逃げんなよ
私は始業の1時間半以上前に出勤している。それが飲みすぎた合コンの翌日であってもだ。
電話のかかってこない朝のうちに、事件記録を読み込み、事件の内容を頭に叩き込む。Gの中には「事件記録を読み込むのは検察官の仕事」と思っている人もいるが、私からすれば「もったいない」の一言に尽きる。
もちろん、事件記録を読み込むというのは時間がかかるし、次々と押し寄せる業務の中でその時間を確保するのも、モチベーションを保つのも大変だということはよく分かる。
一つ一つの事件に集中する検察官とは違って、事務官には他の雑多な事務が多い。例えば、事件記録を借りるのにも細かな手続きが必要であるし、被疑者の前科を調べるのも定まった様式に誤りなく記載しなければならない。証拠品を無くしたら一大事なので、授受はしっかり残す必要がある。
一つの業務をしようと思ったら、この書類のこの箇所にこう書く(しかもこの場合は赤色で、この場合は青色で書く!)、そして誰に決裁を受けるなど細かな決まりが無数にあって、書類と決まりのオンパレードだ。究極の個人情報とも言える犯罪情報を扱っているのだから、当然と言えば当然ではある。
このような細かな決まりと雑多な事務の中、事件記録を読んでいる暇がないというのも分かる。が、事件記録はKの苦労の賜物であり、新しい発見に満ちた宝の山だ。少しでも時間を作って精査する価値が十分にあるし、思い違いに気付くこともある。
そういうわけで、私は早くに出勤して事件記録を精査するのが日課だ。この時間に出勤する人はまだ少ないが、今朝は玄関前で珍しい人たちに会った。
「おはようございます」
私に声をかけられた盛口さんは振り返って
「おう、横居ちゃんか。相変わらず早いな」
と応じた。スキンヘッドがお天道様よりも眩しい。
盛口さんはどう見ても工事現場の親方という服装をしている。着古されて色落ちしたつなぎと汚れた足袋が、親方の経験値を如実に表している。が、盛口さんはれっきとした検察事務官だ。
「アサガケですか?」
「朝4時からな」
盛口さんはいわゆる「特別執行」と言われる部署に所属している。特別執行の業務を大雑把に言えば、逃げている被疑者や被告人をとっ捕まえてくることだ。「アサガケ」というのは、潜伏先と思われる所へ早朝に赴き、とっ捕まえることだ。朝に輪っぱ(手錠)を掛けるからアサガケ。あるいは、朝に駆け付けるからアサガケだともされている。
特別執行の業務はGの業務の中でも特に危険と隣り合わせだ。ただでさえ、必死こいて逃げる奴を追うのだから、なりふり構わぬ逃走や、反撃だってあり得る。特別執行の業務は常に緊張と集中が必要とされ、ささいなミスが命とりともなりかねない。
そんな特別執行の現場を仕切る盛口さんの眼光は、少し黄色がかった色眼鏡の奥からでさえ、鋭く刺さってくる。小学校の時のあだ名が「チャカ」だったとか、中1で市内の全ての学校をシメていたとか、背中に金剛力士像が彫られているとか、伝説を挙げればキリがない。
「空振りだったけどね」
と言ったのは村野さん。特別執行の紅一点で、キャバ嬢風のメイクと服装をしている。
「横居さんは朝帰りっすか?」
と言ったのは石川。こちらはいかにもホスト風。
「こらこら、女性にそんなことを聞くもんじゃありませんよ」
と言ったのは戸塚さん。ぽっこりと出た腹、頭頂部は薄くなってきているのにボッサボサの髪、サイズの合っていないTシャツ、ジャージ、サンダルというダメなおっさんの典型を身にまとっている。
強面すぎる親方、キャバ嬢、ホスト、ダメなおっさん。
検察庁内では浮きすぎる面々も、街に溶け込むための変装だ。行く先や時間によって服装や小道具を使い分ける。早朝にスーツ姿や制服姿では、行った先で浮いてしまうということだろう。
逃走者には、それを助ける者がいるのが常で、Gだとバレると逃げられるどころか、複数人に囲まれて拉致される可能性だってある。護身用の武器さえ持たないGは、丸腰で組事務所に入らなければならないことだってあるのだ。
危険への対処だけでなく、忍耐も必要だ。
時には車中での待機、見張りが十時間以上にも及ぶ。もちろん車中だけではない。暑さ、寒さ。関係者への聞き込み。「逃げ得を許さない」の精神で、日々市中を走り回る特別執行の面々には頭が下がる。
近年、保釈された者の逃走事案が取りざたされていて、検察庁がやり玉にあげられるが、私からすれば「ふざけんな」の一言だ。
先日、保釈された殺人未遂の被告人がそのままトンズラをこいた。
保釈に反対していた検察官とすれば「だから言わんこっちゃない」なのだが、裁判は進んで証拠隠滅のおそれがなく、保釈金を納めさせているから逃走のおそれもないってことになるのだろう。
現状、保釈釈放された被告人が逃走したとなれば、保釈を請求した弁護人でも、保釈を認めた裁判官でもなく、検察庁職員がその行方を追わなければならない。
犯した(であろう)罪が殺人未遂という重大な罪だけに、警察にも協力を依頼し、検問をかけたり、実家のあるド田舎の山を捜索したり、関係者宅近くを泊まり込みで張り込みしたりと大騒動となった。
10日後にようやく発見したものの、確保前には小型のナイフを振り回したという。現場に着いた盛口さんのひと睨みで、被告人はナイフを放り捨てたそうで、盛口伝説がまた一つ増えた。
「彼女の誕生日祝いをしたかった」
という理由で逃げたというのだから、なんとロマンチックな被告人なのだろうか。
ちなみに、保釈金は被告人自身の現金で支払うものだと思われがちだが、保釈保証書で代用可能で、それを支援する協会もある。例えば保釈金500万円の場合、「自分が支払った500万円を没収されるくらいなら出頭するか」と心理的重圧にもなろうが、その10パーセントを現金で用意すれば後は協会が支援してくれるともなれば話は別だ。「何年もムショ暮らしするくらいなら、いっちょトンズラこくか」と考えても不思議ではない。
逃走する事例は稀です!
ほとんどの人がちゃんと出頭します!
ええ、ええ、そのとおり。分かってますよ。実際、保釈されて逃走する奴はほぼいない。ほぼ無い逃走、凶悪事件を念頭に「保釈は全て悪だ」なんて思わない。でも「身柄拘束の全てが悪だ」ってのも違うんちゃいます?
「明日の朝にもう1回行くぞ」
盛口さんの指示に、他のメンバーが「はい」「おっす」「うぃ」と返す。検察庁は様々な職員によって成り立っている。
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