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婚約破棄された私が起こした唯一の奇跡  作者: 月雅


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第8話「王子の後悔」

花壇の前に立ち、母の園芸鋏を握り直した。


冬の終わりの空気は、まだ冷たい。指先がかじかんで、鋏の金属が肌に貼りつくような感触がある。握りの部分に彫られた小さな花の模様が、掌の中で存在を主張していた。


丘の上に、馬車が止まっている。王家の旗が冬風にはためいていた。馬車の扉が開き、護衛の騎士が二人、先に降りる。その後から——長身の青年が姿を現した。


金の髪。仕立ての良い外套。見間違えるはずもない。


レクト殿下が、坂を上がってくる。


足音が近づいてくる間、私は花壇の前から動かなかった。鋏を握ったまま、背筋を伸ばして待つ。護衛の騎士たちは坂の途中で足を止めた。レクト殿下だけが、花畑の縁まで歩いてきた。


最初に変わったのは、殿下の足取りだった。花畑を目にした瞬間、歩幅が乱れた。立ち止まり、丘の斜面を覆う花と薬草の緑を見渡している。冬だというのに、花は咲いていた。霜に耐え、寒さの中で色を保っている。


「……これを、お前が」


殿下の声は低かった。学院の広間で婚約破棄を告げたときの、よく通る自信に満ちた声ではない。


「私の魔法です、殿下」


「わかっている」


殿下は花畑から目を離し、私を見た。顔つきが、記憶の中のものと少し変わっている。頬の線が鋭くなり、目の下に薄い影がある。


「戻ってくれ。お前の魔法が必要だ」


風が吹いた。花畑を渡る冬の風が、殿下の外套の裾を揺らす。


「私の魔法は"欠陥"だったはずです、殿下」


声は震えなかった。自分でも驚くほど、平らかな声が出た。怒りでも悲しみでもない。ただ事実を返しているだけだった。


殿下の唇が引き結ばれた。視線が一瞬、逸れる。


「……あの判断は、間違いだった」


「殿下」


「王都の農地が死にかけている。穀物の価格は二倍を超えた。聖女の浄化魔法では土は蘇らない。魔法省の調査官が報告書を上げてきた。お前の魔法だけが——」


「私の名前ではなく、"魔法"が必要なんですね」


殿下の言葉が途切れた。


風の音だけが続く。護衛の騎士たちが坂の途中で身じろぎする気配があったが、動いてはこない。ここは第二王家の自治領だ。王家の騎士であっても、管理者の許可なく踏み込むことはできない。


殿下は答えなかった。答えられなかったのだと思う。私の名前を呼ぶことと、私の魔法を求めることの区別が、この人にはまだつかないのだろう。


そのとき、神殿の入り口に人影が立った。殿下の目がそちらに向く。


ルシアン様だった。


神殿の柱に背を預けるように立っている。腕は組んでおらず、体の横に下ろしたまま。静かに、こちらを見ていた。


殿下の目が細くなった。


「お前は何者だ」


ルシアン様は動かなかった。答えも、すぐには返さない。殿下が一歩踏み出す。


「聖地の管理者か。名は」


「ルシアン・エルデ」


殿下の顔から、わずかに血の気が引いた。エルデ。その名がどこに繋がるか、殿下もすぐに気づいたようだった。系譜を知っていたのか、それとも名前の響きだけで察したのか——殿下の喉が動くのが見えた。


「第二王家の——」


「継承権は三代前に放棄しています」


ルシアン様の声は、いつも通り静かだった。殿下を見る目にも、敵意は見えない。ただ、体の横に下ろした手が、微かに力んでいるのが私にはわかった。


殿下が一瞬、言葉を失った。その隙に——というつもりではなかったのだろうが、殿下は外套の内側から一通の封書を取り出した。


「これを渡すよう頼まれた」


差し出された封書に、見覚えのある紋章が押されていた。アシェンブルク公爵家の封蝋。


父上からの手紙。


手が伸びかけて、止まった。封蝋の赤が、冬の光の中で鈍く光っている。中に何が書かれているのか。謝罪か。弁明か。帰ってこいという命令か。


どれであっても、同じだった。


封書を受け取り、開かず、そのまま折りたたんで殿下に返した。


「……読む必要はありません」


殿下の手が、封書を受け取り損ねて揺れた。


「フロー——」


「戻りません」


声に力を込めた。鋏を握る手に、じわりと汗がにじむ。


「私はもう、誰かに必要とされるために生きることをやめました。ここにいるのは、私がここにいたいからです」


風が止んだ。


殿下は私を見ていた。何か言おうとして、口を開き、閉じ、もう一度開いた。けれど言葉は出なかった。外套の裾を握りしめる指が白くなっている。


長い沈黙の後、殿下は踵を返した。坂を下り、護衛の騎士たちと合流し、馬車に乗り込む。扉が閉まる音。御者が手綱を取り、馬車が動き出す。車輪が砂利を噛む音が、丘を下って遠ざかっていった。


王家の旗が、丘の向こうに消えた。


手が震えていた。


鋏を握りしめたまま、膝が笑っている。体の芯から力が抜けていくような感覚に、立っているのがやっとだった。言うべきことは言った。間違ったことは言っていない。それでも、体がこんなにも揺れている。


背後に、足音がした。


肩に、温かいものがかかった。外套。ルシアン様の外套だった。生地越しに、彼の体温がかすかに残っている。


ルシアン様は何も言わなかった。私の隣に立ち、丘の向こうに消えた馬車の方を、一緒に見ていた。横目で見ると、体の横に下ろした拳が——固く握られて、小さく震えていた。


冬の風が、花畑を渡っていく。肩にかかった外套の温もりが、じわりと広がった。


振り返って、ルシアン様の顔を見上げた。


「話したいことがあります」


ルシアン様の息が、白い靄になって唇の前で止まった。

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