第7話「いなくなる、ということ」
花畑に霜が降りていた。
冬の朝の空気は刃物のように鋭い。白く凍りついた花弁が、朝日を受けて硝子のように光っている。寒さに耐えて咲いている花たちの間を歩きながら、ひとつ気づいた。
ルシアン様の姿が、どこにもない。
いつもなら、私より早く花壇にいる人だった。朝露が乾く前に支柱を確認し、霜除けの布を調整している。エルデンに来てから八ヶ月。その姿を見なかった朝は一度もなかった。
神殿に戻った。廊下は静まり返っている。書庫の扉は閉まっていた。ルシアン様の部屋の前を通りかかると、中から微かな物音がした。何かを棚から下ろす音。布で包む音。
扉の隙間から覗く気にはなれなかった。けれど足が止まる。物音が続く。規則的に、何かを箱に詰めている。
その箱の端から、紙の束がはみ出しているのが——扉の隙間越しに、一瞬だけ見えた。手紙だろうか。古びた紙に、細い文字が並んでいる。
昼前、ルシアン様が神殿の中庭に出てきた。
私は花壇の土を確認していた。霜で表面が硬くなっている。指先がかじかんで、土の温度がうまく測れない。
足音が近づいてくる。いつもの二歩の距離で、止まった。
「少し、話があります」
ルシアン様の声が、いつもより低かった。振り返る。彼の顔は穏やかだったが、唇の端にわずかな力が入っている。何かを堪えているときの表情だと、八ヶ月を共に過ごして知っていた。
「僕があなたの負担になるなら、神殿の奥に退きます。あなたの目に入らないようにする」
息が止まった。
「聖地の管理権は、あなたに委譲します。書類は整えてある。この土地の運営は、あなたと農婦たちで十分にできる」
ルシアン様は私を見ていなかった。花壇の端に視線を落としている。手が体の横で固く握られていた。
「ルシアン様——」
「正体を隠していたことで、あなたを傷つけた。僕が王族であることが、あなたの不安の原因なら」
「待ってください」
声が裏返った。自分でも驚くほど大きな声だった。ルシアン様が初めてこちらを見た。
けれど、続く言葉が出てこない。何を言えばいいのかわからない。行かないでほしい。でもなぜ。なぜ、この人がいなくなることが、こんなに——。
「……考えさせてください」
絞り出した声は掠れていた。ルシアン様は黙って頷き、背を向けた。神殿の奥へ消えていく足音が、石の廊下に反響して、長く残った。
午後、花壇の前にしゃがみ込んだまま、動けなくなった。
霜が解けて、土が湿り始めている。花は寒さに耐えて咲いている。薬草も冬を越す準備を始めていた。この花畑は、もう私一人の力ではない。農婦たちがいる。マルタがいる。商隊との取引もある。ルシアン様がいなくても、回っていく。
回っていく。
それなのに、胸の奥に穴が開いたような感覚が消えない。
ルシアン様が花壇にいない朝。花の名前を呟く声が聞こえない日々。交渉の場で後ろに立つ気配がない空間。
想像しただけで、指先の感覚が薄れた。
これは、何だ。
マルタへの感謝とも、農婦たちとの連帯感とも違う。もっと鋭くて、もっと苦しい。ルシアン様がいなくなると想像しただけで、こんなにも体が拒絶している。
——行かないで。
その叫びが、胸の底から湧き上がった瞬間、私はようやく理解した。
夕刻。坂の下から蹄の音が聞こえた。
商隊の時期ではない。首を傾げて坂を見下ろすと、一頭の馬が駆け上がってくる。乗っているのは若い男性で、日焼けした顔に見覚えがあった。マルタの息子だ。交易商隊に参加していると聞いていた。
馬から飛び降りるなり、男は膝に手をついて息を整えた。冷たい空気の中で、白い息が何度も上がる。
「フローラ嬢。お伝えしなきゃならないことがある」
「落ち着いて。何があったんですか」
「王都から使者が来る。あんたを連れ戻すつもりらしい」
手が止まった。
マルタの息子は息を整えながら続けた。交易で王都に近い街を通ったとき、酒場で耳にした話だという。
「穀物が倍の値になった。花が全く咲かない。聖女様の魔法じゃどうにもならないって、みんな言ってる」
馬が鼻を鳴らした。冬の風が丘を吹き抜け、花畑の花弁を揺らす。
「それとアシェンブルク公爵——あんたの父上の領地も、不作が酷いって話だ。近隣で一番被害が大きいらしい」
父上の領地。その言葉が耳を通り過ぎるとき、何も感じなかった。凍った水面に石を落としたように、波紋すら立たない。
「使者って、誰が来るんですか」
「詳しくは聞けなかった。けど、王家の紋章がついた馬車を仕立ててるって」
王家の紋章。レクト殿下だろうか。それとも別の誰か。どちらにしても、この聖地は第二王家の自治領だ。武力で連行することはできない。来るなら、説得するしかない。
マルタの息子に礼を言い、水と食事を用意した。彼が馬を休ませている間に、私は花畑の端に立った。
丘の向こうは、まだ荒野が広がっている。冬枯れの灰色の大地。花畑の緑は、その中にぽつりと浮かぶ小さな島のようだった。
ルシアン様に向き合わなければならない。王都の使者にも。でもまず——自分自身に。
行かないで、と思った。今日の昼に、胸の底からあの叫びが湧いたとき、何が起きたのか。なぜ、あの人がいなくなることがこんなにも怖いのか。もう、わかっている。わかっていて、まだ言葉にできないでいる。
振り返る。神殿の窓に、灯りが一つ見えた。ルシアン様の部屋だろう。あの灯りの下で、あの人は今も私物を箱に詰めているのだろうか。
翌朝。丘の上に、王家の旗を掲げた馬車が見えた。




