プラタナス
こちらは「鈴」をテーマに書いたものに、手を加えました。
●少女から渡されたロザリオには鈴がついている――
砲撃の音が次第に近づいて来た。地が絶え間なく揺れ、黒と茶の斑な煙が厚く立ち上る。その合間に夕日のぼんやりした明かりが差し込んで、荒地の彼方にぽつんと枝を伸ばした木の影が見えた。隊長がそれを差して何か叫んでいる。耳をそばだてても、立て続けに起こる轟音がそれをかき消してよく聞こえない。
あの木はプラタナスだ。
僕は襟元からロザリオを引き出し、先についている鈴を振った。爆発音の中でそれは小さく鳴り、僕の手の中で震えた。鈴の音は、彼女の祈りの声に似ていた。
カーニバルが終わった灰の水曜日、告解室を出た時、鈴の音が聞こえた。古ぼけた礼拝堂を覗くと、跪いていた彼女が立ち上がった所だった。僕に気付いて驚きに目を見張る。長く憧れていたハシバミ色の瞳。戸惑った僕は話しかけることもできず、軽く頭を下げて教会の玄関に向かった。石段を降りながら、これが最後かもしれないのにと後悔したが、今更との思いで足を止めることもできない。
石段脇のプラタナスのそばまで来たとき、彼女が僕の名を呼んだ。
スカートを翻して、軽い足取りで駆け寄ってくる。僕を見上げ、訴えるように見つめてくる。慌てた僕は、何をしてたの、と分りきった事を訊いてしまった。けれど小さく開いた唇は、なかなか応えない。沈黙に耐えきれなくなり、それじゃ、と向けた背に、彼女が切羽詰まった声をかけた。
「あなたのことを……!」
あなたが無事に帰る事ができるように――
僕は徴兵で、翌日村を発つことになっていた。誰から聞いたのか、思いがけない言葉を告げられ、僕の重い心はたちまち羽が生えて飛び上がった。毎日お祈りしていますからと言いながら、彼女は首にかけたロザリオをはずして僕の手に押し込んだ。クルスの横についた鈴が、彼女の言葉と同じように震えて鳴る。僕を覗き込む瞳に、プラタナスの枝越しの淡い陽光が揺れていた。
「突撃」
隊長の叫び声とともに、塹壕の兵士達が雄叫びを上げて一斉に飛び出す。目に映るのは茜色の空と、噴き上がる黒煙、揺れる大地。すぐ脇で轟く爆発音。雨のように降り注ぐ石塵。前にいたはずの人影がいつの間にか消え、厚い爆煙の中にただ一人取り残される。どこに行き着くのかも分からず、必死に足を動かした。
風が吹き、塵煙が切れる。目を向けた先で、木の根元に身を隠した仲間が早く来いと手を振っている。あそこ。足を早めて飛び込もうとした時、突然熱いものが胸を貫いた。
ぐるりと世界が回り、辺りに鳴り轟いていた砲撃音が遠のく。
ずっしりとした静寂が降りてくる。
鈴の音が耳元で鳴った。
彼女の祈りの声。
茜空いっぱいに伸びる木の枝影。
その一本一本に、沢山の丸いもの下がっている。
丸いプラタナスの実――数え切れないほどの鈴。
鈴が揺れる。
鈴の音が重なる。
彼女の祈りが、幾重にも重なる。
降りそそぐ祈りの言葉。
あなたが無事に帰る事ができるように――
了
プラタナスは和名を「鈴懸の木」といって、その実がなっている様子は丸い鈴がたくさん下がってみえます。
もっとも「鈴懸」というのは、山伏の着る「篠懸」の房に似ているところからきているのだそうです。