第1話「花は剣にならない」
乾いた風が、頬の涙の跡を引っかいていった。
見渡す限り、赤茶けた土が続いている。草の一本も生えていない荒野に、轍の跡だけがうっすらと残っていた。私を運んできた馬車は、もう丘の向こうに消えている。御者は最後まで一度も振り返らなかった。
肩にかけた布袋が、鎖骨に食い込む。中身は着替えが二組と、植物の覚え書きをまとめた手帳。それから、布に包んだ小さな鋏がひとつ。荷物はそれだけだった。
風が止む。静寂が、耳の奥に圧をかけてくる。
昨日のことが、まだ喉の奥に貼りついていた。
「花しか咲かせられない令嬢に、王妃は務まらない」
レクト殿下の声は、広間によく通った。周囲の生徒たちの笑い声も。私の前に差し出された羊皮紙には、国王陛下の署名と魔法省の朱印が並んでいた。婚約破棄の正式文書。文字が滲んで見えたのは、涙のせいだったのか、それとも最初からまともに読めなかったのか。
父上の顔が浮かぶ。あの人なら異議を唱えてくれるだろうと、一瞬だけ思った。一瞬だけだ。アシェンブルク公爵が「家の恥」と呼んだ娘のために、王家に逆らうはずがない。
振り返ったとき、学院の中庭の花壇がうつむいていた気がした。六年間、毎日のように通った場所。魔法の訓練で攻撃を出そうとするたびに足元に花が咲いて、笑われて、それでも懲りずに通い続けた場所。あの花たちが、しおれていた。気のせいかもしれない。そう思いながら、私は前を向いた。
足元の土を、睨む。
赤茶色。乾ききっていて、指で押すと薄く砕ける。石灰岩の細かい欠片が混じっている。
どうして土の状態なんか気にしているのだろう。追放されたばかりの人間がやることではない。泣くとか、恨むとか、もっとそれらしいことがあるはずだ。でも体が勝手に動いていた。膝をつき、土を掌に取り、鼻に近づける。
酸性に傾きすぎている。
その判断が、どこから来たのか、自分でもわかっている。前の人生の記憶だ。小さな花屋を十二年やった。仕入れた苗が根腐れするたびに土のpHを疑い、排水を確認し、堆肥の配合を変えた。体に染みついた習慣は、生まれ変わっても消えなかった。
何の役にも立たなかったけれど。花屋の知識も、花を咲かせる魔法も、この世界では何の価値もなかった。
立ち上がろうとして、よろけた。昨日からほとんど食べていない。路銀の残りは数枚の銅貨だけで、ここに来るまでの馬車代でほぼ消えた。
荒野の真ん中で、ひとりきり。
笑えてくる。本当に、笑えてくる。
「——なら、最後に一回だけ」
誰に聞かせるでもなく呟いて、両手を地面に押しつけた。掌から魔力が流れ出る。いつもの感覚。攻撃魔法を出そうとして失敗するときの、あの脱力するような温かさ。学院では毎回これで笑われた。
光が走った。
地面が、震えた。
掌の下から何かが突き上げてくる。土を割って茎が伸び、蕾がほどけ、花弁が開く。白い花。青い花。名前を知っているものも知らないものも、次から次へと、足元から波紋のように広がっていく。
気がつけば、荒野の一角が花で埋まっていた。
息が上がっている。膝が笑っている。手が震えて、握ることもできない。
こんなに広い範囲に咲いたのは初めてだった。学院では足元にぽつぽつと花が出る程度で、それすら「欠陥品の発作」と呼ばれていたのに。
しゃがみ込んで、花に触れる。白い花弁は薄くて柔らかい。きれいだ、と思う。
でも——もう萎れ始めている。
ほんの数時間。いや、もっと早いかもしれない。端のほうから花弁が茶色く縮んでいく。土に触れる。やはり乾いている。養分が足りない。排水もない。pHも変わっていない。花は咲いたが、土そのものは何も変わっていなかった。
「……咲いただけじゃ、だめなんだ」
花屋だった頃と同じだ。見た目がきれいでも、根が張れなければ枯れる。土が生きていなければ、花は定着しない。
欠陥魔法。ずっとそう思っていた。攻撃にも防御にも使えない、花が咲くだけの壊れた魔法。でも、もしこれが「壊れた攻撃魔法」ではなく、最初から別のものだったとしたら。
土壌に合わない花を無理に咲かせても枯れる。それは魔法の欠陥じゃなく、土の問題だ。前世の私なら、当たり前にそう考える。
足元の萎れかけた花を見つめた。まだ仮説にすぎない。でも、胸の奥で何かが引っかかった。
立ち上がる。膝はまだ震えていたが、荒野の奥に目を向けた。遠くに、灰色の建物が見える。小さな塔のような影。
石畳はひび割れ、壁には蔦の枯れた痕が走っていた。扉は半分開いたまま、蝶番が錆びて動かないのだろう。神殿と呼ぶには寂しすぎる佇まいだった。
「誰か、いますか」
声が石の壁に反響して、自分に返ってくる。埃っぽい空気の奥から、足音がした。
現れたのは、銀灰色の髪をした青年だった。長い上衣に神官服の名残があるが、袖は土で汚れ、膝には繕った跡がある。手には古い帳面を持っていた。
目が合う。青年の瞳が、わずかに見開かれた。
「——あなたが、アシェンブルク嬢ですか」
私が名乗る前に、名前を呼ばれた。
「……なぜ、私の名前を」
「商隊が運んでくる話の中に、追放令嬢がこの聖地に送られるという話があった」
静かな声だった。抑揚が少なく、感情の読めない口調。それなのに、敵意は感じない。
「僕はルシアン。この聖地の管理者です」
「ルシアン……様」
言葉を探しているうちに、彼は帳面を脇に挟み、神殿の奥へ体を向けた。
「部屋が一つ空いている。食事も出す。ここに住むといい」
唐突だった。追放されてきた人間に、なぜ。
「あの——」
「聖地に花が必要だから」
それだけ言って、ルシアンは奥へ戻っていった。背中が薄暗い廊下に消える。理由になっていない、と思ったが、追いかける体力も残っていなかった。
神殿の入り口に腰を下ろして、壁に背をもたせた。冷たい石の感触が、汗ばんだ背中に心地よい。
「また流れ者かい」
声のほうを見ると、背の低い女性が坂を上がってくるところだった。日に焼けた顔に深い皺。両手に大きな籠を抱えている。中にパンと干し肉が見えた。
「あたしはマルタ。下の村から食い物を届けに来てるんだよ。……あんた、見ない顔だね」
値踏みするような視線だった。貴族の格好をしているのに、こんな場所にいる。不審に思うのは当然だ。
「フローラと申します。今日からここに——」
「ふうん。ルシアン坊ちゃんが入れたのかい」
マルタは籠を神殿の入り口に置き、私をもう一度見た。目が厳しい。しかし籠を置く手つきは丁寧で、パンが崩れないように布で包み直していた。
「まあいいさ。あの坊ちゃんがいいって言うなら。——ただし、ここは王都じゃないよ。自分のことは自分でおやり」
背を向けて坂を下りていく。私は礼を言いそびれた。
夜。あてがわれた部屋は、小さいが清潔だった。誰かが最近掃除したらしく、埃は少ない。
布袋の中身を寝台に並べた。着替え。手帳。そして、布に包んだもの。
包みを解く。母の園芸鋏が、薄い月明かりを弾いた。刃は使い込まれて少し丸くなっているが、握りの部分に小さな花の彫刻がある。母が庭の手入れに使っていた鋏。五年前に亡くなった母が残した、唯一のもの。
枕元に置く。金属が木に当たって、かちりと小さな音がした。
「お母様の鋏。……これだけは、置いてこなかった」
指先で刃の背をなぞる。冷たい。けれど、握ると掌に馴染む。
荒野で見た萎れかけの花を思い出す。あの花たちは、もう全部枯れただろうか。土が悪いから定着しなかった。では、土を変えれば——。
まだ確信はない。欠陥魔法だと思い込んでいた六年間は、そう簡単には消えない。
それでも、今日初めて、別の可能性が見えた。
目を閉じかけたとき、廊下の奥から微かな物音がした。重い何かを引きずるような響き。
起き上がって扉を薄く開ける。廊下の突き当たり、ルシアン様が書庫らしき部屋から大きな革表紙の書物を抱えて出てくるのが見えた。
彼は書物を胸に抱えたまま、こちらに気づいた。一瞬だけ躊躇うように足を止め、それから静かに口を開いた。
「この魔法について、書かれたものがある」
廊下に、古い紙と革の匂いが漂っていた。ルシアン様の手の中で、書物の表紙が薄い月明かりを受けている。
私は、扉を握ったまま動けなかった。




