バロック
南欧映画的ななにか。
ぐらぐらする前歯を舌先でいじっていると、鐘楼を飛び立った鳩が青空を横切った。白い翼がオリーブ畑の向こうに消えていく。
「ほら、キコ! よそ見をするからココアがこぼれてるじゃない」
ピアの叱責に、あわてて胸元を見下ろしたキコは口を尖らせた。
「こぼれてないよ」
「シミがついてるわよ」
ここ、と、糊のきいたよそ行きのレースタイを引っぱられる。
「こんなの見えやしないよ。なんだってピアが気にするのさ」
「マリアンナがお嫁にいったら、あたしがあんたの面倒を見なくちゃならないでしょ」
つんとそびやかせた鼻をキコが捻らなかったのは、今日が長姉の結婚式で、見知らぬ親戚や客がたくさんいたからだ。が、つい昨日まで取っ組み合いの喧嘩をしていた相手に、姉風を吹かれるのは大いにしゃくに障った。
「マリアンナがいなくてもラーラがいるもん」
「なんど言ったらわかるの? ラーラは町の寄宿舎に入ることになったのよ」
長姉に贈られた指輪のダイヤモンドの大きさと次姉への学費援助は、花婿の器量の大きさ示すものとして村では大いに話題になっていた。
「やっぱり結婚するならお金持ちよね。あたしもうんときれいになって、お金持ちに奉公して見初められるんだ」
ピアがほれぼれと視線を送る先には、本日の主役である新郎新婦が祝福の輪の中で笑顔を振りまいている。花嫁姿のマリアンナは輝くばかりで、毎日すぐ側で顔を合わせていたキコですら、女神とみまごう美しさだ。傍らでは白髪まじりの花婿が、襟の上に陽の光を何度もすべらせている。
気になる前歯を舌先で揺らしていると、こちらに気づいた花嫁が手招きした。キコはココアのカップをテーブルに置いて小走りに近づき、花嫁の方も「失礼」と繰り返して人の輪から出てくる。
「ココアはおいしい?」
「どうして知っているの?」
目を丸くするキコにマリアンナはふふっと笑い、手にしたハンカチを舌先で湿らせた。レース襟を軽くこすり、弟のきかん気な口の周りを優しく拭いながら。
「リエトは?」
問いのささやき。キコが首を振ると、紅の唇と白い歯の間から小さなため息がもれた。が、それも背後からかかる新郎の声に、たちまちあふれる笑顔でかき消える。
「どう? 前歯は抜けた?」
弟の大口をのぞき込んだマリアンナは、好きなものをたくさん食べなさいとキスをし、再び人々の群の中に戻っていった。
陽は教会の十字架の真上にかかり、婚礼の宴はたけなわだ。次から次へとテーブルに並ぶ豪華な料理に招待客は舌鼓を打ち、歓談の声はますます高く青空に上る。
ココアの残りを飲み干したキコは、ピアに気づかれないよう、そっとテラス脇の階段へ向かった。と、柱の陰に椅子に腰掛けた父がいる。一瞬身がすくんだが、その重たげな眼差しは手すり向こうのオリーブ畑に投げかけられ、見とがめられることはなかった。
階段を下りてしばらく行った小道から、取り入れ近い麦畑のあぜへ入る。背を越える麦のトンネルを突き進んでいると、豊かに実った穂の間から、また鳩の群が横切るのが見えた。
鳩――リエトはあの鳩をくれるかもしれない。
キコの胸はふくらんでいる。
あの時の麦も高く実っていた。畑の脇をマリアンナに連れられているとリエトがきて、鳩のおもちゃを見せたのだ。ほしいかと訊くのでうなずけば、じゃあ捕まえたらあげようと空に放った。ゴムの羽ばたきは意外に飛んで、小麦の金を越え、さらにオリーブの銀の上を伸びていく。キコは懸命に追った。ところが、高度が下がってもう少しだと思ったとたん、石垣向こうに消えてしまったのだ。駆け寄ると、崖下の波間に落ちる白いひとひらが見えた。
おまけに消沈して戻れば、マリアンナとリエトの姿も見えない。いくら呼んでも応えはなく、再び二人と出会えたのは影がだいぶ伸びたころだった。鳩を捕まえ損ねて不機嫌なキコに、リエトはささやいた。
――俺の言うことをきいたら、また作ってあげよう。
だからキコはリエトのもとへ、なんどもマリアンナを呼び出した。けれど、それがぱったり途絶えたのはいつからだろう。しかもリエトが村を離れるとの噂もあって、鳩の約束はどうなるかとキコは内心やきもきしていた。その矢先。
――太陽が教会のいちばんてっぺんにきたら、みんなに内緒でうちにおいで。渡したいものがあるから。
久しぶりにきたリエトからの言葉。
麦畑を抜けて道にあがったところで、同じ方向へ行く郵便車から声をかけられた。
「キコじゃないか。マリアンナの披露宴はどうした」
「リエトんとこ行くんだ」
ああ、とうなずいた運転席のパオロは、乗れと顎を上げた。
「どうだい、金持ち様の披露宴は」
「たくさん人がきて、ごちそうもたくさん」
「そりゃ楽しみだ。俺も郵便袋を駅に届けたらご相伴にあずかるつもりでな」
なんにせよ村人全部をご招待とは豪勢なこったと、パオロはギアを入れアクセルを踏みこむ。
「父ちゃんの機嫌はどうだ」
「オリーブ畑ばかり見てる」
無精髭の散る喉がごろりと鳴って、まあ、これで手放さずにすんだことだしと、つぶやきが漏れた。
いくらもしないうちに目的の楡の木が見えてくる。木陰に戸口を打ちつけた家があって、玄関先では青年が一人ぼんやりとベンチに腰かけていた。
「リエト!」
車が止まるやキコが飛び降りると、やあと顔をあげる。軽く挨拶を交わした運転席からパオロが。
「この先で待っているからな」
リエトはうなずき、郵便車が離れる間にキコへ微笑みかけた。
「マリアンナの花嫁姿はどうだった?」
「まっ白いふわふわした布がいっぱいで、すごくきれいだった」
そうか、と、リエトは帽子のつばを引き下ろしながら歩を進め、家の背後に広がる麦畑を一望した。その背はしばらく動かなかったが、ようやく肩が大きく上下して、キコが待ちわびた言葉がやってくる。
「これを渡したいんだ」
しかし差し出されたのは、予想よりもはるかに小さなものだ。握ればキコの手にも隠れるほどの小瓶。中で白く細長い小粒が転がり、かすかな音をたてた。
「真珠だよ。昔親父が海岸で拾ってお袋に贈ったんだ」
お前に言ってもしょうがないな、と首をすくめる。
「マリアンナに渡してくれ。俺からだと言わないで」
訝しげにキコがうなずく。駄賃だとリエトは色セロファンで包んだ飴を三つよこし、旅行鞄を持って郵便車に向かった。前歯をしきりに舌先でいじりながら、キコは小瓶と飴を交互に見やる。と、郵便車のドアが開く音に気づき、急いで駆け寄った。
「リエト! 鳩は?」
青年の目がしばたたく。
「ごめん。忘れてた」
「こんど帰ってきたら作ってくれる?」
すがるようなキコへ、リエトは頬をかすかに上げて「ああ」と息をもらした。
郵便車が赤い砂ぼこりをあげて、麦畑の彼方へ消えていく。キコはもと来た道を引き返しながら、セロファンから出した飴を口の中へ放り込んだ。脚がいささか重いのは、帰路のためだけではない。唾でいっぱいの口の中で、思わず「ちぇっ」と舌が鳴った。
リエトが村を離れては、鳩が手に入る日はいつになるかわからない。町へ奉公に行ったマリアンナは週末ごとに帰ってきたから、だぶんリエトもそうだろうとキコは思うのだが。
リエトは忘れないでいてくれるのか。
小瓶を陽にかざすと、中の真珠に細かい虹がいくつもまとわりつく。その輝きがマリアンナの笑顔と重なって、ようやく大好きな姉との別れがキコの胸に迫ってきた。花婿は村に新居を建てたが年に一度の帰郷用で、夫婦はもっぱら海を渡った都会で暮らすのだという。奉公に町へ行ったときとは違い、もうあの笑顔は自分から離れてしまうのだと、にわかに大きな悲しみが襲ってきた。
白い小粒をとらえる視界がぼやけて、キコは口の中の飴をがりりと噛んだ。
窓から月の光がもれている。
隣からピアの寝息が聞こえてくると、キコは枕下から宝物の入った小袋を取りだした。口を開き今日の収穫物を入れようとして、ふと薄明かりの中で目を凝らす。昼とは違い、それは虹色に輝くこともなく、わずかな白さにほのめくばかりだ。それでもマリアンナが微笑んでいる気がして、キコは笑みを返し、小粒を収めた袋を握りしめた。
枕に顔をうずめ、大きく息をつく。
――リエトが鳩をくれたら、渡すからいいよね。
マリアンナは、月の青くかかる海原を見わたした。風がテラスに波音を運び、寝室からのラジオ音楽が静かに重なる。そのはざ間で手にした小瓶を振ると、中の白い塊が小さくふるえた。別れ際の弟の表情を思い出し、マリアンナの眉が曇る。しかし優しく腕を回してきた夫の問いには、こぼれる微笑みが向けられた。
「キコの前歯が抜けたの」
絶え間ない潮騒。
いつしかラジオは音楽からニュースに変わり、海の向こうの戦いを伝えている。
(了)
お読みいただきまして、ありがとうございます。
元は三題噺でしたが、長く中断している間にキイワードを忘れてしまいました。
映画「シネマ・パラダイス」のような南欧雰囲気への初挑戦ですが、限りなく似非となってしまった次第です。
ちなみに題名は、原意の「歪んだ真珠」のことです。