第5話「調査官の目」
魔法省が来る。それが何を意味するか、私にはわかる。
商隊の男が置いていった言葉が、二週間経っても頭から離れなかった。秋の風が花畑を揺らし、朝の空気には冷たさが混じり始めている。エルデンに来て半年。花畑は丘の斜面を覆うまでに広がり、薬草の出荷も軌道に乗っていた。
それが、終わるのかもしれない。
学院での六年間を思い出す。攻撃魔法の試験で花を咲かせるたびに笑われた。教官は困った顔をし、同級生は指を差した。魔法省の評価基準では、攻撃適性のない魔法は「欠陥」に分類される。調査官が来るということは、私の魔法が再び「欠陥」として記録されるということではないのか。
あるいは——もっと悪いことに、利用価値のある「道具」として記録されるのか。
その朝、坂の下に見慣れない馬が一頭繋がれていた。
神殿の入り口に立つと、書庫から声が聞こえる。ルシアン様の低い声と、もう一つ、聞いたことのない声。早口で、抑揚が不規則に跳ねる話し方。
「失礼します」
書庫の扉を開けた。ルシアン様が入り口側に立ち、その向かいに——眼鏡をかけた痩身の男性が、椅子に腰を下ろしていた。膝の上に革鞄を抱え、中から帳面と筆記具を出しかけている。旅装は質素だが、上衣の襟元に魔法省の紋章が縫い取られていた。
「エーリッヒ・グラント。魔法省調査官です」
男性は立ち上がり、浅く頭を下げた。動作は官僚的に正確だったが、目が忙しなく動いている。書庫の古文書、窓の外の花畑、私の顔。すべてを観察し、記録しようとする目だった。
「フローラ・アシェンブルクです」
「存じています。元アシェンブルク公爵令嬢。王立学院を卒業後、エルデン聖地に——」
「調査官殿」
ルシアン様の声が割って入った。静かだが、芯のある声。エーリッヒの早口が止まる。
「まず、花畑をご覧になってはいかがですか」
エーリッヒは眼鏡の奥で目を細め、頷いた。
秋の陽射しの下、花畑はよく映えた。
白い花、青い花、その間に自生した薬草の緑。丘の斜面を下る緑の帯を、エーリッヒは長い間見つめていた。歩き始めると、足を止めてはしゃがみ込み、花に触れ、土を掬い、匂いを嗅いだ。帳面を取り出してはしまい、また取り出す。
「……これは」
声が掠れていた。立ち上がり、花畑の全景をもう一度見渡して、「これは」ともう一度呟いた。
「実演をお願いできますか」
私は頷いて、花畑の縁にある未整備の区画に膝をついた。土壌の改良は済んでいるが、まだ魔法を入れていない場所。両手を土に押しつけ、魔力を流す。
光が走った。土の中から茎が伸び、蕾が開く。エーリッヒが息を呑む音が、すぐ後ろで聞こえた。
「魔力の流れが……土壌に向かっている。攻撃魔法の魔力経路とまったく異なる。これは——未分類、いや」
早口が加速する。帳面を広げ、猛烈な速度で書き始めた。ペン先が紙を引っ掻く音が耳に届く。
「古代に記録のある大地再生魔法だ」
断定だった。エーリッヒは書く手を止めず、視線だけを上げた。眼鏡の奥の目が、先ほどまでの観察者のそれではなくなっている。もっと熱い、何かに飢えた人間の目。
「あなたの魔法は国宝級です、フローラ嬢」
手が止まった。土の上に置いたままの掌が、小さく震える。
国宝級。それは褒め言葉のはずだった。なのに、背筋に冷たいものが走る。
「……それは、王都に報告されるのですか」
「報告義務があります。ただし——」
エーリッヒが私の顔を見た。ペンを置き、帳面を膝の上で閉じた。
「この魔法が学院で"欠陥"と呼ばれていたとは。魔法省の評価体系に根本的な欠陥がある」
沈黙が落ちた。秋風が花畑を渡り、花弁が揺れる音だけが続く。
エーリッヒの言葉は、怒りでも同情でもなかった。学術的な確信に基づく、静かな断罪だった。六年間「壊れた魔法」と呼ばれ続けたものが、この人の目には「評価体系の方が壊れていた」と映っている。
喉の奥が熱くなった。唇を引き結んで、俯く。土の匂いが鼻に届いた。生きた土の匂い。
「フローラ嬢」
エーリッヒの声が、少し柔らかくなった。
「私は真実を報告します。政治的忖度は行わない。あなたの魔法が何であり、何を成し遂げたかを、正確に記録する。それが私の職務です」
顔を上げた。エーリッヒは帳面をしまい、立ち上がっていた。目は真剣で、嘘をつく人間の目には見えなかった。
この人は政治で来たのではない。学問で来ている。
胸の中で、何かが緩んだ。完全に信頼したわけではない。けれど、拒絶し続ける理由も消えていた。
夕刻、神殿の中庭で三人が向き合った。
エーリッヒが調査結果をまとめている間、ルシアン様はずっと花畑の縁に立っていた。エーリッヒと距離を保ちながらも、会話の射程内にいる。
「エルデ殿」
エーリッヒが帳面から目を上げて、ルシアン様に声をかけた。
「聖地の古文書に大地再生魔法の記述がある、と先ほどおっしゃいましたね。それはどの程度前から把握されていたのですか」
ルシアン様の肩が、わずかに強張った。
「……十年ほど前から。父がまだ存命だった頃に、古文書の整理を始めた」
「なるほど。それが、学院の古文書室への定期訪問の理由でもあると」
沈黙。ルシアン様がエーリッヒを見据える。エーリッヒは視線を逸らさなかった。
「聖地管理者の調査権限に基づく訪問です」
「ええ、それは承知しています」
エーリッヒの声は穏やかだが、目が探るように動いている。何かを確かめようとしている——けれど今は踏み込まない、という判断が透けて見えた。
ルシアン様が視線を花畑に戻した。夕日が花を染めている。
「調査官殿。彼女の魔法は奇跡だ」
静かな声だった。いつもの抑制された口調。けれどその中に、揺るがない何かがあった。事実を述べるのではなく、確信を伝えている。
胸の奥が跳ねた。
一瞬、呼吸が止まる。自分の体の反応に驚いて、ルシアン様の横顔から目を逸らした。夕日のせいだ、と思おうとした。秋の空気が冷たいから、体温の変化に敏感になっているだけだ。
けれど、逸らした視線が勝手にルシアン様の方へ戻ろうとする。その衝動の正体がわからなくて、私は足元の土を見つめた。
翌朝、目が覚めたのは、廊下を歩く靴音だった。
部屋の扉に近い壁に耳を寄せると、書庫の方向から声が漏れてくる。エーリッヒの声。それから、ルシアン様の声。
「殿下、いつまで隠すおつもりですか」
足の裏から温度が消えた。
殿下。
その呼びかけが聞き間違いでないことを確かめるように、もう一度耳を澄ませた。ルシアン様の返答は聞こえなかった。沈黙だけが、冷たい石の廊下を伝ってくる。
指先が扉の取っ手に触れていた。開けることも、離すこともできない。昨日の夕暮れに聞いた「彼女の魔法は奇跡だ」という声が、耳の奥で別の色に変わっていく。
廊下の向こうで、椅子が軋む音がした。




