ボクカノ
-1-
風が冷たかった。
――風が冷たい分、隣を歩く彼女の体温がより暖かく感じられた。
「ディズニーランドにまた新しいアトラクションができるらしいですよっ! 絶対二人で行こうよっ! 」
よほど楽しいらしく、彼女はいつも以上にはしゃいでいるように思う。
僕の腕を引っ張るその動きにも力がこもっている。
僕はいつも通り「それもいいね」と主体性のない答をかえして、引っ張られるがまま、右へ左へ向きをかえる。
「なんだよ~、いつもは『おのれ米帝め~、俺様のお膝元に暗黒占領基地なぞ作りおって! 偵察だ、偵察!』とかいうくせに~。のりが悪いなぁ」
……そんなことを言う僕ではない。少し、呆れた気分になるが、彼女が瞳をキラキラ輝かせながら、僕の反応を待っているのだから、やはり、そう、期待に応えてあげるのも義務というものか。
「なんでやねん」
「あははは」
顔いっぱいの笑顔を今は僕に、僕だけに向けてくれる彼女。
そんな彼女だから、僕は他の誰よりも彼女がいとおしいのだろう。
「6月って暇かな」
「え、なんで? 随分先のことを聞くんですね」
唐突な僕の質問に、でも彼女は『暇かな』と答える。
「僕も暇なんだ」
「うん」
「だから」
「だから?」
「一緒に暮らさないか?」
コートのポケットから小さな翠玉の指輪をとりだし、あっけにとられている彼女の手のひらに少し強引に指輪を落とす。
「…………」
まだ、声を出せないでいる彼女の様子に、声も出ないくらい驚かせてやろうと狙っていた僕の試みは見事成功したことを知り、ちょっとした満足感を得る。
「……これ、高いですよね?」
じっと指輪を眺めていた彼女が、む~と唸るようにいった。
「まぁ」
「いくらくらい?」
「家が10軒建てられるくらい」
「わわっ、高すぎるよ!」
「……シルバニアファミリーの家なら、だけど」
「ふ~ん……」
それだけ言うとまた口をつむぎ、指輪を光にかざしたり、カチカチ叩いたりする。
そんな彼女の様子に、始めの余裕もなくなり、気の弱い心臓がドクドクと脈を打ち始める。
突然すぎたか? それともギャグだと思われたか? いや、それよりもどう断ろうか迷っているんじゃないのか……?
少なくとも僕は本気だった。
本気だから、返ってこない彼女の答えが恐かった。
答えを聞くのが恐かった。
曇りの空から風が吹き下ろした。
「あのさ――」
冷たい風が一気に体温を奪い去り、僕は身を震わせた。
-2-
それはちょうど去年の今頃。やはり風の冷たい日だった。
「はよーっす……」
僕はいつも通り、やる気のない声で事務所の扉を開けた。
新栄プロダクション。
薄汚い雑居ビルを根城にする、鳴かず飛ばずのアイドル事務所だ。
所属アイドルは、ビジネスのビの字も知らない子役が数人、顔はいいのに歌が下手なのと、顔はいいのに歌だけなのと。あとメガネ。
こんなブラックは潰れた方がいい。
僕は常々そう思っていた。
マネージャーという仕事は僕の夢だった。
夢を叶えようと輝くアイドルの卵たちの力になりたかった。
だが現実はどうだ……夢だけは大きいのにアマチュアの域を超えられないアイドルたち、そんな彼女たちを使い捨てていくだけの芸能業界……僕には、この世界が欺瞞と不信の塊のようにしか感じなくなっていた。
去年の僕がそう言われれば、きっと反論していただろうけど、今考えればやはりそうだったんだと思う。
出会いは突然だった。
「うあ」
と声を出したときには、僕はもう床に押し倒されていた。
「わわ、あの、ごめんなさい!」
続いて入ってきた誰だかにぶつかられたらしい。しかもその誰だかは僕の背中にのしかかったままだ。
背中に女性の重さと柔らかさを感じた。そして首筋に温かい吐息。耳を澄ませば甘いささやきが聞こえそうな、そんな――
うわ、僕は何を考えているんだ!?
自分でもわけのわからないそんな思考を振り払うと、
「重い」
と感情なく呟いた。
いつまでもこんな薄汚い床に押し付けられている場合じゃない。
さっと女性が身を起こして、僕に謝罪の言葉を紡いで、それで終りだ。
そのはずだった。
しかし、僕の考えはまだ世界のデファクトスタンダードには遠いようだった。
ポカッ、といきなり後頭部にグーの衝撃を受けた。全く訳がわからない。
「な!?」
「失礼だよっ。初対面の人間に対して『重い』だなんて」
声は頭の上から降ってきた。
首を捻って見ると、思わず近い距離に柳眉を逆立てた見知らぬ年若い女性の顔があった。
スポーティなショートカットに女性にしては凛々しい眉、その下にある吸い込まれそうな大きな澄んだ瞳。いやそうでなく、失礼なのはどちらだと、僕は軽い憤懣を覚えた。
「重いものは重い」
「あっ、また言った! アナタ、ちょっと親の躾がなってないんじゃないの」
「親はいない」
「えっ! あ、あの、そんなつもりじゃなくて、その、ご、ごめんなさい……」
「いいよ、ウソだから」
「えっ!? そ、そういうウソは閻魔様に舌を抜かれるんだよっ」
「それはウソをついたら否応なく抜かれるものじゃないの」
「違うね。人を幸せにするウソは大丈夫なんだ」
「まぁ、いいけど。1枚抜かれてももう1枚あるし」
「それも抜かれるさ。閻魔様は強いんだから」
「僕のほうが強いから問題無いね。なんたってWMA世界チャンピオンだ」
「あはは、今ので3枚目の舌も抜かれましたよ」
「うく……確かに君より弱いんじゃどうしようもないな」
「どういうことです?」
「すっかり尻に敷かれてるってことさ」
「わわっ!? ご、ごめんなさい、気付かなくて……」
飛びのくように僕の背中から離れる彼女。
僕もやっと自由になったところで、とりあえず立ちあがってスーツのホコリを払う。
すまなそうに僕の方を見ている彼女。
怒って、謝って、驚いて、得意げに話して、そして笑って、今はなんだか恥かしそうで。
コロコロと表情を変える、そんな彼女がなんだかとても微笑ましかった。
「君は?」
「あ、はいっ! ボクは、あの……まだ芸名は決まっていないんです。でも、社長さんに今日から来て欲しいと言われまして」
つまり、あの風俗スカウトにしか見えない社長の言葉を信じて、この事務所までやってきたというわけか。
彼女はきっと、今の世の中では絶滅が危惧される類の人間なのだろう。どちらかと言えばトキではなくカモかもしれないが。
そんなことを考えていた僕の沈黙を、彼女は別のものと勘違いしたらしく、
「あの、クリーニング代を……」
今時、そんなことを本気で言う彼女に思わず笑ってしまった。
「いいよそんなの。でも、そうだね――」
そんな彼女との出会い。その日から僕の世界は少しづつ変わってきたんだ。
「――君のことをもう少し聞かせてもらおうかな。コーヒーでも飲みながら」
そう、陽の当たる方へ。
「あ、ボク、ブラックはだめなんで、ミルクと砂糖もつけてくださいね」
「……今ので大体知れたわ。ほんと潰れろ、ブラック」
-3-
「……あの、えーと、ごめんなさい」
「それじゃ、しょうがないね。うん……また都合が良いときに」
「はい! あ、いえ、それでは」
「うん。……じゃ」
難しい。とても難しい。
その時の僕の気持ちを言葉にすることはとても難しい。
その後、僕は彼女の担当マネージャーとなり、少しばかり面倒を見るようとなっていた。時には付き人として、時にはレッスン教官として、そして時には彼女の目覚まし時計代わりとして。
彼女と幾度かの仕事をこなし、それなりに打ち解けたという自信があったからこその暴挙だったんだと思う。
それは、彼女に始めてプライベートで連絡をとったときの話だった。
緊張があり、気恥ずかしさがあり、なにより誘いを断られたのだというのに、僕はどこかほっとしていた。
僕の感覚からすれば、いくら仕事上のパートナーだと言っても、いきなりの誘いの電話を受けてのこのこ出かけて行くなんて危機意識が欠けている。
そんな軽い女の子だとしたら、僕はきっと失望していただろう。
休日を利用して、彼女に一歩近づきたかったというのは嘘じゃないけれど、今思えば、彼女を試したのかも知れない。本当に僕の思った通りの彼女なのかを。
では、断られたくて電話をかけたとでも?
いや……そんな難しく考える必要もない。つまるところこれはただの自己嫌悪だ。
「なにをやっているんだろうな、僕は」
そう、やはり断られたショックは大きいのだから。
人との付き合いが苦手なわけじゃない。
営業と言うのなら、うまくやっている方だろう。
ただ、それはビジネスでの話。
プライベートでは、他人に声をかける程自分の領域を冒さない、そんな自分を自覚している。
それなのに、彼女のこととなると、まるで勝手が違ってくる。
顔はまあ……社長の眼鏡にかなうだけはあるとしても、歌だけならもっとうまいのが他にいるし、得意のダンスだって、僕の目から見ればまだまだだ。
あのボーイッシュでさっぱりした性格は、確かに気持ちがいい。それが女の子としてどうなのかは、課題だとしても。
言及すべき点は多々あるが、その前向きな姿勢だけはけちのつけようがない。
必ずトップアイドルになるのだという新人特有の空回りさえも、彼女の個性として受け入れられている現実がある。
結局の所、僕はもっと彼女のことを知りたいのだろう。
仕事上のつき合いがある以上他人ではない。他人でないのなら、休日の予定を聞くくらいしてもいいはずだ。
でも、だから? だから、僕はこうして街を歩いていても、どこかに彼女の姿を求めてしまうのか――
自分の思考がわからない。二律背反もいいところだった。
「わっ」
「……」
「あれ、驚かない?」
驚いた。でも、それはその声にじゃない。そこに……ここに彼女がいることにだった。
「驚かせたいなら、せめて手を振ったりしないことだ」
「知り合いの人に会ったら、手くらい振りますよ?」
「確かに首を振られても困るな」
「大阪のおばさんは腰を振って走ってきたり」
「僕としては胸を振って走るお姉ちゃんの方が好きだけどね」
「あー、えっちだ」
「話を振った君がいうなよ」
初め気まずそうだった彼女は、あははと笑って、僕の隣にならんで歩き始めた。
神を信じない僕は、この幸運を一体誰に感謝すればいいんだろうか。
「こんなところで会うなんて、奇遇ですね」
「お暇だから」
「うああ……もしかして気を悪くさせちゃってますか。あの、電話のコト」
「まさか。まぁ確かに、今日が僕の誘った日なのだから、少し不思議な気持ちではあるけれど」
「ごめんなさい! ……あの、ほんとは用事があったわけじゃないんですけど、男の人の誘いに軽々しく出ていく風に思われるのがいやだったから……本当はちょっと嬉しかったんですけど、えーと、そういうあれで……」
「…………」
なんだ、それは。それじゃまるで、僕と同じじゃないか。
耐えきれなくて、思い切り笑ってしまった。涙がでるまで腹をかかえて笑う僕に、彼女はどうしたらいいかわからない様子だ。
「は、ははっ、む、矛盾してるね」
「むー。そんなに笑わなくてもいいじゃないですか」
「そ、そういうわけじゃないんだけど………あはは、ごめん」
「むーむー。いーですよーだ」
なにがこんなに楽しいのか、なぜ、彼女と会いたかったのか、わかったような気がした。
考えすぎな僕がこんなに全てを忘れられる。
今この時間に矛盾も背反もない。
ただ彼女といるだけで、時間は過ぎるのだから。
彼女といたい。
他に何一つ言葉は要らなかった。
「お詫びに何かおごるよ。なにがいい?」
「カニ!」
「……マジ?」
「わーい、カニだ、カニだー♪」
-4-
新栄プロが潰れた。
人は良いが人相が悪い社長、やる気の欠けた僕とやる気だけのアイドルたち……当然の帰結だった。
所属アイドルはバラバラになり、連絡を取ることもなかった。
ただ一人――彼女を除いて。
「俺様の活動区域に女子供しか楽しめないようなアトラクション施設があるのがそもそも問題なのだ。言うに事欠いて何がダイビングコースターか。偵察だ、偵察!」
「男一人では遊園地に来れなかったってこと? ジェットコースター乗りたかったんだ?」
「違う。全長約744.2メートル、所要時間1分58秒の驚愕体験なんかに興味はないんだ。目的は敵地偵察であり、『バニッシュ!』はその最たる難関であるだけだ」
「目玉アトラクションってことですか? わ、ほら、結構並んでますよ。30分待ちだって」
「30分! 1日は24時間、30分といえば1時間の半分に相当するわけだ。それを待つのは人生の無駄遣いに他ならないじゃないか」
「そうですねぇ。30分も待つのはボクもつらいかな。じゃあ、あの観覧車はどうかな? すぐ乗れそうですよ」
「『コスモクロック21』か。いや、まだ早い。この世界最大クラスの観覧車は夕暮れどきの横浜を一望できることが重要なんだ。陽が傾くには今しばらくの時間を潰さないと」
「いいからいいから~。ほら、こっちだよっ!」
「話を聞けって。こういう場合は、夕焼けでロマンスが!」
「聞いてるよっ」
「でも、理解してないだろ! 夕焼けでロマンスの、周到な計画が!」
「理解もしてると思うな。多分、世界で一番……ふふっ!」
掴まれた腕を引っ張られるままに、僕と彼女は観覧車へと駆けて行った。
「そういつまでも笑わなくてもいいじゃないか」
「あはは、だって、もう、ボクおかしくって……っ、あはははっ」
悶えるように笑い転げる彼女に、僕はちょっとだけ不機嫌な態度を取る。
もちろん、本当に不機嫌な訳じゃないんだけど、恥ずかしさを紛らわせるためにそうしているのだ。
それに、彼女を直視できないのは、そのためばかりじゃなかった。
なんというか、きょ、今日の彼女は、その……天使?
大きな観覧車の小さな部屋の中で、僕と彼女は二人きり向かい合って座っていた。
――アイドル候補生とプロダクション社員という関係は、枷でもあったんだと思う。
その枷がなくなって、それでも一緒に居たいという気持ちに気づいてしまった。
全てにやる気をなくし、全てに一線を引いて物事を見ていた僕が。
新栄プロが潰れたときでさえ、なんの感慨もうかばなかった僕が。
夢をあきらめていない彼女のために、今では専属教官のように指導を続け、ツテを回って、彼女が再出発できるプロダクションを探している。
それはきっと、出会いの日から――
「今日は来て良かったです」
「結論早いな」
「もう十分。だってマネージャーおもしろすぎるんだもの、あははっ」
笑いっぱなしの彼女。これはもう無限ループであるらしい。
落ち着いて考えれば……僕も確かにちょっとどうかしていたかもしれない。ちょっとだけだが。
「それにマネージャーはもうやめてくれよ。元だろ、元」
「いいえ、マネージャーはマネージャーです! 」
「…………」
「そ、そんな黙り込まなくてもいいじゃないですか。ボクが悪かったですから」
「いや、悪いのは僕の方だな。それよりほら、外を見てみて」
「うんっ。わー、本当にすごいなぁ! 横浜の街が一望できるんだ! あの橋、ベイブリッジですよね。赤レンガ倉庫も見えますよ!」
「そうそう。ほら、あそこが森ビル」
「どこどこ? むー、ボクにはそこまで見えないなぁ」
「うん。僕にも見えない」
むーむーと怒る彼女の顔がすぐ近くにあった。その瞳はとても澄んでいて、思わず吸い込まれそうになる。
唐突に、今しかない、と思った。
僕は全ての勇気を動員して、彼女を引き寄せた。
「あっ…」
と彼女が小さく声を漏らしたときには、二人の距離はほとんどゼロ。
こういったことに疎い僕が選んだ場所は、教科書通りの遊園地であり、観覧車だった。
美しい夕焼けをバックに――という僕の計画通りではなかったけれど、ここで行くしかないのだ。
僕と彼女との関係はまだ元アイドル候補生と元マネージャーでしかなかった。
今日はそれ以上の二人になれるのか、僕の気持ちを伝え、彼女の気持ちを聞くという試練の日であり、一世一代の大勝負の日であり……つまり、始めてのデートだったのだから。
彼女を見つめる僕は、きっと今までで一番せっぱつまった顔をしていることだろう。
彼女の手を取る。その全身に緊張の電気が走るのがわかる。
緊張と言う意味では僕も負けてはいない。昨日までに用意していた今日のための言葉は、スカッと気持ちいいくらいに消えて、頭の中の真っ白な空間には目の前の彼女の表情しかなくなっている。
「好きだ」と「愛している」ではどちらの方が良いか、ひたすら悩み続けた3日間はなんて無駄な時間だったのだろう。
「キス、したい」
もっとロマンティックな言葉を用意していたはずなのに、結局、出た言葉はこれだった。情けなくて死んでしまいたくなる。ボッと一瞬で、本当に一瞬で彼女の顔が真っ赤に染まった。
やはり、いきなりキスというのはまずかったか。
「君のことが」
好きだと、取り繕うように続けると、彼女はさらに固まって、石化してしまった。
だが、その時すでにテンパっていた僕は、初めて会ったときから好きになったとか、君と出会えた奇跡に神を信じるようになったとか、カニ好きに悪い人はいないとか、もう自分でもわけがわからないことを口にし続けていた。
言うだけ言ってしまって、息継ぎをした時点で、僕の頭には「もうダメだ」という試合終了のゴングが鳴らされた。
その時、固まったままだった彼女がキュッと僕の手を握り返した。たくさん喋った分僕はいくらかマシになっていたが、彼女はまだ緊張の極みにいるらしく、顔は真っ赤で瞳は涙に潤んで……なんだか妙に幼くみえた。
「ボ、ボクも」
「神を信じるように?」
「ボクもキス、したい」
言い切ったあと、彼女の頭からふしゅると何かが抜けた。
……あ、なんだ、そうだったんだ。
僕も何か毒気が抜けた感じだった。そうなんだ。
計画もなにもあったものじゃなかったけど、それが彼女の答えだった。
「は、ははははは」
「あははっ、ははっ」
強く手を握りあったまま、僕と彼女は額をつき合わせて笑いあった。
そして、ゆっくりとキスをした。
観覧車を降りたとき、二人の距離はとても近くて暖かいものになっていた。
きっとこれが僕と彼女の一番居心地のいい距離なんだと思った。
「あのさ」
「なに?」
彼女がふふっと笑いながら、僕の耳元に口を寄せる。
「始めてのキッスは森ビルの味」
「……大変申し訳ないが、君のその感性は理解しかねる」
-5-
手渡された指輪。珍しい物を見るかのように、それを眺める彼女。
しばしの時間が過ぎ、僕の心をかき乱す。
冷たい一陣の風が吹き抜けた後、彼女が顔を上げた。
「あのさ、ほんっと、マネージャーって、いきなりですよね。こんな道ばたでこんなの渡されて……ボク、どうすればいいんだよっ」
まるで非難するような口ぶり。
だけど、それが彼女の限界。堪えきれず徐々に口元がゆるんでいく。
結局、素直な彼女は自分を隠せない。
「……うれしい」
緩みきった口元が無意識に持ち上がり、やわらかい微笑みを湛える。
上気した頬は桃よりは林檎に近く。
その上を絶え間なく流れ落ちる、それは透明な彼女の答え。
その見つめる先は、僕ではなく指輪であって、
「ボクでいいの?」
ふっと見上げる視線で彼女が疑問を投げかける。
君じゃなきゃダメなんだ。
「いらないなら返して」
素直じゃない自分がほとほとイヤになる。
「あっダメ、いるもん!」
パッと右手を隠して、僕を威嚇する彼女。
「むーむー!」
……それは威嚇なのか?
そんな彼女がとてもかわいく感じられる。
一年だ。出会って一年。今日で一年。それは……なんて短い一年だったのだろう。
今、目の前で街路樹の裏に身を隠す彼女に、この一年間の彼女の姿が重なる。
飲めないブラックの苦さに思わず舌をだす彼女。
突然笑い出した僕に気を悪くして頬を膨らます彼女。
観覧車の中で手を握り返してくれた、死にそうなほど緊張した彼女……
それは、時間にしてみれば一瞬の回想。でも僕にとっては、全てが大切な、彼女と僕との物語――
その幻影を追いかけるように僕は走って、まだ小さい蕾をつけ始めたばかりの街路樹の下で彼女を捕まえた。
「へへっ、捕まっちゃった。でも、指輪は返さないんだから」
「返さなくていいよ。それは君にあげたんだ。もう僕のじゃない」
「ほんと? ……一生返さないよ?」
「うん。一生君のだ」
瞳と瞳が交差し、重ねた手があたたかさを伝えあう。
僕と彼女の答えは今、同じものだった。
「もう一つ、報告があるんだ」
「なんですか? いくら、マネージャーでも、これ以上ボクを驚かせるのは無理ですよ」
「新栄プロを、もう一度はじめようと思うんだ」
「えっ……」
僕が彼女のために回ったプロダクションで色よい返事をいくつも貰っていたのだが、その全てに彼女は首を横にふっていた。
「アイドルをあきらめていない」彼女が、なぜそれを拒むのか、わからないわけがなかった。
彼女は信じて待っていてくれたんだ。
「マネージャーをあきらめていた」僕が、もう一度立ち上がり、その夢を追いかける日がくることを。
「実は他のみんなにはもう連絡をとってある。みんな、夢をあきらめていなかったよ」
「……」
「だから、渡した手前少し言いづらいのだけど、その指輪をつけるのはもう少し待って欲しい。一緒に住もうっていうのも、もっとずっと、未来の6月の話」
言葉もなく、大きな瞳を見開いたままの彼女。
その瞳の中には、入社したての頃の僕がいた。
「もう一度……僕に、君のマネージャーをやらせてもらえないだろうか」
「……バカッ」
「ごめん」
「バカ、バカ……本当に……全部、いきなりで……うぅ~」
芸能業界に失望したから? 大人の対応を身につけたから?
違う。
僕はただ、言い訳を見つけてしまったんだ。自分の努力が報われない、その言い訳を。
『マネージャーという仕事は僕の夢だった』
『夢を叶えようと輝くアイドルの卵たちの力になりたかった』
そんな僕を、陽の明るさで眩しく照らし、もう一度上を向かせてくれたのが。
失いかけていた夢を思い出させてくれたのが。
誰でもない――君なんだ。
涙をぬぐい、改めて手を差し出してくる彼女。
「やっと……やっと、やる気になったんですね!」
本当に、眩しい笑顔。
僕は強く、その手を握り返す。
「ああ、もう言い訳はやめたんだ。遅くなってごめん」
「いいえっ、遅くなんてないです! その言葉を……ずっと待ってたんですからっ」
ああ、今こそ確信できる。
この笑顔を日本中の人たちに届けることが、僕の役目なのだと。
自転車に乗った女学生が、何事だろうという視線を僕たちに送りながら通りすぎてゆく。
それに気付いた彼女は少し照れくさそうに、
「このリングは、契約の証としてもらっておきます。でもって、『ちょっとだけ』未来の6月には、家が100件建つくらいのを買ってもらいますね!」
そう、口にした。
……そんなにお金を持っている僕ではない。少し、呆れた気分になるが、彼女が瞳をキラキラ輝かせながら、僕の反応を待っているのだから、やはり、そう、期待に応えてあげるのが義務というものなのだ。
「なんでやねん」
いつのまにか空では雲が切れ、柔らかい陽光が僕らを照らしていた。
さっき感じた冷たい風はどこへやら。
今吹いているのは、あたたかい春の風だ――