桜――ソメイヨシノ
第12回バトカメ作品です。
前半1千字、後半1千字で、前半発表の一週間後に後半発表があるというイベントでした。なので一度に読むと趣が違うかもしれません。
桜~ソメイヨシノA
庭に大きな桜の木がある。祖母が生まれた年に植えたという、染井吉野の大木だ。朧月夜の影を受け、満開の重たげな枝から、次から次へ花弁を散らしている。匂いはないが、夜の冷気が甘酸い香りの様に鼻腔を突く。
『……子供がいる』
声ともつかない呟きが、重なる花の陰から漏れ出てくる。
『……この下には、子供が埋まっている』
烏帽子を付けた白髭の翁が、ふわりと地に降り立つ。年毎に長くなる髭は、間もなく足元に届きそうだ。
「そうか」
縁側で一献傾けていた私は、翁に杯を差し出した。
「まあ、一杯どうだ。これも、最後かもしれないから」
狩衣の袂を一度翻し、翁は私の前に立つと杯を受け取った。注いだ酒に、ぼんやりとした月が映る。翁はしばらくそれを見詰めていたが、やがてくっと顎を上げて飲み干した。閉じた目が再び私を見下ろし、金の眼差しが見開かれる。
『末期の酒じゃ』
「そうなのか?」
私は眉をひそめて、翁を見返した。先程は冗談めかして言ったものだが、今年ついにその時が来た事を悟る。
『舞を舞おうぞ』
「門前の小僧か」
私の家は神楽舞を伝える家系で、ついこの間も花の宴が催され、この木の下でひとしきり舞が披露されていた。私が笑うと、まあ見ておれと扇を広げた。
皺だらけの口元から、朗々とした声が発せられる。聞いた事もない謡だった。しかし歌調は明るく、寿ぎ歌であることは間違いなかった。長くこの家に世話になったとの謝意と、この先の弥栄を願う祈りとが、湿った大気の中をゆるりと流れて行く。
扇が滞る気を動かし、返る袂が風を起こす。それを受けて、舞い散る花弁が乱れて広がり、木よりも高く昇って行く。踏みしだく足元は芝地であったが、空を震わす床木の音が響き渡った。
謡の最後の声音に重なり、どこからかの笛の音が長く尾を引き、舞いは終わった。
扇を掲げ、両腕を開いたままの姿が、次第に霞んでいく。
『そなたに出会えたのは、望外の喜びじゃ』
微かな風に、地に落ちた花弁が小さく揺れた。
『……子供が埋まっている』
最後の呟きと共に、翁の姿は消えた。
花の見事さに比べ、その年の葉付きはとみに悪かった。年を越しても芽吹くことなく、枯死したと植木屋が告げた。
桜の木は切り倒され、その根元に何も埋まってはいなかった。
桜~ソメイヨシノB
庭に小さな桜の木がある。孫娘が生まれた年に植えた、染井吉野の幼木だ。朧月夜の影を受け、可愛らしい花房から、幾つか花弁がこぼれ落ちている。側にあった古木が春先に切り倒され、ぽっかりと空いた広い空間に、枝が戸惑った様に震えていた。
『……子供がいるの』
細い小さな声が、おずおずと囁いて来る。
『……この下に埋まっているよ』
蓬髪に冠頭衣を着た童子が、そろりと顔を覗かせた。
「やあ、初めまして」
私は微笑むと手招きした。
「ここへきて、甘酒でも飲むかい?」
はにかんだ表情の童子が近づいてくる。甘酒の入った小さな湯呑を渡すと、不思議そうに見つめてそっと口を付けた。
『おいしい』
嬉しそうな吐息を漏らして、円らな瞳を上げる。
『あれも一緒に埋まっているよ』
「あれ?」
『あの子が背負っていたのと同じ物……ええと……ら、らんどせる?』
この春小学校へ入学する孫娘が、先日嬉しさのあまりランドセルを背負って、庭先を駆け回ったのだ。私は眉をひそめた。
「子供とランドセルが一緒に埋まっているのか?」
童子は頷いた。
翌日植木屋へ電話をして、桜の苗木をどこの畑で栽培したかを訊いた。染井吉野は、大島桜の台木に接ぎ木をして繁殖する。この幼木も古木の接ぎ穂を、植木屋の畑にある台木に活着したものだ。
過去の新聞を調べると、七年前、この畑の近くで小学生が行方不明になる事件があった。未だに解決の目処は立っておらず、両親が新たな情報に謝礼金を出している。もとより金など欲しくはなく、こちらも詳しい事情は言えないので、とにかく大島桜の畑を掘り返してはと、匿名で知らせた。
後日、遺体発見の報道があった。
私が出会う染井吉野は、子どもが埋まっていると皆一様に言う。初めは不思議だったが、近頃クローンゆえの共通した記憶ではないかと思うようになった。最初の染井吉野の木の下に、子供が埋まっていたのではないかと。
しかし、ランドセルは初めて聞く話だった。
我が家の桜はこの先、ランドセルと共に埋められた子供の話をするのかもしれない。次にこの話を聞く者は、さぞ面喰うだろうとおかしくなった。
童子は桜の根元で眠っている。庭を思い切り冒険して疲れたようだ。消えゆく姿を見ながら、あと幾度出会えるかとぼんやり思った。
滲む夜空に月も傾き、今年の桜の季節も終わろうとしていた。
(了)