2:守ったもの
街の南。街道を進み、森を抜け、さらにその奥の山の中だ。街の南などというと近く感じるが、山の麓に来るまでに二日掛かった。小さな焚火を囲んで慣れ合うつもりのない冒険者たちとピリピリした空気の中、夜を過ごす。グリューは水筒を傾けて喉を潤した。
家主には実入りのいい仕事が入ったと伝え、戻るまで部屋に荷物を置かせておいてくれ、と頼んだ。荷物と言ったって多少の着替えと調理器具と、一人用の食器がいくつかだ。それでもこの身で稼いだ金で揃えたものなのだ、道端に放り出され、スラムの住人に持っていかれるのは避けたい。そもそも、鍵自体直していないので入り放題ではあるのだが、気持ちの問題だ。家主は老女で、街に来てから親切にしてくれた人だった。待ってるよ、と言ってくれた顔が諦観を浮かべていて、グリューは誰にも期待されていないのだと知った。帰った時、部屋がなくなっていないことを祈った。
「あんた、なんで【幸運のグリュー】なんだ?」
痩せっぽちの男が片眉を上げながら問いかけてきて、グリューはそちらを見遣る。焚火に照らされたグリューのくすんだ灰色の髪はオレンジに見え、ややつり目の眼は淡い水色と、色素は薄い方だ。肌はやや褐色なのだが、それが血筋か日焼けかはわからない。グリューは親の顔を知らなかった。なんでって、と答えにくそうにするグリューの言葉を奪うように別の男が嘲笑った。
「なんだ、知らねぇのか? ファンリエッタの街に突如現れたツイてる男のことをよ」
「俺ぁ半年前にここに来て、今じゃこんなんさ」
「半年前か、ダンジョン狙いに来て失敗した、よくある話だな」
もはや落ちぶれた話すらも面白おかしく話すしかないのだろう。似たような境遇だからこそできた話かもしれないが、付き合っていられなかった。グリューは、まだ自分はそこまでじゃないと信じたかった。ごろりと寝転び、焚火に背を向けた。それでも話題は変わらなかった。
「三年前、そいつはファンリエッタに突然現れたのさ。それで、ダンジョンであっという間に金を稼いで、二、三年は遊べる余裕ができた」
「実際凄かったぜ、モンスターってのはよ、時々良いアイテム落とすだろ? そういうのをたくさん手に入れてやがってよ」
「それを見て誰かが呼んだんだよな、【ツイてる男、幸運のグリュー】ってよ」
「転落も早かったけどな」
本人が目の間に居ようが居まいがおかまいなしだ。だが、事実である。相棒に一方的に別れを告げて逃げるようにファンリエッタの街へきて、悔しさ、寂しさをダンジョンにぶつけ、金を荒稼ぎした。なんだったらBランクに片足をかけていた。身の回りのことにこだわりもしなかったので安い家を借り、ただ腐るような毎日を過ごしていて、随分と髪が伸びてしまい、鋏屋へ行った。そこからお断りされるまでも早かったが、心機一転するために髪を自分の手でばっさりと切って、さぁ、やるぞ、目指せSランク、と奮起したのは一年前だ。
そこからは酷かった。モンスターを狩りに出て、想定以上の数に囲まれて逃げ帰ることから、先の薬草を落とすことまで、大から小まで、様々なツイていない事態に見舞われた。武器や防具を失っていないのは最後の幸運だったのかもしれない。
未だ背中に掛かる【不幸のグリュー】の逸話を聞きながら、当の本人は微睡に沈んだ。
翌朝、山を登り始めた。誰かが登山をするわけではないので道はない。ただ、モンスターがいないのでそれ以上の強者がここにいるのだと冒険者にはわかる。落ちぶれてはいても、一応は皆、Dランク以上だ。
「なぁ、あいつの言ったこと、本当だと思うか?」
真ん中に居た男がぽつりと呟いた。あいつ、とは、この頭のおかしい依頼を持ち掛けてきた黒マントのことだ。
「さぁな、ただ、やらなきゃ俺たちに後がないのは事実だ」
吐き捨てる別の男に、にそうなんだけどよ、と返し、男は黙り込んだ。
この依頼を請けた後、激励に個室で食事をご馳走されながら男たちは【要らない卵】というものを聞いた。曰く、竜というのは強い子孫だけを本能的に残す生きもので、育ちが悪いと判断された卵は守らないのだという。そもそも、竜という生き物が希少生物だ。人が足を踏み入れられない険しい岩山であったり、火の海が燃え盛る炎の山であったり、氷で一面が真っ白に染まる、そんな場所で生息しているという。時折、竜の中で争いがあり、負けた竜が人里へ降り、鬱憤を晴らすように焼くことはある。その際は冒険者が手柄欲しさに狩りを始める。竜の肉も、鱗も、血も、本当にそうかは知らないがその心臓は不老の力が信じられ、王侯貴族がこぞって欲しがるものでもある。今でも王国騎士団の一部はそうした私利私欲のために竜種討伐に差し向けられている国もある。人間とは、なんとも欲にまみれた生きものか。
黒マントは竜が背を向けている卵を持ってくればいいと言った。それだけならばどうにかなるかもしれない、何より、美味い食事はその日の飯にも困っていた冒険者へ恩を売るには十分だった。
食事の味を思い出し、ごくりと喉を鳴らす。その情報が本当に正しいのならだが、とグリューは思いながら、足を進めた。
暫く山を登り続け、木々が開けた場所があった。強者の気配がした。そっとグリューは木から顔を出し、そこにあったものを確認した。あっさり見つかった、美しい紫の鱗を身に纏う竜だった。この広場は自然にできたものではなく、竜がその巨体をもってして木を倒し、草を潰し、整えた場所なのだ。前述のとおり、竜は人が住めない場所に棲む。だというのに、たった三日程度で辿り着ける場所に腰を下ろし、寝床をつくっている。それ自体が異常事態じゃないのか、とグリューは木に隠れ直し、手汗をそっとズボンで拭った。
竜はこちらに気づいており、お行儀よく前の手を重ねて組み合わせ、じっと動かずに様子を窺っている。胴から足、尻尾へと流れるような曲線を描いた体は気品が溢れていて、人が手を触れてはならない何かを感じさせた。
「卵は、あるか」
声を掛けられ、もう一度覗く。竜の腹の辺り、尻尾を前に持ってきている奥、いくつか銀色の塊があるように見えた。
「腹に抱え込んでいるのはあるが、背を向けているのは、こっちからは見えないな」
「回り込め」
「俺が?」
そうだ、と男たちに頷かれる。確かに、盾を持つ大男やひょろがりの男に比べればしっかりと動けるのはグリューだけだ。仕方ない、少し山を下りて尻尾側、背中側へ回り込むしかない。木々の生えた急斜面を器用に滑って少しだけ下り、グリューは目的地へと登り始めた。この急勾配、もし卵を手に入れたとして、無事に持って帰れるだろうか。
竜の裏側へ回り、木に指を掛けぐっと体を持ち上げる。竜を覗き込む。竜の生態系には詳しくないが、鳥のように温めるのだろうか。近くに人の気配があるというのに竜は動かず、目を伏せている。背を向けた卵を探す。棘の生えた尻尾の背、翼の向こう側、よくよく探した。ちかりと鈍い何かが光った。
「あった、マジであるのか」
竜が抱え込んでいる卵よりもはるかに小さい。抱え込んでいるものは成人男性が両腕で抱えるほどの大きさだというのに、あの転がっている卵は、手のひらに乗るのではないかという大きさだ。黒マントの人物の言う言葉に信憑性が湧いた。しかし、本当に竜に追われないだろうか?
「おい、グリュー! あったか?」
竜が微動だにしないことをいいことに、他の冒険者が大声で叫ぶ。気づかれているとはいえ相手が何に反応するかわからないのだ、やめろ、と手で制すが、功を焦った男たちは冷静ではなかった。
「【要らない卵】なら大丈夫なんだろ?」
目をぎらつかせた一人がついに竜の前に体を現した。そろり、そろり、今更そんな忍び足をしたところで意味があるのかわからない。そっちのでかいのじゃなくて、向こうのだからな、と声を掛けながら、冒険者がグリューの方向へ足を向ける。伏せていた瞼が開き、金の眼がゆっくりと現れ、首が動いた。内側に丸めていた尻尾が凄まじい速度で振られ、歩いていた冒険者の体が真っ二つに斬れた。弾かれたように宙を舞う冒険者の上は内臓を零しながらグリューの横を抜けて、ひ、あ、あ、と言いながらごろごろと落ちていった。言葉を失っていた。いや、当然だろう、相手はこちらの都合など関係のないモンスター。その中でも捕食者として上位にいる竜だ。人間だって自分の周囲をハエが飛んでいれば殺す。同じことなのだ。
「うわぁぁ!」
また誰かが叫んだ。竜の首はそちらを向き、胸を張るように息を吸った。何が来るかは見たことがなくても想像ができた。ブレスだ。パチパチと竜の胸の辺りから音がして、口が大きく開き、木が消えた。朝焼けに街を照らすような眩い光だった。吐かれた炎は一直線にそこに居た冒険者を消し、木々を、森を割り、黒ではなく白を残した。グリューは既に居場所がバレている木の影から慌てて逃げ出した。不運なら死ぬ、そのつもりでいたというのに死が目前に迫れば恐ろしくて堪らなかった。先ほど胴体半分にされ転がり落ちていった男の後を追うように急勾配を滑り降りる。下まで辿り着けば男はまだぼんやり生きていて、俺の足、と呟いていた。
「死んでたまるか、死んでたまるか!」
必死に腕を動かし、足を進ませ竜から離れる。グリューの頭上を竜が飛んだ。不味い、追われている、と思ったが、竜は影だけを残しそのまま飛び去った。方角は北。街の方だ。
「嘘だろ、俺たちが手を出したから!?」
三年住んだ街、いろいろあったが気にかけてくれる人々のいる街。グリューは足を止め、街と、今滑り降りてきた急勾配を交互に見た。
「畜生!」
やったことの責任は取らねばならない。何も知らない街の人々を巻き込むわけにはいかない。竜が本当に【卵を取り返しに追ってくる】という習性があることを信じ、グリューは急勾配を必死に登り直した。心臓がうるさい。緊張か恐怖か手が冷たくて力が入れにくい。ただひたすらに登り続けたそれが長い時間のようで、早く終われと願った。
竜のいなくなった場所、大きな卵を運ぼうとしたが、それでは竜を引き付ける距離を稼げないと思った。それに、温かくて、中からトクトクという脈を感じ、罪悪感を覚えた。
「何言ってんだよ、今までモンスターなんて大量に狩っただろ! くそ!」
グリューは目を逸らし、端に転がっていた【要らない卵】を拾い上げ、意味があるかは別として叫んだ。
「おい! 竜! 卵盗んじまうぞ! 盗むからな!」
少し土に汚れた卵を懐に入れ、グリューは再び急勾配を下りた。死体の横を抜け、森を南へ向かって走る。少しの間を置いて大きな羽音が聞こえた。戻ってきた。上手くいった。
「でどうすんだこれ!」
竜の咆哮、ビリビリと鼓膜が震える。全身が粟立ち足がもつれる。バキバキ、という音の後、竜の鋭い爪を持った足が森に飛び込んできて、グリューは捕まってしまった。背中の長剣が、腰の短剣が上手く引っ掛かってくれて、爪が即座に刺さり死ぬことはなかった。懐から落ちそうになった卵を抱え直し、抱きしめる。何してるんだこんな時に。
びゅうびゅうと竜が飛んでいく。目を強く瞑り死に備えていれば、竜の咆哮が別の方角から聞こえた。ガツンッと何かがぶつかり、グリューを捕えていた足が緩み、落ちていく。
「なんっ」
真っ逆さまに落ちながら空を仰げば、あの紫の竜が別の黒い竜に襲われていた。争いに負けた竜が逃げ出してくるという話はあったが、本当だったのか、とやけに冷静に考えてしまった。風が耳元を通り過ぎて行く。思わず抱きしめていた小さな卵から微かな脈動を感じ、これもまた生きているのだと思った。あの竜が追いかけてくるのだから【要らない卵】などではなかった。なぜ背後にあったかは知らないが、それでも竜はその身を触れさせていたのだ。きっと、育て方でも違ったのだろう。そんなこと考えている場合か、と失笑が零れた。
「【不幸のグリュー】、さよならってやつだな」
あぁ、なんか、せめてお前は割れないようにしてやりたいなぁ、とグリューは卵を抱きかかえた。
衝撃を覚悟した瞬間、ばふっと布団に落ちるような感覚があった。あれは昔、相棒と泊まった宿のふかふかのベッドの感触だ。ハッと目を見開けばそんなものはどこにもなく、ただ草と土の上に倒れていた。上空で争い続けていた竜は、そのまま争いながら、いや、紫の竜がもう一匹を引き付けるように遠ざかっていく。懐の汚れた小さな卵、それを守ろうとしているのだろう。思わずその攻防を見守ってしまった。やがて紫の竜が押され、落とされ、先ほどグリューが逃げてきた山が、森が、もう一匹の竜に焼かれて消えていく。あの黒い竜がこちらに来ても困る。グリューは再び走り出した。
暫く走り続け、追手の羽ばたきが聞こえないことをしっかりと確認し、木の根元に座り込んだ。運が良かった、生きている。だが竜に落とされた場所がどこかわからない。ただ、繰り返すが幸か不幸か命は拾った。はーっ、と息を吐いて汗を拭い、持ち出してきたものを確かめた。土を払えば小さいだけで綺麗な銀の卵だ。微かな脈動は変わらず、とにかく生きていることはわかった。
「どうすっかなこれ」
母竜は落とされた。森も焼かれ、竜のブレスで他の卵がどうなったかわからない。もし、あの母竜が小さな卵だけでも守ろうと考え、グリューを見逃したなら、と都合のいいことを考える。だが、それは辻褄が合う気がするのだ。あの高さから落ちれば死ぬ。何かに受け止められたようなあれが、母竜からの逃げろという意図であったなら、どうか。
「託されちまったってことだよな」
これを金に換えるはずだった。報酬をもらい、滞納した家賃を支払い、また再び冒険者としてやり直す。はは、と乾いた笑いが零れた。共に死地を越えた小さな卵に変な愛着が湧いていた。仕方ない、この卵を黒いマントの人物に渡せないのならば、このままファンリエッタの街には戻れない。
「家の中のもん、大した額にはならないだろうが、売ってくれ」
ここから届くとも思えない言葉を呟き、グリューは木に寄り掛かった。少しだけ休みたい。目を瞑ろうとしたところで、手元に違和感があった。こつ、かり、と手の中で振動が起こり始めたのだ。慌てて体を起こして覗き込む。小さな銀の卵がピシリとひび割れた。
「え、ちょ、生まれる!?」
置いた方がいいのか、持ったままでいいのか悩み、安定のために手に持ち続けた。ピシ、パキ、何かガラスを割るような軽快な音を立てて小さな足が飛び出してきた。蹴り飛ばされた卵の欠片が膝に落ちる。んー、と体を伸ばすように次々に足や手、翼が現れ、ねっとりとした膜の中で薄い紫の小さな竜が眠そうに駄々をこねていた。それからぐったりとしたので慌てて膜を破いて外に出してやった。ぷか、と口から泡を一つ吹いて、大きく息を吸ったように見えた。んー、と親を探して鼻をひくひく揺らし、グリューの手を見つけるとすり、と顔を擦りつけてくる。
「お、おぉ……」
なんとも言えない感動と感情が胸の奥に芽生えた。赤ん坊や子供をかわいいと思ったことはないが、これはかわいいと思った。キュゥキュゥ鳴いているのが空腹だと気づき、グリューは自分が差し出せるものがないと気づいた。
「携帯食料なんて固形物食えるのか? そもそも竜って何食うんだ? 肉か? でも生まれたてで肉なんて食えるのか!?」
一人オロオロしていれば、手のひらに収まる小さな子竜はかぷりとグリューの指を噛む。甘えているのか、おなかが空いているのか、どうすれば、と訳もわからず周囲を見渡していれば牙が皮膚を貫いた。
「いって!?」
放りそうになって腕を伸ばして堪え、グリューは噛まれたところを確認した。皮膚を突き破った牙のせいで血が流れ、子竜はそれをぺろぺろと舐めて飲んでいた。
「まさか生まれてすぐに肉食? いや、もしかしてそうやって本当なら母竜から栄養を分けて貰うのか?」
人間だって母親の乳を吸う。それが竜にとっては血なのかもしれない。このサイズの子竜なら、まさか吸い尽くされることはないだろうと高を括り、グリューは好きにさせてみた。しかし、卵の欠片を拾い集めながらグリューは笑った。
「これはもう、マジで街には戻れねぇな」
無一文、子竜を連れて。グリュー、二十七歳。人生の幕開けである。