第9話「手紙と花束」
「ルシアン様。……いえ、ルシアン」
敬称を外した名前が、自分の唇から出た。冬の終わりの空気はまだ冷たく、吐いた息が白く漂う。花畑の縁に立つルシアンの背中が、その名前を聞いて止まった。
振り返る。彼の目が、わずかに見開かれていた。
レクト殿下の馬車が去ってから、一晩が過ぎていた。昨日は「話したいことがある」と言っただけで、そのまま日が暮れた。外套を肩にかけてもらったあと、何を言えばいいのかわからなくて、結局別々の部屋に戻った。
一晩中、眠れなかった。目を閉じるたびに浮かんだのは、ルシアンが私物を箱に詰めていた手の動き。あなたの目に入らないようにする、と言った声。花壇の手入れを一人で続けていた背中。
夜明け前に、決めた。待つのではなく、自分から伝える。
「私から、話させてください」
花畑の端に、古い石の柵がある。腰をかけるのにちょうどいい高さで、夏にはここで帳面を広げて商隊の帳簿をつけていた。
私はその石柵の前に立った。ルシアンは三歩ほど離れた場所にいる。いつもの距離。近すぎず、遠すぎない。でも今日は、その三歩が長く感じた。
「あなたの隣にいたいと思ったのは」
声が震えた。指先を握り込む。爪が掌に食い込む感触で、息を整えた。
「あなたが王族だからでも、聖地の管理者だからでもありません」
風が花畑を渡っていく。冬を越した花弁が揺れる。
「あなたが、私の花をきれいだと言ってくれたからです」
言い切った。喉が詰まりかけたけれど、最後まで声は途切れなかった。
ルシアンは動かなかった。
長い沈黙が落ちた。風の音と、遠くで鳥が鳴く声だけが聞こえる。ルシアンの表情を見ようとしたが、彼は俯いていた。銀灰色の髪が額にかかり、目元が見えない。
やがて、彼の手が動いた。上衣の内側に入り、何かを取り出す。
紙の束だった。
古びた紙が何枚も重ねられ、細い紐で括られている。端が黄ばみ、折り目がついた手紙。一通ではない。何通も、何通も重なっている。
「……渡せなかった」
ルシアンの声は掠れていた。いつもの抑制された口調が、わずかに揺れている。
「学院の古文書室に通っていた頃から、書いていた。あなたが庭で花を咲かせるのを見るたびに。嘲笑われるのを見るたびに。何も言えない自分が許せなくて、代わりに手紙を書いた」
紙の束を差し出す手が、震えていた。
「あの頃から、ずっと」
手紙を受け取った。紐を解くと、最初の一通が開いた。細い、几帳面な文字が並んでいる。日付が書かれている。私がまだ学院にいた頃のものだ。
『今日、あなたが中庭でまた花を咲かせていた。白い花だった。周りの生徒が笑っていたけれど、あなたは花を見つめていた。あの花はリューリアだ。聖地の古い記録にある、もっとも丈夫な花。あなたはきっと、自分が何を咲かせたか知らない。でも僕は知っている。あの花がどれほど貴いものか。あなたが——』
文字が滲んで読めなくなった。
視界がぼやける。紙の上に、水滴が一つ落ちた。涙だと気づくのに、少しかかった。
二通目を開いた。三通目。四通目。どの手紙にも、花の名前が書かれていた。私が学院で咲かせた花を、この人は全部見ていた。全部覚えていた。名前をつけて、記録していた。
『あなたが学院で咲かせていた花の名前を、僕は全部覚えている』
その一節で、堪えきれなくなった。
「こんなに、長い間」
声が割れた。手紙を胸に抱え込む。紙の古い匂いと、かすかなインクの匂い。何年も、この手紙はルシアンの手元にあった。出されることなく、読まれることなく、ただ書き続けられていた。
「見ていて、くれたんですね」
顔を上げた。ルシアンの目が赤くなっていた。唇を噛み、視線を逸らしかけて、それでもこちらを見ている。
「……ずっと。ずっと、見ていた」
声が震えている。この人がこんなに感情を露わにするのを、初めて見た。いつもは言葉を飲み込む人。手紙なら書けるが渡せない人。その人が今、声を震わせて、私の前に立っている。
「フローラ」
名前を呼ばれた。
敬称でも、「あなた」でもない。ただの名前。ルシアンの声で、私の名前が呼ばれた。
空気の温度が変わった気がした。同じ冬の朝なのに、肌に触れる風が柔らかい。ルシアンとの三歩の距離が、いつの間にか二歩になっていた。どちらが近づいたのかわからない。
手紙を胸に抱いたまま、もう一度ルシアンの顔を見た。赤くなった目。噛みしめた唇。その顔が、ぎこちなく、ほんのわずかに——笑った。
王都では、一つの報告書が魔法省の記録に登録された。
エーリッヒ・グラントが提出した調査報告。そこには次のように記されていたと、後に商隊の者を通じて聞いた。
「辺境エルデン聖地に、古代大地再生魔法の使い手が確認された。元アシェンブルク公爵令嬢フローラ・アシェンブルク。当該魔法は国宝級と評価され、その追放は国家的損失と判断される」
追放が国家的損失として、公式記録に残った。レクト殿下の判断が、歴史の中に刻まれた。
その事実を知ったとき、私は何も感じなかった。復讐が果たされたという高揚もなければ、溜飲が下がる感覚もない。ただ——もうあの場所とは関係がないのだという、静かな確認だけがあった。
夕暮れ。手紙を全部読み終えた。
部屋の寝台に座り、最後の一通を閉じた。窓の外では、冬の日が早く沈んでいく。花畑の向こうに、まだ荒れた丘が見えた。緑に覆われた場所と、灰色のままの場所。その境目が、夕日に照らされている。
「……まだ、やることがある」
呟いて、窓の外を見つめた。手紙の束を膝の上に置いたまま。丘の向こうの荒れた大地は広い。花畑の緑は、その中のほんの一角にすぎない。
廊下から足音が聞こえた。軽い音。二回、扉を叩く音。
「フローラ」
扉の向こうから、ルシアンの声がした。私の名前を呼ぶその声に、もう迷いはなかった。
立ち上がり、扉を開けた。




