芝風
2012年暮れのバトル仮面舞踏会(お題「金」)に出品した「長電話」のリメイク版です。
悪戦苦闘の末なんとか提出しましたが、書きたいことが書けずにいた悔いが残り、大改稿しました。さりとて、出来が良くなったかというと怪しいものですが。
バトカメ感想でいただきましたように、これは落語の「芝浜」を範にした話です。リメイク版で、オマージュとしてさらにはっきりさせました。
コタツの上のPCに向かって、徹は一心にキーボードを打ち続けている。その丸い背を一瞥すると、香津美は部屋へ入りかけた身を引き、そっとドアを閉じた。古アパートから振り返れば、ひしめく家々の屋根が見渡せた。白い息がまだ荒いのは、帰宅途中の長い階段を上ってきたせいだ。錆びた手すりに身を寄せながら、ポケットから取り出したカップ酒に口をつけると、熱い塊が喉元を通り過ぎた。
枯れ枝を揺らし、冷たい風が鼻を突く。その感覚が突然ある匂いを呼び覚まして、高らかに胸を打ち鳴らす。
携帯の着信音がして開くと、マナからだ。滅多に話さない友人だが、そろそろかかってくる頃だった。
火事だって、大変だったね、と開口一番は予想通りの陣中見舞い。
「うん、貰い火でさ。ひどい目に遭っちゃった。徹なんかせっかくの二百万が灰になってがっくり。今は六畳一間の侘び住まいよ」
二百万て何、第一徹って誰さ、と怪訝な声が返る。そう言えば、彼女と最後に話した後に出会ったのだと気がついた。
レースの一点買いが当たって、浮かれ気分のまま付き合いで出た春先の合コンだった。向こうのメンツの善し悪しを言えるほど、こちらも上等ではなかったが、それにしても徹の存在感は希薄すぎた。三次会のカラオケでたまたま隣席になり、それも彼の落としたUSBメモリーを香津美が拾わなければ、言葉も交わさなかったろう。
「でね、何が入っているのと訊いたら、自作の小説と言うじゃない。たちまち興味をそそられたわけ」
あんた、小説なんて読むのと、意外そうなマナ。
読書は好きだった。今は一番とは言えないが、オンライン小説はちょくちょく目を通している。思春期は自分で書くほど熱を入れ、才能の限界を感じて読み専門になって結構長い。だから多少は目が肥えていると自負がある。はにかむ徹にメモリーの中身を読ませてもらい、目を見張った。
「もしかしたら、スゴい才能持ちかと思って、付き合い始めたのよ」
小説は書きかけのファンタジー長編で、出会う度に進む物語が、香津美には待ち遠しくてたまらない。ただ日々のアルバイトで精魂尽き果てるせいか、恐ろしいほどの遅筆だ。そんな折り、建て替えだと徹がアパートを追い出され、しばらく置いてくれと頼ってきた。
「でも条件を出したの。生活の面倒を私が見るから、小説を必ず完成させて公募に出してって」
それはあんたらしいよねと、電話の向こうで笑い声。
もともと徹もネットで公募の存在を知り、金になるかもしれないと書き始めたそうだ。こうして一緒に暮らし始めたのが、夏の盛りだった。
同居を始めて徹が家事をすると申し出た。いくら執筆に専念するとはいえ、多少他のことをした方が刺激になっていいらしい。最初は不手際も多かったが、やがて雑然とした2Kが小綺麗になり、コンビニ弁当が多かった食卓に手作りの総菜が並びだした。
「疲れて帰って来るじゃない。そうすると窓には灯りが点いていて、お風呂は湧いている、テーブルには美味しい料理がある、側には徹の笑顔があるで、もう幸せ気分がじんわりと広がってね」
それはまた結構なことで――苦笑が返って、香津美は大きく首を振った。
「実はそうじゃなかったの」
ふと違和感が心の隅に宿って、次第に大きな焦燥へと変わっていった。喜々として家事をこなす徹が、いつの間にか執筆から遠のいていたからだ。それとなく水を向けてみても、気乗りがしないと言葉を濁す。こればかりは書こうと思って書けるものでないと、創作を僅かでもかじった香津美にはよく分かっている。
「もう、あの作品が未完のまま終わるんじゃないか、徹のせっかくの才能が埋もれちゃうのかと、気が気じゃなかったわ」
夕食の手間が徹の気を削がないよう、外食を増やした。また休日には創作のヒントにならないかと、映画館や催し物へ頻繁に足を運ぶ。重なる出費を徹は心配したが、香津美の鷹揚さにやっと思うところがあったのだろう。再びPCに向かい出して、彼女を喜ばせた。
そこへ年の暮れ、徹が拾った財布を手に入れた。三月前警察に届け出たが、持ち主が現れなかったのだ
「小銭が千円そこそこで、よく受け取りに行ったわよ。でもレシートに紛れて宝くじが一枚入っていてね」
へえ、と一呼吸置いて、あっそれ、とマナが声を上げる。
「そう、それが二百万円の当たり券だったわけ」
帯封のついた二つの札束を前に、徹はこれで少しは恩返しができたねと、満面の笑みを浮かべた。このところさすがに手持ちが怪しくなっていたが、これで正月を安心して迎えられると、その夜は久し振りの大判振る舞いだった。
「で、真夜中に隣から火が出たのね」
ああ――マナが喉奥でうめいて、それはそれはと後が消える。
貴重品の入ったバッグとPCをそれぞれ抱えて飛び出したものの、家財一切、もちろんタンスの引き出しに入れた札束も全て灰よ、と香津美は言った。が、年末を寒空の下で過ごすわけにもいかない。僅か一日で終わった幸福の落差に呆然とする徹を叱咤し、なんとか安アパートの一室を確保したのだ。
「でも悪いことばかりじゃなかったわ。徹がやっと本気を出してね。昨日起き出してから食べるのも忘れて、ずっとPCにかかりっきり。そう言うわけだから――」
当分レースはお預け、と香津美は小さく笑った。
「なんせ、一生ものの一点買いしちゃったし」
電話の向こうでマナの笑い声が響いて、当てても外れてもあんたは一点買い専門だからね、と返ってくる。
――コウボかなんだかに当たるよう祈ってる。じゃあね。
別れの挨拶をして、電話が切れた。
携帯を閉じた香津美は、肩越しに部屋のドアを見やった。徹の寝食を忘れての集中は、今まで見たこともない鬼気迫るものだ。しかし、これでなくては困る。彼に賭けた日から、どれほど待ち望んでいたことか。
賭けるのは無闇な予想ではない。いろいろ研究を重ねた結果だし、外れる場合もあるが、回数は少なく金額も押さえてある。しかし、全ては馬が走ってこそのレースだ。
走らない馬、書かない徹。すっぱり諦めるには小説への夢が捨てきれず、焦燥感だけが募っていく。溜まりに溜まった不満を晴らそうと、やめたはずを思わず買った秋の大賞。今振り返れば準備の足りない一点買いだった。手持ちがますます心細くなったものの、徹への出費をやめるわけには行かない。
そんな時、目の前にあった札束。零細企業ながら社長に信頼され、管理を任された現金だ。倍率が低い複勝でも元手が多ければと、気づいたときには手を出していた。そして、まさかの大番狂わせ。
あの時の恐怖を思いだし、香津美は身震いした。更に震撼とさせたのが、宝くじの札束を前にした徹の表情だ。まるで書く気を無くした腑抜けた笑顔。すでに深い失望の中にいた香津美には、火事は何ほどでもなかった。いや、火事こそツキを呼んだのだ。傍目には散々と映るだろうが、徹は真剣に書き出し、会社の金を密かに返すことができた。あの二百万を無事に持ち出したことは誰にも言えない。もちろん徹にも。
全ての憂いが消えた今、レースは佳境にはいっている。全力を振り絞る徹を、胸の内で熱く叫ぶ。香津美はぬるくなったカップ酒をひと息に煽った。頭の芯へ上る酔い。
寒風の中深呼吸をすると、蹄が蹴散らす芝の匂いが確かにした。
(了)