第三章 橋
十一月に入ると、見沼代用水の水面の色が変わった。
夏の間は濃い緑だったのが、少し薄くなって、朝は水面が白く光ることがある。橋の上で足が止まる日があった。止まる理由はない。ただ、渡り終えた先に高校があることを考えると、一瞬足が前に出なくなる。
二秒か三秒のことだ。それからまた歩き出す。
木曜の小テストは、結果的に悪くなかった。
しかし何かが楽になったわけでもなかった。次の小テストまでの時間が始まっただけだ。英語のプリントはまた配られ、模試の日程がまた掲示板に貼り出された。予定は連続している。終わっても次が来る。
体育の授業でバスケットボールをやった。
チーム分けは出席番号順だった。私のチームは五人で、ゲーム中は声を掛け合う場面が何度かあった。「ここ」「パス」そういう短い言葉のやりとりだ。それだけなら私にもできる。しかしゲームが終わって、コートの端で休憩しているとき、チームの他の四人はすぐに別の話を始めた。どこかのゲームの話らしかった。私はそれについて何も知らなかったし、知っていたとしても入れたかどうかわからない。
体育館の壁に寄りかかって、ぼんやりとコートを見ていた。誰かに話しかけることも、話しかけられることもなく、次のゲームが始まった。笛の音がして、また動いた。
佐伯先生は相変わらず指名をした。
水曜日、私は当てられた。
問題は前置詞の用法に関するものだった。私は答えを言った。合っていた。佐伯先生は「そうですね」とだけ言って次の問題に移った。
正解した。それだけだ。
しかし、次の問題が読み上げられても、私はまだ前の問題のことを考えていた。正解したことへの安堵があった。安堵があるということは、恐れていたということだ。正解したのに、何かが残った。
その日の昼休み、瀬川がいつも通り隣に来た。
「さっき当てられてたな」
「ああ」
「合ってたじゃないか」
「まあ」
「変なの」と瀬川は言った。
「何が?」
「合ってたのに、なんか浮かない顔してた」
私は少し考えた。弁当の蓋を閉めてから答えた。
「正解したかどうかより、正解できるかどうか心配してたから」
瀬川はしばらく何も言わなかった。パンの袋を開けて、一口食べて、窓の外を見た。
「それ、疲れないか」
答えなかった。疲れているかどうか考えたことがなかった。疲れているかもしれないが、疲れていない状態を知らない。比べるものがなかった。
帰り道、橋の上でまた足が止まった。
今日は少し長かった。五秒か六秒。水面を見ていた。風は冷たかった。鴨が一羽、流れに逆らわずに漂っていた。
疲れているのか、と思った。
答えは出なかった。出なかったが、そう問うこと自体が、何かを認めることに近い気がした。それが何なのかはわからなかった。わからないまま、また歩き出した。
高校の屋根が見えてきた。
その晩、家で英語のプリントを開いた。
問題文を読む。答えを書く。わからないところは教科書を引く。それだけの作業だが、ペンを持ったまま止まることがある。止まって、窓の外を見て、また問題に戻る。
「疲れていないか」ではなく、「疲れないか」と瀬川は言った。
疲れないか、というのは現在形の問いだ。今も疲れているか、ということではなく、そういうふうに考え続けることが習慣として消耗しないか、という意味に聞こえた。あるいはそういう意味ではなかったかもしれない。
ペンを置いて、机の端に積んであった文庫本を手に取った。三島由紀夫の『金閣寺』だった。以前に図書室で借りて、そのまま半分ほど読み止まっていたものだ。
ページをめくっていると、前に読んだ箇所に目が止まった。余白に薄く折り目がついていたから、一度気になって止まった場所だと思う。柏木という登場人物が語る場面だった。
――世界を変えるのは行為ではなく認識だ。
短い一文だった。現実は変えられない。しかし認識が変われば、現実そのものの意味が変わる、と続いていた。
読んだときは、そういうものかと思っただけだった。今夜もそれ以上のことはわからなかった。ただ、橋の上で鴨を見ていたこと、瀬川の「疲れないか」という言葉、それらが何かこの一文と同じ場所にある気がした。気がしただけで、うまく言葉にはできなかった。
プリントの最後の問題を埋めて、ペンを置いた。
明日また橋を渡る。




