第4話「花を売る女」
前世で花屋をやっていた頃、一番大事にしていたのは仕入れ値の管理だった。
どんなにきれいな花を並べても、原価を把握していなければ店は潰れる。仕入れ値、ロス率、季節変動、配送コスト。それを頭に入れた上で、お客さんが「この値段なら買おう」と思える価格をつける。十二年間、毎朝市場に通って身につけた感覚だった。
結局、最後は大手に押されて店を閉めた。けれど値付けの勘だけは、体に残っている。
夏の陽射しが、聖地の花畑を照らしていた。
エルデンに来て三ヶ月あまり。神殿の裏手から始まった緑は、丘の斜面を下って広がり、今では畑二枚分ほどの面積になっている。白や青の花の合間に、薬草が列をなして自生していた。農婦たちが毎朝通ってくれるおかげで、土壌改良の速度は格段に上がっている。
巡回商隊が来る日だった。
前回の商隊で、薬草が王都で高値になっていると聞いた。あれから一ヶ月。薬草の収穫量は増え、花卉も切り花として出せるだけの本数が揃い始めていた。
商隊の荷馬車が坂の下に止まる。商人が二人、護衛が三人。先月来た商人と同じ顔ぶれだった。坂を上がってくる商人の目が、広がった花畑を見て丸くなる。
「ずいぶん増えたな……」
「お取引のお話をさせてください」
私は商人の前に立ち、手元の帳面を開いた。前世の手帳を元に作った簡易な原価表。薬草の種類ごとの収穫量、乾燥にかかる日数、保存可能な期間。それから、王都での相場を前回の商人の言葉から逆算した卸値の目安。
「薬草は三種類あります。ティアリスは乾燥済みで日持ちがしますので、束ごとの単価を高めに設定しています。シルヴァートは鮮度が命なので、速く届けられるなら割引きます。花卉は切り花を水桶ごとお渡しする形で——」
商人が目を瞬いた。
「あんた……商売やったことがあるのか」
「少しだけ」
嘘ではない。前世の記憶を「少し」と呼ぶのは無理があるけれど。
交渉は思ったよりも早く進んだ。商人は辺境の僻地でこれだけの品質の薬草が出ることに驚いていたし、私が提示した価格は王都の相場から見れば十分に安かった。商人にとっても利幅がある。互いに損をしない値段。前世で何百回と繰り返した、卸売りの基本形だった。
帳面に数字を書き込みながら、背中に視線を感じた。ルシアン様だ。交渉の間、ずっと三歩ほど後ろに立っていた。口を挟むでもなく、ただそこにいる。
商人がちらりとルシアン様を見て、何か言いかけたが、やめた。ルシアン様の表情は穏やかだったが、腕を組んで立つ姿には静かな威圧があった。神官服越しにも、鍛えられた体格がわかる。商人が不当なことを言い出す気配はなかった。
契約がまとまり、商人たちが薬草と花卉を荷馬車に積み込んでいく。私の手元に、初めての売上が残った。銅貨と銀貨が混じった、小さいが確かな重み。
神殿の修繕に取りかかったのは、その翌日からだった。
ひび割れた石段の補修材を商隊に発注した。農婦たちには日当を払い始めた。最初は「いらないよ」と手を振られたが、マルタが「もらっときな。仕事には対価を出すもんだ」と一言で収めてくれた。
「お嬢、あんた本当に貴族かい。商売がうまいじゃないか」
マルタが石段に腰を下ろして笑った。日焼けした顔に刻まれた皺が深くなる。からかいではない、どちらかといえば感心したような声だった。
「貴族は……もう辞めましたから」
「辞められるもんかい」
マルタは鼻で笑って、膝を叩いて立ち上がった。
一人になって、掌の中の銅貨を見つめる。前世の花屋が潰れたのは、花の質が悪かったからではなかった。資金が回らなくなったのだ。仕入れに使う金が足りず、品揃えが減り、客が離れ、さらに金が減る。その悪循環を止められなかった。
今度は同じ轍を踏まない。お金がなければ、土地も人も守れない。花屋の閉店が教えてくれたのは、きれいなものを作るだけでは足りないということだった。
ルシアン様が神殿の入り口に立っていた。いつの間にか、荷馬車の見送りから戻っている。
「うまくいきましたね」
「……ええ」
何か言いたそうに口を開きかけ、閉じた。ルシアン様はよくそうする。言葉を飲み込む癖があるのだと、最近わかってきた。代わりに、こちらを見る目が少しだけ柔らかくなる。
この人が後ろに立っていてくれたことが、どれだけ心強かったか。商人の目がルシアン様に向いたとき、空気が変わるのがわかった。不思議だ。声を出したわけでもないのに。
いてくれると安心する。
そう思って、少し驚いた。追放されてからこの方、誰かの存在に安心を覚えたことはなかった。マルタの温かさとも違う。言葉にできない何かが、ルシアン様の沈黙の中にある。
後になって商隊の者から聞いた話では、この頃、王都では農作物の不作が深刻になっていたという。
穀物の価格が上がり始め、市場では小麦の値が春先の倍近くになった。王城では対策が議論され、レクト殿下が聖女セレスティナ様に「浄化魔法で畑を何とかできないか」と持ちかけたのだそうだ。
セレスティナ様の魔法は炎の浄化。魔物や呪い、病害を焼き尽くして清める力だと聞いている。宮廷での評価は高く、レクト殿下が私との婚約を破棄してまで迎え入れた聖女だ。
その炎が、試験的に農地に使われた。
結果は——土が焼けただけだったという。
浄化魔法は「破壊して清める」ものであり、土壌を蘇らせる機能は持たない。炎は害虫を焼いたが、同時に土中の微生物も焼き殺した。農地はむしろ悪化し、試験区画の作物は全滅したと、商隊の男は首を振りながら語っていた。
浄化と再生は、別のものだ。
私がそう思ったのは、前世の花屋で学んだことに基づいている。害虫駆除の薬を撒きすぎれば、益虫まで死ぬ。消毒しすぎた土は、かえって植物を弱らせる。壊して清めることと、生かして育てることは、根本的に違う。
けれどそれは、この世界の魔法体系では「存在しない発想」なのかもしれなかった。
夕暮れ。花畑の端に座って、帳面に明日の作業予定を書き込んでいた。
商隊が去り際に残していった言葉が、頭に引っかかっている。荷馬車に最後の花卉を積み終えた後、商人の一人が振り返って言った。
「あんたの花の噂、もう王都まで届いてるよ」
少し間を置いて、声をひそめるように続けた。
「魔法省が調査官を送るって話だ」
帳面を持つ指が、止まった。ペン先が紙の上で動かなくなる。
魔法省が来る。それが何を意味するのか、六年間を学院で過ごした私には、わかる。
顔を上げると、花畑の向こうに夕日が沈みかけていた。赤い光が花弁を染めている。その色が、急に遠く見えた。




