第10話「唯一の奇跡」
前世の私は、小さな花屋を一人で閉めた。
最後の日のことは、よく覚えている。棚から鉢を下ろし、冷蔵庫の切り花を処分し、レジの中身を数えた。十二年間。毎朝四時に起きて市場に行き、水揚げをし、花束を作り、配達をし、帳簿をつけた。それでも大手には勝てなかった。閉店の張り紙を出したとき、通りがかりの客が一人、足を止めて読んでいた。それだけだった。
シャッターを下ろす音が、今でも耳に残っている。金属が地面に当たる、乾いた音。あの日、私は一人だった。
春の風が、頬を撫でた。
目を開けると、窓の外が明るい。柔らかい光が部屋に差し込み、寝台の足元まで届いている。空気が違う。冬の鋭さが消え、湿り気を含んだ温かさが鼻に触れる。土の匂い。花の匂い。生きている匂いだ。
起き上がって窓を開けた。
丘が、花で覆われていた。
白。青。淡い紫。名前を知っている花も、知らない花もある。神殿の裏手から始まった小さな区画は、一年をかけて丘の斜面を下り、今では見渡す限りの花畑になっていた。その中を、人が動いている。農婦たちだ。朝早くから収穫をしている。笑い声が風に乗って聞こえてくる。
丘の麓には、見慣れない人影もあった。巡礼者だろう。最近、商隊の噂を聞いて聖地を訪れる人が増えている。花畑の縁で立ち止まり、花を見上げている姿が、窓からでも小さく見えた。
一年前、ここに着いたとき、この丘は赤茶けた荒野だった。草も花もなく、風に土埃が舞うだけの場所だった。
着替えて外に出ると、石段の下にマルタがいた。籠を抱えている。中身はパンではなく、摘みたての薬草だった。出荷用に朝から束ねてきたのだろう。
「おはよう、お嬢」
「おはようございます、マルタさん」
「花の聖女なんて呼ばれてるらしいよ、お嬢。商隊の連中が広めたんだろうね」
マルタが口の端を上げた。皺の深い顔に、からかいと、それから別の何かが混じっている。
「私はただの花屋です」
口をついて出た言葉に、自分で驚いた。花屋。前世の自分。この世界では誰にも言ったことのない言葉が、自然に出てきた。
マルタは首を傾げたが、追及しなかった。籠を石段に置き、腰を伸ばして花畑を見渡す。
「一年前、あんたがここに来たとき、あたしは流れ者だと思った。すぐ出ていくだろうってね」
風が吹いた。薬草の青い匂いが鼻に届く。
「見る目がなかったね、あたしも」
そう言って、坂を下りていった。背中が花畑の中に小さくなっていく。
神殿の裏手に回ると、ルシアンが地面に紙を広げていた。
大きな紙に、線が引かれている。花壇の配置図だ。丘の北側斜面——まだ荒れたままの区画を、次にどう整備するかの設計図。石灰岩の分布を等高線のように描き込み、排水路の候補をいくつか点線で示してある。
「ここの排水は、南側と同じ方式でいいと思う」
私は隣にしゃがみ込んで、設計図の一角を指差した。ルシアンが頷き、鉛筆で線を書き足す。肩が触れそうな距離。一年前なら、この人は必ず三歩の間隔を保っていた。今は、隣にいる。
「北側は岩盤が浅いから、溝を深く掘ると岩に当たる。浅い溝を複数本にして分散させたほうが——」
「それなら、ここに中継の溜め池を作ると効率がいい」
ルシアンの鉛筆が、紙の上を走る。溜め池の位置を書き込みながら、花壇の配置との干渉を確認している。古文書で読んだ聖地の昔の灌漑設備の知識と、私の前世の排水管理の知識が、図面の上で重なっていく。
こうして並んで設計図を描く時間が、日常になっていた。特別なことではない。朝起きて、花畑を見て、土を触って、図面を広げて、二人で次の区画を考える。その繰り返し。
けれど、この繰り返しが——前世にはなかったものだった。
花屋を閉めた日、隣には誰もいなかった。棚を片づけるのも、鉢を下ろすのも、シャッターを閉めるのも、全部一人だった。
ルシアンが鉛筆を止めて、花畑を見た。春の風が彼の銀灰色の髪を揺らしている。その横顔を見て、不意に思った。この人がいなかったら、私はまた一人で花屋を閉めるところだったかもしれない。
「どうしました」
視線に気づいたのか、ルシアンがこちらを向いた。
「何でもない。……続きをやりましょう」
鉛筆を取って、図面に戻る。指先が触れ合ったが、どちらも避けなかった。
午後。丘の上に立った。
花畑の全景が見える場所。春の陽光の下で、色とりどりの花が風に揺れている。農婦たちが収穫を終えて帰路につき、巡礼者が花畑の小道をゆっくり歩いている。神殿の石壁は修繕されて白さを取り戻し、書庫の窓から古文書の背表紙が並んでいるのが見えた。
一年前の景色と、同じ場所。同じ季節。あの日、やけになって魔法を放ったとき、咲いた花は数時間で萎れた。今、目の前にある花は一年を越えて咲き続けている。土が生きているからだ。
母の園芸鋏を取り出した。握りの花の彫刻が、掌に馴染む。この鋏で、枯れた根を切り分けた。生きている部分を見つけた。それが始まりだった。
後ろから、足音。
「ルシアン」
振り返らずに呼んだ。足音が隣で止まる。
「全部、見えますか」
「……ああ」
「すごいでしょう」
「僕にとっては、奇跡だけど」
ルシアンの声は静かだった。でも、隣にいる気配は確かだった。肩越しに感じる体温。同じ景色を見ている二つの視線。
奇跡。あの人はそう言った。調査官のエーリッヒの前で「彼女の魔法は奇跡だ」と言い切ったときと、同じ言葉。でも今の声には、あのときの硬さがない。もっと柔らかくて、もっと近い響き。
丘の向こうに目を向けた。花畑の緑が途切れた先に、灰色の荒野が広がっている。まだ手つかずの大地。石灰岩が散らばり、草の一本も生えていない荒れた地面が、遠くまで続いていた。
広い。まだ、とても広い。
でも、足元を見ると花が咲いている。一年前は何もなかった場所に。
鋏をポケットにしまい、設計図を丸めて小脇に抱えた。明日の朝、また北側の区画を見に行かなければならない。石灰岩の分布を確認して、排水溝の位置を決めて、農婦たちに段取りを伝えて。やることは山ほどある。
ルシアンが隣で、同じ方向を見ていた。荒野の向こう。花がまだ届いていない場所。
春の風が、丘を越えて荒野へ吹いていく。その風の中に、花畑の匂いが混じっていた。
(完)
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