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介護プランB

小説イベント第7回かきあげ!「機械式」に投稿した作品です。


介護する者と介護される者の淡々とした日々。

「介護プランB一ヶ月用キットの御用意ができました」

メカニックが出た後に、ケアマネジャーがドアから顔を見せた。居間には空間の半分を占め、白い大きな繭のようなものが置かれている。朋美が近づくと、繭の上部が持ち上がり、清潔なベッドに横たわる老女の姿が現れた。

すっかり薄くなった白髪、頬骨がうかぶ顔にはいくつもの深い皺が刻まれている。乾いて生気のない肌は薄くて、触れば脆く破れてしまいそうだった。胸元に組まれた手の間には、手箱が大事そうに挟まれている。画面で見慣れていた相貌だが、こうして実際に相対すると、話しかける朋美の喉も堅くなった。

「……お母さん」

睫の震えもなく、眼球を覆う皮の膜がゆっくりあがり、白い濁りの混じる瞳が現れた。


「お母さん、お昼よ」

朋美の声かけに、老母はそれまで見ていたテレビドラマから目を離した。イスの肘掛けに両手をかけて体重を乗せると、その動きに合わせて介護イスの腰掛け部分が徐々に前傾し、立ち上がり動作を補助した。そのままイスから離れた肘掛けが歩行補助具となって、慎重に足を運ぶ母をダイニングのテーブルに誘った。

箸をとる母の一挙手一投足を見守りながら、こうして向き合い食事をするのは、母の退職祝いを共にして以来と朋美は気づく。夫を先に亡くした母は、しばらくの一人暮らしを経、認知マーカーが出た後は仕事で多忙な一人娘を煩わせず、自分で手配をした老人ホームへ入ったのだ。

ごちそうさまと母が茶をすする。その前の食器には、料理が半分ほど残されたままだ。

「あまり……おいしくないの」

「ごめん、今度はお母さんの好きなものにするわ」

もっとも別のフードパックにするだけだが、なにが母の好物だったか朋美は思い出せない。後片づけをしながら一緒に暮らした頃の記憶をたどっていると、居間に戻った母から声がかかった。

「ねえ、なにかない? お腹空いちゃって」

量は多く食べる母だったので無理はない。ストックから取り出したおやつ系の袋を母に渡すと、ひったくるように受け取り、袋を開けるや貪るように食べ始めた。口や周囲にカスをまき散らすその勢いがすさまじい。見ると、いつも大事にかかえていた手箱が足下に落ちていた。ほら落ちてるよと、拾って差し出した途端。

「あたしのよ!」

奪い取る手の爪が朋美の手の甲に傷をつけた。

「盗らないから、大丈夫」

身を堅くする老母の肩を優しくなでながら、朋美はため息をついた。手箱には、いくつかの宝石類と口座のパスワードが書かれた手帳など、母の大事な物が入っている。ずいぶん前に、自分に何かあったら娘の朋美に渡すわねと言っていたが、おそらく忘れてしまったのだろう。

認知症の特効薬は進行を遅らせる効果はあるが、人間の老化を止めるわけではなく、寿命がこれほど延びては肉体的限界として脳の衰えは避けられない。それに伴う行動変化はあるものの、朋美はなにかしら母と語り合えるのではと希望を持っていた。

しかし、それは望むべくもない。今朝などは「あなたどなた?」と聞かれたのだ。何度か話しかける内に思い出したようだが、やがてはそれもできなくなるのだろう。

母の足下で、自動清掃機が床の食べカスを吸い込んでいく。介護用に最適化した部屋は、家事の完全機械化を促進させ、その昔介護者が負っていた多大な肉体的負担は、住居環境と介護用具の進化でほぼ補えるまでになっていた。

チャイムが鳴って散歩の時間を告げる。再び介護イスから離れた補助具に掴まる母を、朋美はベランダから外の庭へ引いていった。

マンションの共同庭園は木々にあふれ、歩きやすい平坦な小道が通っている。色づき始めた葉がさざめき、揺れる木漏れ日を見上げていると、慌ただしい日々に失っていたものが朋美の内にあふれてくる。

「お母さん、きれいねえ」

思わず母に呟くが、薄い白髪の頭は地面を見下ろしたまま無表情だ。元来インドア派の母は、外界には気持ちが動かないらしい。自分の性向も母似との自覚のある朋美は、自分もいずれ自然に対してこうなるのかと思う。

たいした会話もできず介護の日々が過ぎていく。プラン日数が一ヶ月のため母の衰えは日毎に進み、ついに補助具での掴まり歩行もできなくなった。

家庭風呂での入浴も、介護キット内部の浴槽を使うに至る。完全自動化での入浴も可能だが、身体を洗うことだけは朋美自身が行った。低カロリーの食事のため大食の割には痩せ気味の身体を、自前で奮発したボディシャンプーの泡で丁寧に洗うと、母は気持ちよさそうに目を細める。無為な日々の中で、朋美自身も安らぐひとときだった。

個人に合わせた薬剤と食事による排便コントロールで、介護者の悩みであった突然の粗相もなくなり、排泄されるとセンサーが知らせてくれる。介護下着に入った有機物を分解する微生物のおかげで、臭いもたいしたことはない。

最後の週は雨が続いた。すでに母はドラマにも興味を失い、今や窓ガラスの雨粒を眺めるばかりだ。それでも経口節食は可能で昼食のスプーンを口に運ぶと、今度はぼんやりした視線を娘に向けてくる。おいしい?と訊きながら、

「そう言えば、お母さんの好物は天ぷらだったわね。やっと思い出したけど、もう食べさせられなくてごめんね」

その濁った瞳に込められる何かがあるとも思えないが、朋美は語りかけずにはいられない。

一口一口嚥下を確認しながら昼食を終える。食器を片づけながら、もはや自覚がなくなった母に対して何をしても、それは朋美自身の満足のために過ぎないとの事実を改めて思い知らされた。

散歩時間を告げるチャイムが鳴る。雨はすでに止んで、薄くなった雲を通して明るさが戻りつつあった。今更たいして好きでもない外へ出てもと思ったが、母はいつになくガラス戸の向こうを凝視している。

「お散歩いってみようか」

 ハンドルを取る車椅子は半駆動なので、ほとんど力を入れずに押すことができた。庭園の小道は排水性の高いタイルが敷かれており、水溜まりができる間もなく、すでに乾き始めている。それでも時折の風が吹くたび、張り出した枝から雫の落ちる音がぱたぱたと響いた。

進むにつれ左右の緑が遠のき、小道はベンチの並ぶ広場で終わる。崖縁の柵の向こうは川が流れ、広い空が見渡せた。ふと母を見ると珍しく眼差しが上がり、風に流れる雲を追っている。つられて朋美も見上げる内に、雲の切れ間から光の帯が伸びて、川面のさざ波の上で照り映えた。

――きれいねえ。

突然朋美の言い掛けた言葉が、脇からあがる。驚いて見下ろすと、今までの日々ではなかった穏やかな表情で、母が言葉を紡ぎ出していた。

「雨の日にね、小さかったあなたが迷子になったの。ほんのちょっと目を離した隙にいなくなってね」

――真っ青になって探し回ったっけ。

「あれほど望んで授かった子なのに、早くGPS登録しとけば良かったと、自分が情けなかった。まだ数年しか過ごしてないのに、これでお別れかと思って本当に悲しくて、ごめんなさい、お願い、戻って戻ってと何度もね」

やっとで見つけたあなたは、少し離れたビルの縁石にちょこんと座っていて、と、そこで回顧の深い安堵が漏れる。

「その時にね、空にあれが輝いて……ああ、一度空へ行ったけど、あの光りを伝って戻ってきてくれたんだって、こんなお母さんのところにまた来てくれたんだって、もう」

 嬉しくって嬉しくって――と、空の光りを見上げながらの語りは、次第に取り留めなくなり、やがて消えていった。


「介護プランBは終了です。お疲れさまでした」

ケアマネジャーのほほえみと共に、介護キットは運び出されていった。介護プランBは、希望者の死ぬ数年前の記憶や状態を記録し再現する精巧なAIを、遺族が選択する場合に介護できる制度だ。親元を離れ、その死に目にも会えず後悔する遺族のケアのために始められたという。

朋美にとって最初は無為な日々に後悔もあったが、最期の時に表れた母の思い出は慰めになった。これで納骨と自分の残る日々へ踏み出せる。退職年齢があがりようやく介護時間を確保できた朋美も、すでに認知マーカーがでる年齢となっていた。


(了)

お読みいただき、ありがとうございました。

認知症のお年寄りが周囲に増え始め、わが身を思っていろいろ複雑です。

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