箱を貰って、青年は少女の足に消毒薬をかけようとしたが、少女がびくっと震える。
「いや、そんな」
「貸してください」
桜は楽しくてそのまま見ていたかったが、少女の錯乱しそうな様子にさすがに申し出た。手際よく消毒とガーゼを張る。男二人は参ったな、という顔で顔を見合わせる、うら若い乙女の足を触れることはまかりならん、ということに、はずかしいやら、情けないやら。
「しばらく、痛そうね」
眉を寄せる少女に少しでも明るく笑ってもらおうとした。
「血が出てきたら、使って」
視界にシスターの姿が目に入った。歩いて5分ほどのところだ。誰かが連絡したのだろう。血相を変えている。
「もう、大丈夫みたいですね」
桜は立ち上がって、一礼する。
「失礼します」
にっこりと微笑む。そして、そのまま歩き出す。何事もなかったように。
「どうしたんですかっ」
シスターの慌てた声に、さえぎられて、彼女を呼び止めるものはいない。足取りかるく、桜は出勤する。
いいなぁ、急接近って?
うきうきしてしまう。これで、少女と彼は出会ったのだ。これからの展開を妄想してしばらくは楽しく過ごせそうだ。
人生なんて、劇的な変化はない。いつだって、変化はゆっくりとしか起こらない。だから、翌日、同じように髪を二つに結った彼女が前を歩いていても、魚屋の前を通り過ぎても、残念にはそれ程思わなかった。
連絡先交換とか、するわけないか。
下手すれば、名前すら名乗らなかったかもしれない。今日はコンビニによっていたため、魚屋の前の信号で一人、はぐれてしまった。
信号が変わって歩き出す。
「おはようございます」
耳の錯覚かと思った。仕事をしながらでも、昨日の彼が頭を小さく下げてくる。
「おはようございます」
突然のことだっただけに、桜はついいつものくせで、飛び切りとまではいかないが一気に笑顔になって答えていた。
まあ、挨拶は気持ちいいものだ。
桜にとっては習慣が増えた。魚屋の前で彼に会えば、頭を下げたり、近ければ挨拶を交わす。今までより魚屋を観察する時間が増えた。
仕事の帰りに前を通っても2枚あるシャッターの半分は閉まっている。そして、もう半分は開いている。
一回買ってみようかな。
彼女との進展を聞けるかもしれない。
二人の恋が進展しているようなこと聞けたりして。
妄想が膨らむが、にやけることはしない。それに、彼がいないかもしれない。桜は、以前から普通の人でも買いに来ているのを見ていた。だが、思い切って買えるかどうかきいてみるのもいいかもしれない。今日は気分がいいし、店頭販売をしていないと断られても、心は平気だ。
都合よく、店先にはアジが並んでいた。
「こんにちは」
声をかけた。中から顔を出したのは、あの彼ではなかった。
ちょっと残念。
「いらっしゃい、ちょっと待っててください」
その人はそう言って、顔を引っ込めた。作業中だったのだろう。申し訳ない。その間に、自分でも買えそうな魚を見ている。客がいるときは滅多にない。それとも、自分が見たことのない昼間に多いのだろうか。
桜が今夜のメニューはアジの南蛮漬けにしようと決めたとき、ようやく店員がやってきた。
「いらっしゃい」
桜は小首を傾げて見せた。さっき見た人とは違う。毎朝挨拶する彼だ。さっきの人は忙しいのだろう。
「こんにちは」
いつものくせで笑顔で挨拶する。
「こんにちは」
機械的に返された気がする。まあ、いいかと桜はアジを2匹下さいといった。
「はい」
威勢よく答えて、彼は紙にアジを包んでくれる。魚屋で買うのは初めてで不思議だ。
「360円になります」
きっちり出したいのに、と思いながら桜は五百円玉を出す。
「140円のおつりです」
手のひらに硬貨が渡される。財布にしまう。
「あの、」
顔を上げる。
「刺身用ではないので、火を通してくださいね」
「はい」
とても、自分に魚は下ろせそうにない。
「フライにするんだったら3枚卸しにしてください」
「ええと、南蛮漬けは?」
「頭を落として、じっくり揚げてください」
「よかった」
下ろしたほうがいいといわれたら、困ってしまう。
「あの」
「はい」
桜は少し見上げる彼の身長が思っていたより高いことに気付く。
「この前の恵須女の子が、」
「はい」
いまさら、彼の服がジーンズにトレーナーといういでたちであることに気付く。いつもの魚屋さんの格好ではない。
「ハンカチをって」
洗濯され、アイロンを当てられたハンカチを出される。彼女に何度か会っているが、そんなそぶりはなかった。動転していたし、彼のほうがインパクトは強かっただろう。
「ああ、別によかったのに」
そう言って受け取る。血がついたものは取れないだろう。それにシルクだから漂白剤も使いにくい。
「あと、これ」
差し出されたのは、デパートの紙袋に入った平たいもの。首をかしげる。
「ハンカチ、汚れてたから」
「あの子が?」
まさかと思う。それとも、親がそうしろといったのだろうか。
「いえ、その」
そのときに、桜はもしかしてと、思った。
「あなたが?」
顔をのぞきこむことを躊躇わせる彼の雰囲気。受け取って、中を見ると同じブランドのハンカチ。柄もまったく同じもの。確実に、魚の値段の5倍はする。
「いいのに、ここまでしなくても」
どうしてだろうと思った。するなら少女がするのだ。
「すみません、余計なこと」
「あなたに怒ってるわけじゃないけど」
「あの、洗濯しても落ちなくて、デパートの開いている時間になかなか休めなくて、やっと買ってきて」
ちょっと感動してしまうような話だ。
「そうなの?ありがとう」
気まずそうな彼にこちらが申し訳なくなった。折角好意でしてくれたことなのに。
いい人だな。
世間知らずともいうが。心の中で評した。
「オレ、ここで働いてる葛城壱といいます」
「ああ、わたしは」
名刺を切らしていることに気付く。
「ごめんなさい、いま、名刺がなくって。緑川桜です」
桜は自分の名前をあまり気に入っていない。緑にどうしてピンクの桜と色が混ざってしまうのかと親のセンスを疑ったものだ。
「葛城さん、親切に新しいものまで用意してくださってありがとうございました」
「いいえ」
「本来なら、あの子からされると思ったので、どうして?」
納得いかない。あの子も所詮、今時の薄情な子だったのだろうか。
「あの子がもっていたのをオレが、返しておくって」
あら。
それは、なかなかいい作戦かもしれない。彼女に彼が声をかける機会を作ったことになる。
ああ、進展だわ。
心の中でほくそ笑む。
「じゃ、あの子にもよろしく」
「え、あ」
桜はホクホクして家路についた。
って、自分の出来事でときめければいいんだけど。
アジは十分においしかった。
壱はようやく彼女に会えることが出来た。最初、彼女に挨拶したとき、無視されるのかと怖かったが、笑顔で返してくれたときは万歳したいほど嬉しかった。滅多にしない、自分の勇気にたくさん水をあげてやりたい。一日うきうきして叱られたほどだ。
桜は、読み違いをしていた。というより、もともと彼女の妄想なのだが。壱は何度もちらちらと桜を眺めていたのだ。電車に乗っているだろうというのはもっているコンビニの袋や、時間帯でわかっていた。長めの黒髪をなびかせて颯爽と歩くさまはカッコイイ。ただ、顔立ちは幼さを残している。かっこよくて可愛いなどお得だと思った。いつから、彼女が通っているのかわからない。ただ、毎日の風景の中に彼女の姿を認める。他にも通勤途中の会社員は多くいる。顔は覚えていない。彼女だけはなんというか空気が違った。
「緑川さんか、桜」
うっとりと呟いてしまう。
「おっ、どうだった?」
われた声がした。この店で働いている雄太だ。主人の息子で年が近いこともあり、何かと相談しあう。
「ああ、どうにか」
頭を抱え込んでしまうほど、恥ずかしかった。雄太が気を利かせて店の奥で休んでいた壱を引っ張り出したのだ。昼からの時間は主人は店にいないのである程度の緊張もほぐれる。
「名前聞いたか?」
頷いた。
「ハンカチは?」
「渡したけど」
「どうしたんだよ」
「呆れてた。やりすぎたかな」
もじもじと悩んでしまう。
「いいって、そのくらいの方が、気付くだろ」
そう言われれば、そうかもしれない。
「どこに勤めてるんだ?」
「わからない。名前しか、聞けなかった」
「ふうん」
「アジを2匹買っていった」
「2匹?」
「どうしたの?」
「一人、暮らしかな」
「さあ、料理するようなことは言ってたけど」
自分でも何をしゃべっていたかは結構あやふやだ。
「もしかしたら、男がいるかもしれないな」
「う」
今更気付いた。一人暮らしの女が魚を2匹買っていくだろうか。
「まあ、そのときはそのときだ。名前も知ったんだし、これからバンバン声かけていけばいいだろう」
元気よく励ましてくれる。
「ありがとう」
だが、知りたくてたまらない。彼女は何をしていて、恋人はいるのだろうか。指輪はしていなかった気がする。職業によっては出来ないこともあるが。
明日も、桜さんは笑ってくれるかな。
「顔にしまりがないぞ、壱っ」
頭を叩かれた。予想以上に痛かった。
さすがに、親方にも知られるようになった。
「壱はあのお嬢さんが好きなのか?」
「親父、ずばり言いすぎ」
息子が苦く笑った。答えに詰まってしまった壱。
「はい」
蚊の鳴くような声でうつむいて答えた。年甲斐もなく、顔が真っ赤になっているのがわかった。
「そうか、そうか。壱も大人になったもんだ」
成人しているので十分大人だとは思うのだが。
「ふん、まあ、いいんじゃないか。当たって砕けろだ」
「親父、それは酷いだろ。数うちゃ当たるかもしれないし」
さすがに似たもの親子で笑ってしまう。面白がってはいるが、温かい応援に胸が温かくなる。
本当に、いい人たちだ。
憂鬱だ。原因はわかっているが、それ程すぐに解決できるものでもないし、面倒だ。何もやる気がおきない。この朝早い出勤も原因のひとつだといえるだろう。天を仰ぐ。そこには青空がのぞいていた。
「おはようございます」
声をかけられて、声のしたほうを習性のように振り向く憂鬱な気分の桜。そこには笑顔の壱がいた。
パブロフのイヌ。
心の中で自分に辛辣に評して、笑顔で挨拶を返す。こんなことすら苦痛になるのは自分が弱いからだろうか。嫌なことばかりが頭の中をよぎって自分の精神状態を疑う。危険だと思っていても、止められない。
死にたいな。
極自然に胸に浮かぶフレーズ。なんだか、疲れてしまう。ときめくものが何もない。橋の途中で足を止める。朝日に反射した光が川面を覆っている。そんな光景にも心を動かされない自分に苛立ってくる。何度目か、忘れた溜息をつく。
自分でコントロールできない。まあ、実際に自殺を図ったことがあるのだから、その境界線は他の人より曖昧なのかもしれない。
まあ、結構大変な作業だからね。
自覚しているので、そう簡単に実行はしない。準備だってあるのだ。
思わず、誰かに甘えてこのことを口走りそうになる。だから、疲れているのだと、さっさと自宅に帰るに限る。多いときは週に1回通っていた魚屋から遠ざかった。一度止めると、次に行きにくくなる。
コンビニで食事を済ましてしまって、怠惰に過ごす。時間が流れてくれるを待つばかりだ。
こういうときに、誰かに会いたいと思わない自分が寂しいやつだと思う。誰かに会えば、不愉快な話しか出来ないからいいのだけれど。
「こんばんは」
その声に桜ははっと顔を上げた。ぼんやり歩いていたから、あの魚屋の前だと気付かなかった。風が肌寒く、薄手のコートを羽織っていた。いつも、魚屋は閉まっている。奥のドアから出てきたらしい。壱が厚手のトレーナーを着ている。
「こんばんは」
桜は普通に返したつもりだ。
「今、帰りですか」
「ええ、あなたも?」
「掃除をしてたら」
人の顔を見ているのも苦痛だ。
「あの、よかったらこれからメシにいきません?」
「すみませんが」
彼なら、あっさりと引き下がってくれるだろう。
「お酒のみます?」
「いえ、そんなに」
「じゃ、和食のおばんざいの店があって」
「あの、葛城さん?」
「緑川さんと、ご飯に行きたいです」
自分はお人よしだと思うことがある。心の中でどれだけ罵倒の言葉を呟いているか、酷い人間だと思う、それでも、正面きって言われると弱い。
「少しだけなら」
「よかった、じゃ、いきましょう。駅の方へ行く道の」
気が変わるのを恐れるように壱は立て続けにしゃべる。店に着いても、お勧めの料理の話でつなぐ。
「緑川さんはどんな料理を?」
「酢の物とか好きですよ」
「自分で作るんですか」
「最近は、まったくですけれど」
「お忙しいんですね」
うまく、会話をつなげてくれる。それ以上の反応がないと新しい話題を持ってくる。気を使っているのがわかる。
「お酒のみたいな」
桜は唐突に呟いた。
「え?」
メニューをじっと眺める桜。さすがに日本酒は苦手なので、チューハイを注文する。
「なんか、見てたらおいしそうに思って」
「そうですか」
自分でも情緒不安定なのはわかっている。ストレスが溜まると、自分の体を苛めたくなる。酒なんてそんなにいいものでもないのだ。さすがに食事の場なので煙草は控える。
「あ、おいしい」
栗の炊き込みご飯がとてもおいしい。秋刀魚も脂が乗って体に悪いかというくらいでお酒で口をすすぐようだ。正直、あんまり食べられないのでと断ってある。肉体労働だからか、壱はよく食べる。
「魚屋さんって、大変そうですよね、朝早いし」
「もう、慣れましたけどね」
「何年目?」
「4年目になろうというとこかな」
酒のせいもあってか砕けたものになっていく。
「ふうん。そっか」
「緑川さんはどんな仕事されてるんですか」
「ええと、事務兼作業員」
「秘書さんとか?」
噴出した桜。一体どこからそんな発想が生まれてくるのか。
「あ、でもジーンズの日もありますよね」
「服は適当だから、会社で作業着に着替えるし」
「作業着ってつなぎ?」
「白衣。お医者さんごっこみたいな」
下から、からかうような眼差しに噴出しそうになる。動揺してしまう。ちょっとやらしい想像をしてしまった。
「どうしても、汚れるから。伝票入力と、問い合わせの応対と、製品の仕上げとか、後は簡単な修理」
いまひとつわからない。
「ええと、修理やさん。電気製品の。簡単なプログラム作りならするけど」
「理系?」
「うん、科学と物理あたり」
「頭よさそう」
「う~ん、悪いんじゃない?」
「どこが」
桜は口元だけゆがめて笑った。
「ああ、おなかいっぱいで眠くなってきたな」
「大丈夫ですか」
「うん」
電車に乗って、バスに乗って。
「あの、何かあったら連絡くださいね」
電話番号を書いて渡す。
「帰ったら、一度、電話くださいね」
「うん」
その場で携帯に入力する。そういう余裕があるなら、大丈夫だろうか。
「面白かったよ、じゃ、ね」
桜は笑顔で手を振った。
家についた途端にトイレに駆け込み、胃の中のものを全部はいた。息を荒くして、苦しい呼吸を収まるまで待つ。顔を洗って、冷蔵庫の冷たい炭酸ジュースを飲みながら窓辺に座る。煙草を深く吸い込む。
最低。
一緒に食べた人に申し訳ないくらいだ。前の仕事をやめてからだ。外に食べに行くと無理をして食べ過ぎてしまう。だから、家に帰ってすぐに吐いてすっきりさせる。同じ釜の飯を食った仲、という仲間意識が人間関係に繋がっていくのだろうと漠然と考えているので、自分のしていることの最低さを感じて自己嫌悪に陥ってしまう。
多分、誰かと結婚すれば落ち着くのだろう。結婚まで行かなくても伴侶になりたいと思えるような相手と付き合うことで落ち着くのだろうと思うが、今までそんな風に考えた相手はいないし、自分の怖がりな性格から経験から出来そうにない。常に強がっているだけだ。
タバコを一本吸いきる事に、約束していた電話をかける。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です。心配かけてすみません。じゃ、また」
有無を言わせずに電話を切る。緊急の用事などもない。
桜は更に新しく火をつけて煙草をふかし続けた。
そういえば、彼女との進展はないのかしら。
壱はすぐに切られた電話を呆然と見つめた。まあ、確かにかなり強引に誘ったが。今を逃すと次はないと確信したのだ。そんなものがあって、連れ出したのだが。なかなか打ち解けてくれたように見えるが。
「あ、また年きくの忘れた」
年など関係ないが、気になる。さすがに30歳ではないだろうが、妙に落ち着いているし、世間のことに詳しいし、でも、童顔だし、可愛らしい声だし。顔だけなら十代。物腰は三十代、服装は二十代。そう分析しているが。出来れば、自分とほとんど変わらないほうがいい。ひとつくらい彼女が上でもいい。
あなた、と呼ばれるときのどきどきしたものは久しぶりだ。
楽しい思いに浸りながら、気持ちよく酔っていた。
わたしも、相当面の皮が厚いわね。
桜は煙草の匂いをシャワーで洗い流し、念のためトワレを少しだけつけていた。
「おはようございます」
壱が声をかけてきてくれる。
「おはようございます」
桜も笑顔で返す。ただ、朝はゆっくり会話を交わすことはない。挨拶くらいだ。これだけ切り取れば、何も変わらない日常だ。
少女はいつも誰かに挨拶しているのは知っていた。顔はそちらに向けなくても、彼の気配をずっとうかがっていたのだ。前を通るだけでも、緊張してしまうくらい。誰も、自分の滑稽な姿なんて目に留めていないのに。
「そうだ、あの子はどうした?」
「毎日電話かけて、がんばってますよ」
「まめだな」
「当然でしょう。中々出会いなんてないと思ってたのに」
「ずっと見てたくせに」
「な」
絶句するが楽しげな声。
「今日は来るのか?」
「帰りが遅い日だそうです。メールにしようかなって」
「なんだよ、でれでれして。なんて呼んでるんだよ、お前」
「ええ、と。その、前に思い切って、下の名前で」
小さな声になる。
「桜さんって」
「可愛いね。向こうは?」
「普通に、苗字で」
「あぁ、進展が」
「これからですって。休みの日に遊びに行こうって」
「どこ?」
「その、ミュージカルに行ってみたいって」
「お前、わかんのか?」
「内容くらいは」
自信なさそうだ。信号待ちを一つ多くしてしまった。慌てて少女は走り出す。
好きな人、いるんだ。
ショックは大きい。大人なのだから当然だと思う。自分たちと変わらない会話だった。恋にどきどきして、気弱になったり、何か出来ないかと考えたり。
くよくよしてる場合じゃないわ。
少女は思い立った。元から後ろ向きな性格ではない。男は手作りに弱いという言葉を信じる。かなり、時間がたってしまったが今更でもお礼をするには遅くはない。
「こんにちは」
元気のいい声がした。
「いらっしゃい」
壱は珍しい恵須女の制服を眩しく見返した。
「遅くなってすみませんでした。ささやかですが、お世話になったお礼をしたいと思いました」
頭を下げて、愛らしくラッピングしたプレゼントを渡す。
「え」
「わたしに出来るのってこれくらいだし」
「ああ、運悪くこけちゃった子だね」
今、思い出したのだろうか。忘れられていたことにショックだ。
「ありがとう」
少しかがんで笑顔でいってくれる。
「でも、申し訳ないよ。たいしたことしてないのに」
「いえ、いらなかったら、捨ててください。あの、クッキーです」
随分可愛らしいものだ。
「あたし、富永愛っていいます。恵須女学館2年3組17歳です」
「葛城壱です」
愛らしくて微笑ましい。
「あの、壱さんって呼んでいいですか」
くすぐったくて恥ずかしい呼び方だ。
さっそく桜にそのことを電話で伝えた。
「可愛いわね」
桜は楽しそうにそう言ってくれた。
「下の名前で呼ばれるってあんまありないから」
「店ではそうでしょ」
「ああ、そうだけど」
桜はなんとなくわかってしまった。何を望んでいるのか。だが、自意識過剰すぎではないか。それに、そんなことをするのは恥ずかしい気がする。
「壱って一番になれってこと?」
「あ、そうそう。父親がつけてくれた。桜さんは、春生まれ?」
さりげない掠める言葉。
「夏生まれだけど、可愛い名前にしたかったらしくって」
「確かに可愛い」
素直な人だと感心する。あんまり自然に接してくれるものだから、警戒も距離も面倒になってくるくらいだ。
「壱って呼べばいいの?」
突然のことに、返事が一拍遅れた。
「うん」
恥ずかしいけど、嬉しさが滲んで顔が真っ赤になった。傍目からかなり不審人物だろう。
かなりサービスしたかな。
「ご飯いきたいな」
「空いてるときに電話くれたらいつでも都合つけるよ」
そう言ってくれると誘いやすい。
「うん」
その時は電話越しなのに、空気が繋がっているんじゃないかと思った。
「すっかり懐かれたな」
「はは」
壱は笑ってごまかす。愛は事あるたびに店に来るようになった。慕ってくれるのは嬉しいが、あまりにお嬢様の制服だけに魚屋に似つかわしくない。
「大丈夫?家の人は心配しない?」
雄太がきいた。
「大丈夫です。あたし、壱さんのことが好きだから来てるんです」
あっさりとした告白。
「んん、それはわかってるんだけどね」
こちらもあっさり返す。
「やっぱり、壱さんには好きな人がいるんですね」
「それもそうなんだけどさ、お嬢ちゃんがこの店にいると厄介なことになるかもしれないんだよ。他人の考えてることなんてひねくれてるから、変な噂が立っちゃ困るし」
「じゃま?」
「壱のためだと思って欲しい」
いつになく真剣な言葉に愛は首をかしげる。
「今は、いい。けど、お嬢ちゃんのことを詳しく壱が知ったら、あいつは動揺する」
「何よ、別にあたしの家は変な集団でもないし、極普通の会社員よ」
会社役員ではあるが。
壱が浮かれて気付かないうちに、事態がややこしくならないうちに、消えて欲しかった。この子は強情だ。どうしたらいいのだろうか。
「なんだ?小娘が来るようなところじゃねぇ、追い出せっ、雄太」
息子もびっくりして振り返る。そこには赤ら顔の主人がいた。酒が入っているらしい。
「び、びっくりした。こんにちは」
「早く帰れっ」
一層大きな声で怒鳴られて、少女は一目散に逃げた。あんなに怖い人だとは知らなかった。
「雄太、話がある、こい」
「はい」
入れ替わりに他のアルバイトに店に立たせる。店の奥は居間になっている。そこから、キッチンや、二階の寝室へと繋がっている。そのひとつに壱が住んでいる。
「珍しいね、こんな時間から」
「飲まずにやってられるか」
怒鳴り返して、顔をしかめる息子。
「で、話って?」
「あのガキの親父の秘書ってヤツがやってきた。本人じゃなくて秘書様だぞ」
「はいはい」
ぐい飲みに酒をついで一気に飲み干す。それを黙って見守る。
「手切れ金を渡すから、娘に近づくなだと。何様のつもりだ、何にも見えてねえじゃねえか。怒鳴り返してやったよ」
「やっぱり、あの子の親って」
「そうだ」
重い沈黙が降りる。
怖いけれど、愛は壱が帰ってくるのを待っていた。そんなに時間はかからないと店に来た直後に雄太から聞きだしていたのだ。親は厳しいから携帯電話は持たしてくれない。まさか、家から長電話するわけにもいかない。それに、ちゃんと会いたいのだ。
「あ、お帰りなさい」
少し寒くなって、制服にマフラーを巻いた愛。目を細めて微笑んだ壱。その手はきつく握りこまれていることに愛は気付かない。
「どこ行ってたの?」
恋人がまるで詰るように愛らしく聞いてみる。
「ちょっとね」
笑顔のまま、壱は立ち止まった。
「教えてよ」
近づいて腕を取ろうとした。その手を振り払われる。とっさのことで驚いた。
「ごめん」
人のいい壱は謝った。だが、拒絶されることなど初めてで愛は目に涙をためる。
「さっき、怖いオジサンに怒鳴られて、壱さんは優しくしてくれると思ったのに、酷い」
「ごめん」
「あたし、壱さんのことが好き」
壱は、歯を食いしばった。
「好きなの。あたしはまだ子供だって分かってる。でも、結婚も出来る歳だし、すぐにお嫁に行くこともできるし。なんだってがんばる。お料理だってお洗濯だって、壱さんのためにがんばりたいの」
壱は自分の口元を覆った。気を抜けば、少女を傷つける言葉しか出てこない。必死で飲み込む。
「壱さんは、あたしのこと嫌い?」
必死の告白に、顔を青ざめて壱は耐えた。
人殺しの娘。
そのことしか頭の中を回っていない。言ったらすっきりするだろうか。
「愛ちゃん」
笑顔でそのままを保つように。
「二度と、ここに来ちゃダメだよ。家族が心配するし、オレは、好きな人がいるんだ」
「本当に?」
子供を断る理由なのではないのか。
「本当」
頼むから、早く目の前からさって欲しい。
「そう。わかったわ」
しょんぼりとして、少女はうなだれる。さすがに答えたらしい。
見送りもせず、壱は立ち尽くした。
「あれ」
桜は、壱を見つけた。
「こんにちは」
「こんにちは」
「あらあら」
桜は壱が泣きそうなのを見てしまった。
「ご飯食べにいこう」
「え、あの」
「私の部屋じゃ嫌なら、ホテルでもいいけど」
なんだろう、この選択肢。
「桜さんの、部屋で」
タクシーに乗せられた。
あまりに淡々として、戸惑う。
「ご飯作ってくれる?」
「あの」
「じゃ、いいや、出前。適当に決めるけど。ビールでいい?」
「桜さん」
「自棄酒大会。私、すごく疲れてるし、いらいらしてるし、へこんでるから。一人だと死ぬと危険だけど、二人なら大丈夫でしょ」
ビールを渡されて一気に飲み干した。体に悪いことをしたい気分。特に話もなく出前と酒を散々重ねる。
「愛ちゃんに告白されちゃった」
「そうなの?おめでとう」
「でも、笑っちゃうんだよ、これが。あの子の親は、オレが大ッ嫌いな人間で、最低な人間で。もし、オレがあの子の恋人だなんてのこのこ出かけていったら見ものだろうな」
「あら、苦難を乗り越えて結ばれるんじゃないの?」
「まさか」
吐き捨てるような台詞。
「オレの親父を殺した男だよ」
「へえ」
「借金して、首が回らなくなって。そんな親父にあの男は保険を勧めたんだ。自殺でも降りる生命保険。生きている間は死刑を待つ囚人だよな。知らなくてさ、オレ。とにかくバイトして少しでも稼がないとって思って」
ビールを煽る。
「そしたら、保険金が下りる11月1日に首つってて。びっくりだよ。全部、あの男に」
後、数十分で日付が変わる。用事があるといっていたのは父親の命日のことだろう。
「そんなのを乗り越えるなんて、ありえない」
下向いて壱は搾り出した。ぼろぼろと涙がこぼれる。
「思い出さないようにしてたのに、平気だったのに」
「よしよし、がんばったね。偉いよ」
髪をなでる。小さい子にするように。壱は泣き続けて、寝入ってしまった。つけていたテレビの深夜番組の昔の映画を見るともなしに見ていた桜。毛布をかけて部屋を温かくする。
「がんばってるね」
自分の弱さなど反吐が出そうだ。それでも、自分の世界を厭う気持ちは止まらないのだ。そういう時期なんだと思う。人間、生きていれば精神的に意味もなくへこむときだってある。見せないようにしているだけで、笑顔で話している相手が自殺のことばかり考えているかもしれないし、家族のことばかりを考えているかもしれない。それを相手に見せなければ、不快な気持ちも生まれないのだ。
世界は、それでいいのだと思う。
魚屋の親父は父親のように接してくれるという。その安心感と居心地の良さにくじけそうになってもどうにかやってこれたという。
「でも、ずっと魚屋やっていくわけにもいかないし」
日曜の朝。気だるく酒臭い部屋で起きた壱。寝ぼけた桜についてきてもらって墓参りに行こうとしている。南のほうだといったら着いてきたのだ。人気の少ない2両編成の電車。暖房をつけなくても、入り込む日差しが車内を暖めて気持ちも弛む。
「何したかったんだっけ?」
「大学卒業して、営業やってた」
「建設現場で働きながら?」
「そう」
並んで座る二人に注ぐ日差しは温かく、深酒した癖に早起きした2人は転寝してしまいそうだ。半分ふわふわとした意識の中でとりとめもなく話している。
「意外」
「え」
「大学卒業とは思わなかった」
「魚屋だから?」
「うん」
素直すぎる。日差しを受けて明るく輝いている柔らかそうな髪をなでたいなあと思いつつ、隣を眺める壱。
「お金ためて、留学しようかな」
「遊んじゃうよ?」
大抵、日本人が留学すると語学研修という無駄な時間にとられて中途半端な語学しか身につけられないのは有名な話だ。
なでたいなぁと、まだ考えつつ嫌がるかな、と思案を始める。
「遊ぶ時間ないと思うし」
「どうして?」
「MBAとりたいから」
桜はその飛躍に笑った。かわいいなぁ、とあいも変わらず考えながら満足そうに目を細めて彼女を眺めることにする。
「いい意味で裏切るわね。ほんと」
「費用は、あと一年くらいかかるかもしれない」
「ふうん」
「溜まったら、一緒に来て」
「ん?」
桜は首をかしげた。じっと壱を見上げる。
「あれ?」
「あれ?じゃなくて。というか桜さん、何でか知らないけど、オレと女子高校生をくっつけたがってなかった?」
「ううんとね」
だって、絵になるから。妄想のネタだといいにくい。目をそらした。
「桜さん」
顔を強引に壱に向けられる。
どきどき、ねぇ。
「ときめくかっていうとね」
「オレはずっとときめいてるけど」
桜はその即答に思わず噴出してしまった。きゃっきゃと喜んで壱の腕をバンバン叩く。
「可愛いっ」
つぼに嵌ったようだ。
「いいわ、壱。可愛いわ」
恥ずかしいのでその口を塞いでやりたい。
「桜さん」
「ごめん、ごめん」
肩で息をして、桜は呼吸を整える。かわいいといわれて不本意そうな壱。男としてやはりそこは譲れないと。
「カッコイイと思うよ、壱は。ただ、私にはよく分からない」
「なにそれ。じゃ、付き合ってみよう。恋人っぽいことしてなれたら平気?」
「ああ、慣れるっていいかも」
そんな調子だから、壱は結局今回の墓参りで、恋人とは紹介できなかった。
それでも、帰りはハイヒールで急な階段は危ないからと、手をつないでゆっくりと帰っていった。




