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飛翔

三題噺をテーマに書きました。


「鉛筆」「スカート」「キッチン」


●英介は父に誘われ海岸に行く。その目的は……? 不器用な親子のある朝。



「英介、起きろ」

 まだ薄暗い初夏の夜明け前、父の英夫が部屋の電気を点けた。休日前とあって、昨夜は遅くまで起きていたので、正直体を起こすのは辛い。しかし、父親の楽しそうな頬笑みを見ると、起きない訳にはいかなかった。

 父の手には白いポリ袋が下げられていて、パンパンに膨らんだ口から、ペットボトルが覗いている。それで英介には、これからどこへ行くのか、何が始まるのかすぐにわかった。身支度を整えて外に出ると、父がママチャリに跨って待っている。その顔の待ちきれない様子に内心笑ったが、意地でも表に出すまいと、目を合わせず自分の自転車の鍵を外した。

 二台連なって家の門を出、緩やかな坂道を下って行く。戸建ての家並みが途切れると、両側の野菜畑が薄暗がりにぼんやり広がり、いつの間にか舗装された道が、地肌の見えるあぜ道に変わった。その道も畑の端の崖で終わる。二人は自転車を止め、荷台の二つあるポリ袋のうち、英介は空気入れの入った方を持たされた。ペットボトルで膨らむ袋を提げた父を先に、道の続きの階段を降りて行く。枝の張る木の影はまだ夜の暗さを残していて、足元があやしかったが、ほどなく一番下の岩地に着いた。

 顔を上げると海を渡ってきた風が頬を行き過ぎ、ごつごつした岩陰から、打ち寄せる波が飛沫を上げている。小学生の時から見慣れた海岸風景だ。

 父は足を止めることもなく、地層の斜めに走る岩盤を横切って、いつもの場所へ向かった。長年の浸食により表面が平らになった、小学校の校庭の広さのほどの場所がある。通称『鬼の俎板』だ。その端の、岩が海に落ちる場所に来ると、父と息子は袋を地に置いた。

「おい、いいタイミングだ。竈に火が入るぞ」

 英夫が示した先は、海から突き出た岩礁だ。波に穿たれた穴から、向こう側の水平線が見える。位置によって日の出がここから臨まれ、丁度竈に火がともったように見えるので、この岩山を土地の者は『鬼の竈』と呼んでいる。そして今、朝日が昇るところであった。暗い空間を白い光が切り裂くように左右に広がって、竈の中に黄金の塊が火の様にともる。朝は毎日来るが、その瞬間を見るのは何年振りだろう。

 英介はふと、横の父に目を向けた。眼鏡の縁に光を滑らせながら、父は無防備にこの美しい瞬間を喜んでいる。英介の知っている父は、いつもこのように穏やかで、頬笑みの絶えたことが無い。

 しかし昨夜、進学先を変えたいと英介が言いだした時、その笑みは消えて、初めて厳しい表情を見せた。優しいが子どもに甘いだけの父ではないと知っていたが、ここまで反対されるとは思ってもみなかった。やはり父を軽く見ていたのだろう。反対されたことと共に、父があのように鋭い視線を放つことができるという事実に、英介は少なからず衝撃を受けた。そんな父に、これからどう応対したらいいか迷っていたが、起きぬけにいつもの頬笑みを見せられホッとした。しかし反対された事は彼を多少意固地にし、それが今までの無口となって現れる。それでも、父のすることに嫌は無かったので、素直にここまで従ってきた。

 朝日が昇りきると、父はポリ袋をあけて、空のペットボトルを英介に渡した。

「滑らないようにな」

 万事心得た様子でそれを受け取ると、英介は岩の狭間に向かい、波に揺れる海面目指して岩場を降りて行った。途中フナ虫が、ざあっと岩肌を走って物陰に隠れた。久しぶりの光景に一瞬どきりとしたが、こんなことはいつものことだったと思い出す。そう言えば、いつからここへ来なくなったのだろうか。

 揺れる海面からペットボトルに水を入れるのは、結構苦労した。足場が滑るので、そうそう身を乗り出すことができない。それでも以前同じことをしていた時の、わくわくした心持が戻ってくるのを感じる。

 これからロケットを飛ばすのだ。


 父の英夫は、ロケット少年だった。父の生まれた年、戦後初の国産ロケット、ペンシル・ロケットが打ち上げられた。アメリカ軍の占領政策から解放され、日本が自力で歩き出したころで、祖父母はこのニュースに心躍らせ、この年に生まれた息子に、このロケット開発者の名前を付けたのだ。以来、スプートニクやガガーリン、マーキュリー計画の新聞スクラップを、絵本代わりに英夫は育った。そして、アポロ11号による月面着陸。多感な14歳の年に受けた感動を、何回聞かされただろう。

――胸のここが、痛いほどどきどきしたんだ!わかるか?

 将来ロケット開発の仕事に着きたいという英夫少年の夢を、オイルショックが奪った。祖父の事業が失敗し、大学進学を断たれた彼は、町工場に就職し今に至っている。途中、仕事のためにも知識が必要と夜間大学に通ったりしたので、結婚が遅れた。

 一人息子の英介を、英夫は可愛いがった。当然のように玩具はロケットやら宇宙船やらで、どこそこで科学博、宇宙博があると言っては、まめに連れ出した。英介が小学二年生の時、将来の夢と題して『宇宙飛行士なりたい』と作文に書くと、まるで相好を崩して喜んだ。

 十年前、戸建ての家をこの海の近くに買った時、英夫はインターネットでペットボトル・ロケットの作り方を知った。その朝のことを、英介は今でも覚えている。今朝の様にいきなり起こされ、ロケットを飛ばすぞと、この『鬼の俎板』に連れ出された。最初の発射は失敗だった。しかし、生来の研究熱心さで改良を重ね、間もなく常時百メートルは軽く飛ぶようになった。子どもの英介にとって飛ばすことは楽しかったが、その後の回収作業は面倒臭いの一言だった。しかし、父はそのすべてを楽しんでいた。


 いつからここに来なくなったのだろう。

 その時期を思い返して、英介ははっとした。英介は今、電車で片道1時間半はかかる、理工系大学の進学率も授業料も高い私立高校に通っている。ここに合格したと聞いた時も、英夫は非常に喜んだ。

 そして――ペットボトル・ロケットは飛ばされることが無くなった。

 不況の風に晒されている町工場がどれほどのものか、英介にはわからない。だが、ひと月の内父と顔を合わせる日が、片手の指に収まるほどになった事には気付いていた。起きている父に合う時間は、いつも深夜だ。昨夜もそうだった。

 昨夜、英介は理工系の大学進学をやめ、芸術系の大学――写真を専門に学びたいと父に告げた。

 一年生の時はなんとか授業についていけたが、二年生の中頃に、どんなに勉強しても追い付かなくなり、これは無理なのではと思い始めた。父の落胆を思うと、とても言い出せず、鬱々とした日々の彼を救ったのが写真だった。最初はケータイでの気晴らしだったが、そのうち家のデジカメを持ちだして、映像を切り取る喜びを覚えた。特に興味を持ったのは、目の下の普段気付かない場所にいる小さな生物達だ。こんな場所にも、こんな生き物が生を懸命に生きているのかという発見は、彼の胸を熱くした。

 三年生になり具体的な進路希望を決めるため、英介は父に心の内を打ち明けた。それに対して英夫が見せたのが、落胆というより先の鋭い視線である。彼が息子の言い分に納得していないことは、重苦しい沈黙で伝わってきた。いっそ駄目だと叫んでくれれば、売り言葉に買い言葉で言いたいことも言えるのだが、その『話し合い』は、沈黙に耐えきれなくなった英介が席を立って終わった。

 受け入れてもらうには、あとどの位あの沈黙に耐えねばならないかと憂鬱になった時、岩場の穴にカニがいるのに気がついた。指でつつくと穴の奥に身を縮ませ、泡を吹く。英介は微笑んだ。

 ペットボトルに海水を入れ岩場に戻ると、父が発射台の用意をして待っていた。手にしたロケットは、白いビニールテープが巻かれているだけの素っ気ないものだが、それがいかに飛ぶかは英介には分かっていた。漏斗でロケット内部に水を入れ、発射台に取り付けようとした父が、突然小さく声を上げ片手を振る。

「父さん!」

 思わず駆け寄ると、英夫は血の出た指を見せて苦笑した。

「スカートで指を切った。だめだな、手を抜くと」

 ロケットには、羽の付いている噴射口を覆う部分スカートがある。ペットボトルで作られたその切り口は鋭利で、ビニールテープなどで処理をしないと怪我をしやすい。今までの父なら、英介の安全を覚えて、これを忘れることなどなかった。

「俺がやる」

 英介は父と場所を変わり、ロケットを発射台に取り付け、ノズルに装着されている空気入れのハンドルを握った。上下に動かし始めると同時に、ペットボトルの底から海水の中を泡がぼこぼこ上がってくる。それを横目にひたすら空気を送っていると、英夫が声をかけてきた。

「英介」

「何?」

「足元の世界は面白いか?」

「うん。胸がどきどきする。」

――胸のここが、痛いほどどきどきしたんだ! わかるか?

「そうかあ!」

 いきなり父が晴れやかな声を上げたので、英介は驚いて手を止め、目を上げた。英夫は声を同じような晴れやかな顔を、空に向けていた。同じ方向に目をやると、西の空に白い弱々しい月がかかっている。父はゆっくりと視線を息子に戻すと、頷いて言った。

「お前が飛ばせ」

 腰を落として発射台のリリースを握ると、英夫がカウントダウンを始めた。

「10、9、8、7」

 英介は、父が彼自身の内にある何かを諦めたことを知った。

「6、5、4」

 けれど父のペンシル・ロケットは、英介のものではない。

「3、2、」

 英介には英介の、飛ばしたいものがある。

「1、ファイア!」

クランプを外すと、短い破裂音がした。

 空を突き抜けるロケットは、しぶきを朝日にきらめかせ、鬼の台所海岸をはるかに渡って行った。




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