第6話「王家の影」
殿下、と——あの人は呼ばれた。
書庫の扉の向こうで交わされた会話が、まだ耳の中で反響している。朝の冷たい空気が廊下に溜まり、素足の裏から体温を奪っていく。
部屋に戻り、寝台の端に腰を下ろした。窓の外では秋の朝日が花畑を照らし始めている。いつもなら真っ先に外へ出る時間だった。土の状態を確かめ、昨日の魔法が定着しているか見に行く。それが日課になっていた。
今日は、足が動かない。
書庫に向かったのは、日が高くなってからだった。
扉を開けると、エーリッヒが机に向かって帳面を広げていた。ルシアン様は窓際に立っている。二人の間に、昨晩とは違う空気が流れていた。エーリッヒの目は帳面ではなくルシアン様に向いており、ルシアン様は窓の外を見たまま動かない。
「おはようございます、フローラ嬢」
エーリッヒが椅子から立ち上がった。声は昨日と同じく穏やかだったが、目の奥に「覚悟を決めた」という色があった。
「昨朝の会話を、お聞きになりましたね」
隠す気はないらしい。私は頷いた。ルシアン様の背中が、わずかに強張るのが見えた。
エーリッヒが革鞄から一枚の紙を取り出し、机の上に広げた。古い系譜図だった。黄ばんだ紙に、王家の血筋が細かい文字で記されている。
「エルデ家は第二王家の直系です。三代前に王位継承権を放棄していますが、血筋としての正統性は現王家と同等。エルデ殿——ルシアン殿下は、現国王の従弟にあたります」
文字を目で追った。系譜の末端に「ルシアン・エルデ」の名がある。その上に、第二王家の紋章。
視界が、にじんだ。涙ではない。焦点が合わなくなっている。
ルシアン様が振り返った。私と目が合い、何か言おうとして——口を開き、閉じ、もう一度開いた。
「……隠していたことは、謝ります」
声が低い。いつもより言葉を選んでいるのがわかる。けれど私の耳には、もう別の声が重なっていた。
花しか咲かせられない令嬢に、王妃は務まらない。
レクト殿下の声。卒業式の翌日。周囲の笑い声。王族の婚約者として六年間を過ごし、最後に突きつけられた破棄文書。
また王族だ。
また、隠されていた。
「失礼します」
自分の声が遠くに聞こえた。踵を返し、書庫を出た。背後でルシアン様が何か言いかけた気配があったが、足は止まらなかった。
神殿の裏手に出た。花畑が広がっている。いつもと同じ景色のはずなのに、色が薄く見える。
石段に座り込んで、膝を抱えた。秋風が首筋を撫でる。花の甘い匂いが鼻に届くが、今はそれすら遠い。
王族。第二王家の末裔。国王の従弟。
あの人が私を受け入れた理由は何だったのだろう。「聖地に花が必要だから」と言った。古文書を見せてくれた。花の名前を呟いていた。交渉の場で黙って後ろに立っていた。昨日の夕暮れには「彼女の魔法は奇跡だ」と言った。
そのすべてが、王族としての計算だったのか。
——違う、と思いたい自分がいる。でも信じていいのかわからない。レクト殿下のときも、最初は悪い人だとは思わなかった。婚約者として六年間を過ごし、最後に知ったのは、私が「評判を傷つける存在」でしかなかったという事実だった。
膝に額を押しつける。石段の冷たさが額に染みた。
どれくらいそうしていたのか。足音が近づいてきた。重い足取り。マルタだ。
「お嬢。こんなところで何やってんだい」
籠を石段に置いて、隣に腰を下ろす。体が大きいから、座るだけで石段が軋んだ。
答えられなかった。マルタは何も聞かず、しばらく一緒に花畑を眺めていた。風が花を揺らし、花弁が一枚、石段の上に落ちた。
「ルシアン坊ちゃんのことだろう」
私は顔を上げた。マルタは前を向いたままだった。
「あの坊ちゃんの素性は知ってるよ。三十年この聖地に通ってるんだ。父親が生きてた頃から知ってる」
風が吹いた。マルタの白髪が揺れる。
「あの坊ちゃんがお前を利用する人間に見えるかい。あたしは三十年あの子を見てきた」
マルタの声は、いつもと同じぶっきらぼうな調子だった。慰めでも説得でもない。事実を述べている口調。三十年という時間の重みが、その短い言葉の中にあった。
「父親が死んで、母親が出て行って、あの坊ちゃんは一人でこの聖地を守り続けた。訪ねてくる人間なんて、あたしら村の年寄りくらいのもんだ。それでも花壇を手入れして、古文書を読んで、ずっとここにいた」
マルタが立ち上がった。膝を叩いて、籠を持ち直す。
「お前を騙すような器用な人間じゃないよ、あの子は」
背中を向けて、坂を下りていく。
夕方になって、窓から外を見た。
ルシアン様が花壇にいた。しゃがみ込んで、土を触っている。枯れかけた茎を支柱に結び直し、伸びすぎた葉を整えている。いつもと同じ手つきだった。花弁に触れないように指先を避ける、あの丁寧な動き。
朝、書庫で私が出て行った後も、ずっとああしていたのだろうか。追いかけてこなかった。弁解もしなかった。ただ花壇の前にいる。
窓枠に手をかけたまま、その背中を見ていた。神官服の肩が夕日で赤く染まっている。一人きりの花壇。一人きりの聖地。三十年——いや、ルシアン様の年齢を考えれば、父親が亡くなってからの十年。十年間、たった一人でここにいた人。
あの花壇の手つきは嘘じゃない。
そう思った。確信ではなかった。まだ揺れている。でも、マルタの言葉とルシアン様の変わらない背中が、否定しきれない何かを残していた。
窓から手を離せないまま、日が暮れていく。ルシアン様は暗くなるまで花壇にいた。
翌日。
エーリッヒが発つ支度をしていた。革鞄に帳面と筆記具を詰め、馬の鞍を調えている。
「報告書は王都に送ります。辺境に古代大地再生魔法の使い手がいること。元アシェンブルク嬢であること。すべて正確に記録しました」
神殿の入り口で、エーリッヒは私に向き直った。
「この報告が届けば、王都はあなたの存在を無視できなくなる。それが良い結果を生むか、厄介な結果を生むかは——正直、わかりません」
「……わかっています」
エーリッヒは頷き、馬に跨った。坂を下りかけて、一度だけ振り返った。
「フローラ嬢。あなたの花は、見た人間の常識を壊す力がある。それだけは確かです」
蹄の音が遠ざかっていく。土埃が風に流された。
後になって商隊の者から聞いた話では、この頃の王都では農地の不作が周辺地域にまで広がっていたという。穀物の価格はさらに跳ね上がり、市民の間で不満の声が出始めていた。レクト殿下が「なぜ聖女の魔法で解決できないのだ」と苛立っているという噂も、商隊の男は声をひそめて語っていた。
エーリッヒの報告書は、その王都に届く。元アシェンブルク嬢が辺境で花を咲かせているという事実が、レクト殿下の耳にも入るだろう。
花畑に目を向けた。秋風に揺れる花の向こうに、ルシアン様の姿が見えた。今日も花壇の手入れをしている。昨日と同じ手つきで、昨日と同じ丁寧さで。
その背中に、声をかけることはまだできなかった。けれど目を逸らすことも、もうできなくなっていた。




