第3話「花の名前を知る人」
朝もやの中、しゃがみ込んで土を掌に取った。
鼻に近づけると、かすかに湿った匂いがする。数日前にはなかった匂いだ。微生物が動き始めている証拠——前世の花屋時代に何度も嗅いだ、土が生き返る最初の兆し。
花畑は少しずつ広がっていた。最初の三歩四方の区画から、隣接する土地へ。石灰岩を取り除き、落ち葉の堆積を混ぜ込み、排水溝を掘る。その上に魔法を重ねると、花が咲き、翌朝も残っている。同じ手順を繰り返すたびに、緑の範囲が広がっていく。
土を戻して立ち上がったとき、坂の下から複数の足音が聞こえた。
マルタが先頭を歩いていた。その後ろに、五人の女性が続いている。年齢はさまざまで、日に焼けた肌と荒れた手が共通していた。農作業を長く続けてきた人たちの手だと、一目でわかる。
「連れてきたよ」
マルタが言った。それだけ。紹介の言葉も前置きもなく、五人の視線が私に向く。警戒と好奇心が混じった目。
一人がマルタの袖を引いた。小声で何か言っている。「本当に貴族なのか」「こんな若い娘が」——断片的に聞こえる声に、私は背筋を伸ばした。
「フローラと申します。よろしくお願いします」
頭を下げた。五人の間にざわめきが走る。貴族が頭を下げたことへの動揺だろうか。それとも、土だらけの手で頭を下げた姿が可笑しかったのか。
「……こっちです。見てください」
振り返って花畑に向かう。足音がついてくる。角を曲がり、神殿の裏手に出た。
白い花、青い花。風に揺れる茎の列。まだ狭い区画だけれど、荒れ地の中にそこだけ色がついている。
後ろで、誰かが息を呑んだ。
振り返る。五人のうち、最も年嵩の女性が膝をついていた。両手で口を覆い、花を見つめている。肩が震えていた。
「……三十年、こんな花は見てない」
搾り出すような声だった。隣にいた女性がその肩を支える。マルタは腕を組んだまま黙って立っていた。
喉の奥が熱くなった。けれど今は泣く場面ではない。前世で花屋をやっていた頃の感覚が、背中を押す。お客さんが泣いているときにやるべきことは、一緒に泣くことではなく、花を渡すことだ。
「この花を、皆さんの畑にも咲かせたいんです。手伝っていただけませんか」
土壌改良の手順を教える、というのは初めてのことだった。
けれど口が勝手に動いた。前世で、花屋のワークショップをやっていた頃と同じだ。お客さんに寄せ植えの作り方を教えたり、土の配合を説明したり。手を取って、指の間に土を落として、「この感触が大事なんです」と言うあの感覚。
「まず、白っぽい小石を取り除きます。これが多いと土がアルカリに傾きすぎて、根が養分を吸えなくなるので」
五人が一斉にしゃがみ込む。小石を拾う手つきは慣れたものだった。畑仕事をしてきた人たちだ。土に触ることに抵抗がない。
「次に、ここの落ち葉を混ぜます。分量はこのくらい」
掌いっぱいの腐葉土を見せる。匂いを嗅いでもらう。「この匂いがしたら、土が生き始めている合図です」——前世の記憶が、今の私の言葉になっていく。
一人の女性が排水溝を掘る手を止めて聞いた。
「あんた、どこでこんなこと覚えたんだい」
答えに詰まった。前世で花屋をやっていた、とは言えない。
「……本で読んだのと、少しだけ経験があって」
曖昧な答えだったが、女性はそれ以上追及しなかった。結果が出ていれば理由は問わない。農民とはそういうものなのかもしれないと思った。
昼過ぎには、新しい区画が三つ増えていた。五人の手があると作業は早い。石を除き、腐葉土を混ぜ、排水溝を掘る。整え終わった区画に、順番に魔力を注いでいく。
花が咲くたびに、女性たちの表情が変わった。最初の警戒は消え、代わりに手が忙しくなる。次の区画を整え始める人。咲いた花のそばの土を触って確かめる人。声が増え、笑い声さえ混じり始めていた。
三つ目の区画に魔力を注ぎ終えたとき、視界の端が揺れた。手が震え、膝に力が入らない。一日に使える魔力の限界が近い。
「今日はここまでにしましょう」
立ち上がるとき、よろけた。マルタの手が肘を掴んだ。
「無理するんじゃないよ」
ぶっきらぼうだが、握る力は加減されていた。
夕方、神殿の裏手で水を飲んでいると、ルシアン様が花畑の端にいるのが見えた。しゃがみ込んで、花を一輪ずつ見ている。唇が動いていた。
近づくと、声が聞こえた。
「……リューリア。これはリューリアだ。それから、シルフィベル。こちらはアマーリエ。白いのは——ティアノス。古い品種だ。聖地の記録にある」
花の名前を、一つ一つ呟いている。図鑑を読み上げるような口調ではなかった。もっと柔らかい、慈しむような響き。ルシアン様の声がこんなに饒舌になるのを、初めて聞いた。
「……お詳しいんですね」
声をかけると、ルシアン様の肩がわずかに跳ねた。振り返った顔が、少し——赤くなっているように見えた。夕日のせいかもしれない。
「聖地の古文書に、花の記録がある。僕が好きで読んでいただけだ」
視線が花に戻る。照れを隠すように、近くの茎の傾きを直している。その手つきが丁寧で、花弁に触れないよう指先を避けているのが目に入った。
花が好きな人なんだ。
そう思ったとき、不思議な感覚が胸の中に広がった。学院にいた六年間、花を好きだと言ってくれた人はいなかった。私の花を見て名前を呟く人も。この人は、花の名前を知っている。古文書で読んだだけだと言うけれど、その声には愛着があった。
ルシアン様が立ち上がった。私との間には二歩ほどの距離がある。いつもこのくらいの間隔を保つ人だった。近づきすぎず、けれど離れすぎもしない。
「薬草が自生し始めています」
ルシアン様が花畑の奥を指した。目を向けると、花の合間に見覚えのある葉が出ている。細長い葉に白い産毛。薬草だ。植えた覚えはない。
「土壌が活性化したことで、休眠していた種子が芽を出したのでしょう」
ルシアン様が淡々と説明する。けれどその声の底に、微かな高揚が混じっていた。少なくとも、私にはそう聞こえた。
その夜、窓から外を眺めた。月明かりの下で、花畑が白く浮かんでいる。あの花たちの名前を、ルシアン様は全部知っていた。リューリア、シルフィベル、アマーリエ、ティアノス。私が咲かせた花に、一つずつ名前がある。
前世の花屋でも、名前を知っている花は特別だった。名前を呼べるということは、その花を見分けているということだ。見分けているということは、見ているということだ。
ルシアン様は、私の花を見ている。
胸の奥がほんのり温かい。けれど、それに名前をつけようとは思わなかった。
翌日から、花畑の拡大は加速した。農婦たちが毎朝やってきて、土壌改良の作業を進める。私は魔法を使い、彼女たちは土を整える。役割が噛み合い、日に日に緑の範囲が広がった。
薬草の自生は続いていた。花畑の外縁部に、数種類の薬草が芽を出し始めている。ルシアン様が古文書と照合して、一つずつ名前を確認してくれた。そのうち幾つかは、辺境では貴重な種類だという。
王都の話を聞いたのは、それから数日後だった。
マルタが夕食の籠を運んできたとき、珍しく口数が多かった。下の村に立ち寄った行商人から聞いた話だという。
「王都の王城で、庭園の花が全部枯れたんだとさ」
手が止まった。
「王子が庭師を怒鳴りつけたらしいけど、原因はわからないって。まあ、あたしらには関係ない話だけどね」
マルタはそれだけ言って、籠の中身を並べ始めた。パンと干し肉と、今日は小さな林檎が一つ入っている。
王城の庭園。レクト殿下が庭師を叱責している。花が枯れた原因がわからない。
関係ない話だ。マルタの言う通り。もう私には関係のない場所の、関係のない出来事。
林檎を手に取った。冷たい皮の感触。かじると、酸味の強い果汁が口に広がった。辺境の林檎は王都のものより小さくて酸っぱい。けれど、今はこの酸っぱさがちょうどいい。
数日後の朝、坂の下から蹄の音と車輪の軋みが聞こえた。
巡回商隊だった。月に一度、辺境の村々を回る小さな隊列。荷馬車が二台、護衛が数人。先頭の商人が馬車から降りて、神殿への坂を上がってくる。
マルタへの届け物だろうと思って見ていたが、商人の足は私の前で止まった。花畑を見て、目を丸くしている。口が半開きのまま、花から私へ、私から花へと視線が行き来する。
「この薬草、王都で高値がついている」
商人が花畑の奥に自生した薬草を指差して言った。声が上ずっている。
「王都の農地で不作が始まってから、薬草の流通が減っているんだ。こんな状態のいい薬草は、都の薬師が飛びつく」
私の目が、商人の指先に釘付けになった。




