本当に、何も分かっていないのね?
私にはローレンスという、幼い頃から付き合いのある婚約者がいます。
彼は公爵家の嫡男で、侯爵家の私の家よりも尊き立場にあります。
しかし無口で大人しい彼はその立場の差を強調する事もなく、寧ろ私の言葉に従おうとします。
そんな関係は私達が王立学園へ入学してからも続きました。
「……あら」
学園の昼休憩。
私は屋外テラスでローレンスとお茶を楽しんでいました。
すると、結っていた髪が崩れ、横髪がするりと顔に掛かります。
「直さないと。……ローレンス」
私は正面に座っていたローレンスへ声をかけ、手招きをしようとしましたが、彼は私がそうするよりも先に席を立っていました。
そして私の後ろに立つと、そっと髪に触れ、丁寧に結い始めます。
随分と慣れた手つきなのは、何年も前からこうしてくれているから。
ローレンスがいる時の私の世話は、大抵彼がしてくれるのです。
髪を整える間も、私達の間に会話は殆どありませんでした。
けれど沈黙が苦とならない、この空気はとても心地良いものです。
そうして二人で穏やかな時間を過ごしていた時。
「セシリー様」
ファニーという同級生の侯爵令嬢が、取り巻きを連れて現れました。
「あら、ファニー様。お声掛けは嬉しいのだけれど、御覧の通り、今は取り込み中でして。お引き取り願えますか?」
私はそう言いますが、ファニー様は引く気がありません。
寧ろ彼女は私の言葉に怒りを覚えたようでした。
「いい加減になさってください! ローレンス様は尊きお家柄の方……このような使用人のような扱いが許されるはずもありません!」
「私が婚約者である彼とどう過ごそうと、貴女には関係がないのではありませんか?」
「関係ならあります! ローレンス様とは以前から夜会で何度も顔を合わせた事がありますから、そのお優しいお人柄も理解しております。……優しすぎるからこそ、貴女にこき使われようとも何も言えないのでしょう」
だから代わりに自分が言ってやるのだと、彼女は息巻いているようです。
「このままではあんまりです! ローレンス様を自由にしてください!」
ファニー様は確かに何年も前から夜会に出席されていました。
私やローレンスとも度々顔を合わせます。
ローレンスの容姿は異性を虜にする程に整っておりましたし、物静かで大人びた空気を纏っています。
ですからファニー様はきっと、ローレンスに一目惚れしたのでしょう。
彼女がずっと、ローレンスに恋慕を寄せている事は知っておりました。
ただ……その頃には既に彼は私と婚約していた。
それでもこの哀れな女性は、ローレンスの事を諦められないのでしょう。
だからこそこうしてせめてもの足掻きに、私を批判し、ローレンスの最大の味方や理解者である事を主張しようとする。
「気付かれていないのであれば教えて差し上げます! セシリー様の身を弁えない尊大な態度は、物語に出て来る悪女そのものであると!」
「……悪女?」
ファニー様はそう言うと持っていた扇で私を指します。
私はそんな彼女と取り巻きを見て小さく首を傾げてからプッと吹き出しました。
「な、何が可笑しいというのですか!」
「失礼。ただ、貴女があんまりにも可哀想だから」
くっくとお腹を抱えて笑ってから、私は言います。
「――本当に、何も分かっていないのね? と、思ったら……っ、ふふ」
「っ、貴女――」
またもや笑い声を漏らしてしまう私にファニー様が激昂する……その時でした。
ただ黙々と私の髪を結っていたローレンスは、その作業が終わったらしく私から手を離します。
そして長い溜息を吐くや否や、つかつかと足早にファニー様の前へ立ち……
バシッと大きな音を立てて彼女の扇を手で弾きました。
扇は大きく弧を描き、ファニー様の後方へと落ちる。
突然の事に驚き、ファニー様と取り巻きの方は呆然とします。
ローレンスは静かに彼女達を見つめていました。
今の彼はきっと、普段の温和さを感じる微笑みなどではなく、強い怒りと冷たさをその顔に孕ませている事でしょう。
ファニー様達が一斉に顔を青ざめさせ、震え始めたのを見ればよくわかりました。
「ふざけたことを言うのもいい加減にしろ。反吐が出る」
「ろ、ローレンス様……?」
「次に彼女を悪く言ってみろ。……こちらはいつでも、家ごと潰す事ができるということを努々忘れるな」
それから、ファニー様達は泣きながら走り去っていきました。
最後にローレンスが「二度と顔を見せるな」と吐き捨てていたので、今後彼女達が私に突っかかることもないでしょう。
再び訪れる、二人きりだけの時間。
やれやれと息を吐く私を、ローレンスは抱き寄せます。
彼は私の髪や頬を愛おしそうに撫でてくれていました。
私はそんな彼の愛を感じながらくすりと笑います。
「誰も彼も」
ローレンスが私の指に自身の指を絡ませます。
それから誰にも見せないような甘い微笑みで私の顔を覗き込みました。
つられて私もくすりと笑います。
「……本当に、何も分かっていないのだから」
私達は唇を重ね合わせる。
長い口づけに溺れ、目を伏せながら私は思います。
ローレンスが私の世話をするのは彼自身がそれを望んでいるから。
その本質は――許される限り、自分以外の者に触れて欲しくはないという過剰な愛情です。
彼は私を愛してくれている。
きっと、世界中で誰よりも。
ファニー様のように、私の事を公爵子息を振り回す我儘娘と見る者も少なくはありません。
けれど、侯爵令嬢相手に「いつでも、家ごと潰す事ができる」と仰る方が嫌々使用人の真似事をする事など、あるはずもないのでしょう。
……ね?
ファニー様を始めとする皆様方は、彼の事を何にもわかっていないでしょう?
けれどそれは私にとって都合の良い事でしかありません。
ローレンスが私にだけ見せる顔の事も、私へ抱く想いも――その一欠片だって、誰にも気付かれたくありません。
だってそれは全て、私だけのものなのですから。
つまるところ、私もまた――
――彼への恋に溺れる、重たい人間なのです。




