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奇跡

先に上げた「聖ニクラウスの不在」の続編です。

クロさんの正体が明かされます。


 宵の口から降り出した雪は、山中では難儀した。数歩毎に突っ込む吹き溜まりのせいで、せっかくおろしたてのブランドブーツが泣いている。

 しかし滝本信吾に涙はない。忍び寄る生命の危機に瀕して、それどころではなかった。スマフォの僅かな灯りの中を降りしきる雪が横切り、雑木林の闇の中へ消えていく。ナビアプリは方向音痴の頼みの綱だ。画面に鼻先をつけるように追って、目前の樹木に気づかず激突した。悲鳴と共に、かじかむ手からスマフォが消える。這いつくばって探すも指先には何も当たらず、ただ、もう片方の腕に引っかかっていたエコバッグが、持ち上げたはずみにガチャリと鳴った。

 リボン付きの箱に加えて、フルーツとイチゴと青汁の瓶牛乳。

 銭湯でこれらを買った時、こんな温暖な海沿いの小さな町で、まさか雪中遭難するとは予想だにしなかった。不運ついでに、今日一日の出来事も思い出される。

 布団から起き抜けの気分は高揚していた。バイト先のあのコと初デートだと気合いを入れてめかし込んだ。が、待っていたのは赤いサンタ衣装と、コンビニの店先に山のように積まれたクリスマスケーキの箱。すみません滝本サン恩にきますと、デートに早引けした彼女の替わりだった。寒風吹きすさぶ中、己の悲劇に涙しながら悪友達のからかいを受け、元カノからプレゼントを渡される一幕があって、商店街のシャッターが大方締まった頃になんとかケーキを完売した。そこへ悪友達から届いたメール。

 九番館で貫徹カラオケするけど来るのだったら雲の湯でフルーツ牛乳とイチゴ牛乳と青汁牛乳を買ってきて裏の山道抜ければ近いから。

――近いから

「どこが!」との叫びを雪が吸い込んだ闇夜の真中、途方に暮れた信吾の目に、ふと宙に浮かぶ枯れ木の影が映った。背景のぼんやりした灯りは明らかに人工照明だ。助かったと崖沿いの細道を急いだ矢先、突然ぬっと黒い大きな影が現れた。

「く、熊!」

 驚いた拍子についた腰から力が抜け、歯の根があわないところへ黒影が近づいてくる。

「こんなところに熊がいるか」

 呆れた声音には聞き覚えがあった。


「雑木林で遭難とは君も酔狂だな」

 ブルーシートと段ボールに囲まれた狭い空間を、巨体が小器用に動いて、手にするカップ麺を信吾へ差し出した。「あざっす」と礼もそこそこに割り箸を麺に突っ込む。忙しさのため満足に食べていなかったせいもあって、特売シール付きの温かさは信吾の冷えた腹に染み渡った。

 黒服の大男は、ケーキを買うという約束で、夕刻コンビニの駐車場を貸した客だ。黒光りしていたハーレーと、明らかにホームレスとわかるこの佇まいには落差があるが。

「ここ、小泉池公園てホントっスか。九番館へ行くつもりが、エラい遠いところへ来ちゃったな」

「銭湯裏の奥の角を間違えたんだろう」

 車の走れる公道は山をぐるりと回る分遠いが、直接山を越えればなんとか歩いていける距離らしい。

「方向音痴なんで、オレ」

「昼間歩きなれていても、夜道は迷いやすいからな」

「道だけじゃなくて……なんつーか、こう、全部が全部こんな感じってのはどうなんスかね」

 スープを啜った信吾は大きな溜息をついた。脇に置いてあるカセットコンロのヤカンから、しゅんしゅんと湯気が上がってる。

「今日はイブじゃないスか。リア充全開の日」

 それなのに――と、麺に視線を落とした途端、これまでの出来事を語らずにはいられなくなった。期待と落胆、その場その場の流れにのせられた迷走ぶりが、大男の相槌に促されて吐露される。

「これ、見てください」

 信吾は手元のエコバッグの中から、瓶牛乳と重さを分け合う箱を取り出した。受け取った男が相手の頷くのを確認してリボンを解き、蓋の下から現れた中身に、髭面の太い眉を上げた。鈍く光る深緑色の手榴弾。

「別れた彼女からもらって。あ、もちろん玩具っス……たぶん」

「完全にサヨウナラって訳かい」

「うう、やっぱり、そういうことか」

 信吾はますます意気消沈した。

「失くした愛をクリスマスに取り戻すなんて奇跡、起こりっこないよな」

 君の場合は自業自得――とむにゃむにゃ口の中で呟きながら、男は箱を閉じ丁寧にリボンをかけ直した。

「まあ、別の奇跡が起こるかもしれないから」

「あ、それはナイナイナイ。オレ、奇跡とはまったく無縁っスから」

 信吾は自慢するように胸を張り、首を傾げた。

「確率的には、秀才一家にオレのような凡人が生まれたのが、奇跡っちゃ奇跡かな」

 両親と姉共に一流大学を出、年の離れた妹の茉莉奈も、現在小学校模試の連続首位記録を更新中と遥か高みを驀進している。スレスレの成績で四苦八苦してきた信吾は、どうしても浮いた存在となり、家の中に居場所がなかった。

「でもオレ、結構イケメンでしょ」

 近寄ってくる女の子との付き合いに安らぎを覚え、いつの日か寂しい心を慰めてくれる理想の女の子が現れるのを夢見ているのだが。

「なんかねーどうもねー、そんな日は来ないんじゃないかと、ふと不安になるんス」

「来ないな」

 無下に返る男の言葉。

「ええ、そんな薄情な」

「君自身が言ったろう、自分に奇跡は無縁だと。理想の女の子なんてそれこそ奇跡」

 あっと信吾の目が丸くなり、あんぐりと開けた口の喉奥からは、気の抜けた息が漏れる。男は湯気の立つヤカンを手に取ると、粉末コーヒーをいれたカップに湯を注いだ。ほら、と差し出して、小さな咳払い。

「まあ、確率的には希望がまったく無い訳じゃない――君は奇跡とは無縁と言った。しかしそれは、今まで君が奇跡を見たことがないとも言えるな」

 熱い液体を、ふうふうと吹きながら信吾が頷く。

「ところで世界は広い。君が見たこともない事柄は、数限りなくあるわけだ」

 ずずっと啜った舌先をいささか火傷して、またも信吾は頷いた。

「とういうことは、奇跡も数限りなくあるということで、確率は案外高いと言える。ところで――」

 この小泉池の伝説を知っているかね、と、男は指ぬき手袋をした掌を、ゆっくりもみ合わした。

「深夜に、池の水面を光の橋が対岸へ渡り、空へ輝くのを見ると――ええ――奇跡が起こる、と、いう」

「ど、どんな」

 髭面の大男が語るには乙女チックな内容であったが、信吾は思わず身を乗り出した。

「願い事が叶う」

 今度の言葉は、萎えた心を大きく膨らませた。

「さて、奇跡が確率だというのなら、条件を積み上げていけば、奇跡はますます起こり易くなる訳だ。まず重要なのは、奇跡を見たいという意志だが」

「もちろんっス」

 すがりつかんばかりの信吾に、では行こうと男は立ち上がった。

 空からの雪はすでに止み、広場の四阿の屋根が照明灯を返して細かに輝いている。粗末な囲いであっても外よりは遥かに温かだったようで、数歩進んだだけで冷気はどんどん身に染みていった。池の方角は全くの暗闇だ。ともすると見失いそうな黒服は、積雪の白さが朧な影を浮き立たせて、なんとか追うことができた。

 と、前方にぽつりと小さな灯りが見える。近づくにつれ、人の身長ほどの高さに灯火があり、三つの人影が囲んでいるのがわかった。

「おや、クロさん。まだいたのかね」

「そろそろ帰らないと、拙いのでないかね」

「ほう、また客人かね」

 粗末な衣服で着膨れた老人達が、好奇心旺盛な視線を信吾に向けてきた。

「意中の女性の心を逃した迷い人だ」

 単刀直入に紹介した男はそこで振り返り、いつ手にしたか信吾のエコバッグを掲げた。

「この牛乳を渡していいかな。あの住処の借り賃だが」

 こんなに遅くなっては悪友達も諦めているだろうし、なにより温みの恩を受けた信吾に否はない。瓶牛乳を老人達は喜び、礼を言いながらブルーシートへ引き上げていった。

 灯りの側へ寄れば、紺色の太いキャンドルが野鳥の餌台に置かれている。無風のせいか、真っ直ぐ立つ炎は瞬きもしない。

「あの人達、何してたんスか」

「クリスマス」

 男は短く答えて、信吾の後ろを指さした。

「小泉池だ」

 灯りに気を取られていたが、背後には黒々と広がる池があった。地面や木々に積もった仄かな雪の中、底知れぬ深い闇をたたえている。そこは池縁がコンクリートで整備された一角で、信吾が屈み込んで水面を覗き込むと、微かな明るみの中に自分の影が動いた。顔を上げてみれば、視界のほとんどを占める暗面のところどころに、小さなちらつきがぼやけて見える。浮かぶ朽ち枝についた雪らしい。

 すぐ脇に男の無骨な黒靴が並んだ。

「さて、奇跡を求めて奇跡が起こりえる場所に来たわけだが、次なる条件は余計な考えを捨てて、奇跡への感度を高める」

「はあ、なんスか、それ」

 信吾が怪訝に振り仰ぐと、男は軽く首を傾げた。

「邪念や過去の執着を捨てるとか、まあ、固定概念の打破かな」

 抽象的には理解できても、実際どうすればいいのかは全く見当がつかない。唸った信吾は、取りあえず理解できる言葉を反芻した。

「過去ねえ……」

 過去過去と呟きながら首を回すと、男が手にするエコバッグが目に入った。にわかな閃きにあっと声を上げ、やおらそれを引ったくる。中の手榴弾入りの箱を取り出して、男が制止する間もなく黒い水面へ投げ放った。

 無音の世界に大きく響く水音。そして耳奥の残響。

 とたんに胸内がすっと冷えた。大きく息をつくと、奇跡への期待が萎むように体から抜けていき、なにやら自分の姿がひどく滑稽に思えてきた。男へ苦笑を向ける。

「すんません、こんなのに付き合わせちゃって……」

 しかし、男の視線は池に向いたまま動かない。つられて再び振り返り、信吾は息をのんだ。

 光の橋が向こう岸へ伸びている。儚い幻のような光ではあったが、千々の輝きが繋がりあい、揺れながら先へと渡っているのが確かに見えた。

 しばしこの光景に心を奪われた信吾だが、やがて光の揺れに見慣れた規則性を発見する。はっと振り向いて、背後のキャンドルを確認した目を再び暗闇の光影に戻す。奇跡の正体が知れた。

「ああ……波紋で揺れる雪に、炎が反射してんのか」

 角度やいろいろな要素が絡まった結果だが、見方を変えれば奇跡と言えなくもない。しかし。

「池を渡った光が空へ上らなきゃならないんスよね」

 真夜中の雪雲には星の欠片もなく、池にも増して暗闇が満ちている。この後にどんな確率が残されているかを思うと、信吾にはもう期待する力はなかった。

 と、いきなり背後が轟き、激しい風が強く背を押す。よろけて池へ落ち掛かるところを、男に腕を掴まれて難を逃れた。駆け抜けた風は水面を大きく波立たせ、淡い光の橋を幾重にも伸ばしていく。

 そして信吾は見たのだ。

 闇の虚空に輝く光を。直前まで確かになかった煌めきだった。

 奇跡が起こった。


「あ、君君、よかった、まだおったか」

「久しぶりにうまい物を飲んだよ、ありがとう」

「お礼のこれが君の助けになるといいが」

 未だ消えない光に呆然とした信吾のところへ、先ほどの老人達がわらわらと寄ってきた。持ち上げた信吾の掌へ、それぞれが手持ちの物を押し込む。キャンドルの灯りが照らすは、液体入りの小瓶、くすんだ小石のペンダントヘッドと堅い木片。

「なんスか、これ」

「いわゆる媚薬とアイテム」

 大男が替わりに答えると、含み笑いの老人達は信吾へしきりに目配せを送った。そこへ静寂の中を耳障りな音が近づいてくる。車のチェーン音とわかったところで止まり、間もなく広場の端から顔の長い青年が現れた。

「やっぱりバイクじゃ帰れなくなったじゃないですか。急いでください、サンタさん。神父がいなけりゃミサができません」

 咎めて向けた視線がふと上がり、顔をほころばせる。

「ああ、ここから会堂の灯りが見えるんですね」

「え……え、会堂?」

 信吾はしきりに目をしばたかせながら、宙の光と男を交互に見やった。確かに町の崖上には廃屋と見違う古い教会堂が建っているが、方向音痴には思いもよらない方角だ。サンタは杉田と書くと男が自己紹介し、クリスマスとイースターには巡回神父がきてミサが行われると言う。

「それを知って来る者はもういないがな」

 さあ、九番館まで送ろうと促され、不思議なアイテムをポケットに入れた信吾は、あざっすと返した。

 再び雪が落ちてきた。信吾の前を歩く黒服の肩に、早くもうっすらと積もり出す。遊歩道の曲がり口で振り返ると、宙空に浮かぶ光とその下に沈む池の暗闇が変わらずにあった。

 そしてキャンドルを囲む三つの人影。

 小さな炎は真っ直ぐ立っている。



(完)

 

「聖ニクラウスの不在」はサンタクロースの正体が隠され、「奇跡」では奇跡が隠されています。

読者の方々に伝わるといいのですが。

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