第2話「枯れた聖地の目覚め」
「あんた、本当にここに住むつもりかい」
マルタの声が、朝靄の残る神殿の入り口に響いた。籠を抱えたまま、昨日と同じ値踏みするような目でこちらを見ている。
「はい。ルシアン様がお許しくださったので」
「坊ちゃんがねえ」
マルタは鼻を鳴らして籠を石段に置いた。パンと、小さな壺に入った塩漬けの肉。昨日と同じ丁寧な手つきで布を整え、それきり振り返らずに坂を下りていった。
パンを齧る。硬い。噛みしめるたびに、麦の素朴な甘さがじわりと広がる。昨日からまともに食べていなかった体が、それだけで少し軽くなった。
食事を終えて、書庫に向かった。
昨晩、ルシアン様が廊下で抱えていた革表紙の書物。それが、小さな机の上に置かれていた。ルシアン様は書棚の前に立って別の文献を繰っている。私が入ると、視線だけをこちらに向けた。
「読めますか」
「……古い書体ですが、なんとか」
革表紙を開く。紙は黄ばみ、端が崩れかけている。古語で書かれた文章の中に、図版があった。大地に手をかざす人物の絵。その足元から花が広がっていく様子が、細い線で描かれている。
ルシアン様が机の向こう側に立ち、ページの一節を指差した。神殿の高い窓から差し込む朝の光が、彼の指先と黄ばんだ紙面を照らしている。
「ここです。『大地再生の術。魔力を土に注ぎ、枯れた地を蘇らせる古き祈り。発動のしるしとして花が咲く』」
声に出して読まれると、古語の響きが耳に沁みた。
「花が咲くのは……副産物、ということですか」
「そう記されています。本質は土壌の再生。花は、魔力が植物の生命力を急速に活性化する際の——表に出る現象にすぎない」
ルシアン様の口調は淡々としていた。けれど、ページをめくる指先に微かな力が入っているのが見えた。
私は書物の図版を見つめた。大地に手をかざす人物。足元から広がる花。昨日、荒野で起きたことと同じだ。
「私の魔法が、これだと」
「可能性がある、とだけ。確かめるには——」
「土壌を整えて、もう一度試す」
言葉が被った。ルシアン様が口を閉じ、少し間を置いてから頷いた。
神殿の裏手に、かつて畑だったらしい平地がある。今は石と枯れ草が散らばるだけの荒れ地だった。
膝をつき、土を掬う。昨日の荒野と似ている。乾燥し、石灰岩の粒が混じり、指の間からさらさらとこぼれる。鼻に近づけると、土の匂いがほとんどしない。生きた土には微生物の活動による独特の湿った匂いがある。これにはそれがない。
「pHが高すぎます。石灰岩が多いから、アルカリに傾いている」
独り言のつもりだった。振り返ると、ルシアン様が三歩ほど後ろに立って、黙ってこちらを見ていた。
「石灰岩を取り除くだけでは足りない。腐葉土か堆肥を混ぜて、酸性側に寄せないと。それと、排水路。雨が降っても水が溜まるだけでは根が腐ります」
口が勝手に動いている。前世の花屋で、何百回と繰り返した土壌診断そのものだった。
荷物から園芸鋏を取り出す。母の形見。握りの花の彫刻が掌に当たる。枯れ草の根元にしゃがみ込み、土の中に残った根を掘り出した。茶色く干からびた根。その中に、わずかに白い部分がある。
鋏の刃を根に当て、枯れた部分を切り分けていく。断面を確認する。白い芯がまだ残っている根を、そっと土に戻す。
「この根はまだ生きている」
呟いて、次の根に鋏を入れた。花屋の仕事だった。入荷した苗のうち、生きているものと死んでいるものを分ける。見た目が枯れていても、根の芯が白ければまだ間に合う。何百鉢もそうやって見分けてきた手が、今も同じように動く。
ルシアン様が近寄ってきた気配がした。足音が近い。
「何か手伝えることはありますか」
「……石灰岩の欠片を取り除いてもらえますか。白っぽい小石です」
頷いて、彼はすぐに膝をついた。神官服の膝が土で汚れることを気にする様子もなく、黙々と石を拾い始める。
半日がかりで小さな区画を整えた。三歩四方ほどの狭い範囲。石灰岩の欠片を取り除き、神殿の裏で見つけた落ち葉の堆積を混ぜ込み、浅い溝を掘って排水路にした。完璧には程遠い。それでも、掌に取った土は少しだけ湿り気を帯びていた。
「やってみます」
膝をつき、両手を土に押しつけた。魔力を流す。
光が掌の下に滲む。土の中を何かが走るような感覚。そして——芽が出た。茎が伸び、蕾が膨らみ、小さな白い花が一輪、二輪と開いていく。昨日の荒野のような爆発的な広がりではない。静かに、確実に、整えた区画の中で花が咲いた。
手を離す。指が震えている。魔力を使った後はいつもこうなる。
「……枯れない、でしょうか」
声が掠れた。昨日の花は数時間で萎れた。同じことが起きたら。
ルシアン様は答えなかった。花を見つめている。その横顔に、何か——感情が走ったように見えたが、読み取れなかった。
翌朝。
目が覚めて、最初にしたことは裏手の区画を見に行くことだった。石段を駆け下り、角を曲がる。
白い花は、咲いていた。
昨日と同じ姿のまま、朝露を纏って、花弁を開いている。茎はしっかりと立ち、葉の緑も褪せていない。
膝から力が抜けた。地面にしゃがみ込んで、花に顔を近づける。露の冷たい匂いと、かすかな甘い香り。生きている。根が土を掴んでいる。
「定着、した……」
初めてだった。私の魔法で咲いた花が、翌日もそのまま残っていたのは。
後ろから足音がした。振り返ると、ルシアン様が立っていた。いつからいたのかわからない。彼もまた花を見ていた。朝日が低い角度で差し込み、白い花弁を透かしている。
「あなたの花だ」
静かな声だった。それだけ言って、ルシアン様は視線を花に戻した。
喉の奥が詰まった。六年間、私の魔法を見て笑わなかった人は一人もいなかった。花が咲くたびに「また失敗か」「欠陥品」と言われ続けた。この人は笑わない。笑わないどころか——。
でも、と思う。たまたまかもしれない。この区画の条件がたまたま良かっただけで、他の場所では同じように定着するかわからない。十八年間染みついた否定の癖が、喜びの端を引っ張る。
それでも、花は咲いている。今、目の前で。
王都にある王立学院の庭園は、広い。
もっとも、そのことを私が今ここで知る術はない。ただ、後になって商隊の者から聞いた話では、あの日——私が聖地で初めて花を定着させた頃——学院の庭園では異変が起きていたのだという。
六年間、誰にも気づかれず私の魔法が土壌を支えていた庭園。その花が、一斉に枯れ始めた。庭師が走り回り、水をやり、土を入れ替え、それでも枯死は止まらなかった。
「アシェンブルク嬢が世話していた区画から枯れ始めた」
庭師の一人がそう呟いたと、商隊の男は言っていた。けれどその言葉は、誰の耳にも留まらなかったのだろう。花しか咲かせられない令嬢の不在と、庭園の枯死を結びつける者は、まだいなかった。
夕暮れ。
神殿の入り口で空を見ていると、坂の下から足音が聞こえた。マルタだった。いつもの籠を抱えて、いつもの仏頂面で上がってくる。
「ほら、今日の分だよ。パンと——」
言葉が途切れた。マルタの視線が、私の背後に向いている。神殿の裏手、朝よりもわずかに数を増した白い花が、夕日を受けて光っていた。
マルタは籠を石段に置いた。無言で花に近づき、しゃがみ込んで、一輪をじっと見つめた。長い沈黙。風が彼女の白髪を揺らした。
やがて立ち上がり、土を払い、こちらを振り返った。目元に何か——光ったような気がしたが、夕日のせいかもしれない。
「……明日、村の連中を連れてくる」
それだけ言い残して、マルタは坂を下りていった。




