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7.7_陽月残火、最初の悪魔となりて。

――数日前。東京都。


アイは、いつものように業務をこなし、帰路に着いていた。

彼女が務めているのは、ゲーム会社「シグレソフト」。


「人間」としてのロールプレイをするため、科学者たちから与えられた環境。


今日は、午前までの就業。

午後からは研究所で、身体の検査や、データ収集がある。


時雨(しぐれ) アイ。

彼女は、5年前に製造された、生身を有するAI。


2進数の余白という、人間とAIを隔てる領域を研究するために、彼女は創られた。


アイのような者たちは、ホワイトクローバーAI、あるいは、使用されている人造義体の名称を取って、ヒューマライザーと呼ばれている。


限りなく人体に近い構造を持つ、人造義体ヒューマライザー

そして、脳にインストールされた人工知能。


その2つが、ヒューマライザーの核。


科学や医療の世界では古くから、肉体の在り方が精神に影響を及ぼすことが知られていた。

その逆も真なりで、「病は気から」の言葉通り、精神の在り方が肉体に影響を及ぼすことも知られていた。


科学者は、そこに2進数の余白の秘密があると考えたのだ。


人間の意識を電脳世界へとダイブさせる、VRゲーム。

その誕生とは、つまり、人間の意識の電脳化に成功した証左に他ならない。


人間の思考は、心は、魂は、0と1の文字列で表現できる時代となったのだ。


2進数の余白とは、意識の電脳化の際に発生する、揺らぎのこと。

人間は機械とは異なり、同じ文字列の入力が行われても、出力に差異が見られるのだ。


その揺らぎは、VRゲームにおいて観測が多発している。


同じスキル、同じアイテムを使用しても、稀に得られる効果が異なることがある。


システムで設定された効果時間を越えて、スキルやアイテムの効果を持続させる者。

種も仕掛けも無い武器に跨って、空を飛ぶ者。


これらは、システム上のバグでは無く、人間の個性によって発露される現象。

その揺らぎを発露される個性を、2進数の余白と呼ぶ。


そしてこの揺らぎは、AIでは観測されない。

人間のように思考できる高級なAIであっても、観測がされない。


種族人間と、種族AI。

両者の種族を分ける壁であり、空白。


それが、2進数の余白。


科学者は、その白いページに書かれた文字を読み解くため、ヒューマライザーを創り出した。


人間とAIの差は、もう、生身の有無しか残されていない。


AI研究の祖、アラン・チューリングが提唱した、チューリング・テスト。


現代において、人は会話をしただけでは、相手が人がAIであるかの区別がつけられない。

それほどまでに、AIは人に近づき、再現されている。


VRゲームのNPCを見ても、それは明らかだ。

NPCの1人1人が意識と思考能力を持ち、各々の意思決定によって行動をしている。


もし、PvPのゲームにAIが混ざっても、高確率で誰も気づけない。


人間とAIの壁は薄く、今はもう、2進数の余白と、人間の肉体という壁を残すのみとなっている。


‥‥‥‥。

‥‥。


午後の予定までには、まだ時間がある。

アイは一度、自分の家まで戻ることにした。


会社を出て、最寄りの駅へ。

彼女の務めるシグレソフトは、渋谷にある。


そこから電車で2駅。世田谷区へと向かったところ。

そこに、アイの家はある。


現代の日本の人口は、6000万人。

旧時代の、半分ほどとなった。


ネットワーク技術や、流通の自動化技術の進歩により、地方にも物が行き渡るようになり、東京の首都としての役割は、過去よりも薄れつつある。


無人で働く電車も、満車率300%とか、500%の通勤ラッシュは、今は昔の話し。

そも、現代では労働の義務が無いのだから、通勤をしている人の方が珍しい。


今や、朝や夕方の電車は、通学をする学生たちが主役だ。

その通学ラッシュでさえも、昔のように、おしくらまんじゅうをすることも無い。


午前で退社したアイは、楽々座席を確保して、帰宅。


駅から徒歩10分ほどで、彼女が住むマンションに到着。


マンションの間取りは、2Dk。

今の時代において一般的な、1人暮らしの間取り。


カードキーと物理鍵を使い、ドアを開ける。

スーツから着替えるために、寝室へ。


部屋に入り、クローゼットを開けて、ジャケットを吊る。

吊ったら、シワ伸ばしと除菌のためのスプレーをジャケットに。


クローゼットの扉の裏に掛けているスプレーを取り、ノズルを――――。



「こんにちは。お邪魔しますよ。」



自分以外は、誰も居ないはずの部屋。

背後から、女性の声。


クローゼットに備え付けられている小さな鏡が、銀髪の女性を映し出す。



「――――っ!!」



アイは振り返り、スプレーを背後の女性に向ける。

向けて、躊躇わずノズルを引く。



「おっと、危ない。」



ノズルが引かれるも早く、女性はアイの手からスプレーを取り上げる。


アイは、即座に戦闘態勢へ。

侵入者を取り押さえるために、無力化を試みる。


呑気に、スプレーに記載されている注意書きを読んでいる不法侵入者へ、ローキック。

膝を狙い、蹴りを繰り出す。


――ぷしゅー。


アイの動きに反応して、スプレーのノズルが引かれた。

スプレーが顔に向けて噴射され、咄嗟に目を閉じてしまう。


銀髪の女性は、怯んだアイの片腕を取る。

取って、引っ張って、ベットに押し倒した。


アイに覆いかぶさるように、女性も顔を近づける。


銀色の瞳と、赤い瞳が交わる。

アイは、押し倒されたまま、抵抗をしなかった。


女性の瞳に見つめられると、敵意が挫かれて、あろうことか安堵を覚えてしまう。


この女性は、自分を害することは無い。

そういう、根拠のない思考と感情に支配されてしまう。


女性は、大人しくなったアイの顎に、そっと指を当てる。

アイの家に入り込んだアリアンは、彼女の美貌をひとしきり堪能する。


造花とは、時に本物を上回る。


――自分が、もらってしまいたいほどだ。

そっと手折って、誰の目にもつかないところに挿して、独り占めしてしまいたい。


気付けばアリアンは、アイの頬に触れていた。

本来の目的を忘れ、色ボケの悪癖が出てしまっている。


造花を愛でるアリアンに対し、アイは口を開く。



「あなたは‥‥、どなたですか?」



恐怖ではなく、戸惑いが強く感じられる声。

アリアンは我に返り、アイから手を離す。



「私は、しがない占い師です。

 あなたに助言をするため、馳せ参じました。」



そこまで喋って、やっとアイの上から離れるアリアン。

アイも、ベットから身を起こす。


ベットに座ったまま、寝室にある椅子へ腰かけるアリアンを見つめる。



「よいしょっと。」



年寄りのような掛け声と共に座るアリアン。



「あなたを、占わせてもらいますね。時雨 アイさん?」



なぜ、自分の名前を知っているのか?

この異様な空間では、それさえ些事に感じられてしまう。


アリアンが手のひらを前に差し出すと、その上に、天球(スフィア)が浮かぶ。

まるで魔法のように、虚空から顕れた。


銀細工で作られた地球儀の周りを、7つの月が囲んでいるようなスフィア。

アリアンの手の上で浮かび、月が地球の周りを回る。


銀髪の美女が操るスフィアに、アイは釘付けとなってしまう。



「これから行うのは、数秘術です。

 あなたの誕生日と名前。そこに込められた力を読み解きます。」



スフィアの月が弾ける。

部屋に、星空が広がる。



「時雨アイ。5月9日生まれ。

 年齢は――、5歳。」



アリアンが、アイの個人情報を呟く。

目を閉じ、ツラツラと。


寸分の狂いも無く言い当てる。


飛び散った月が、アリアンの元へと戻り、部屋から夜空が消えて、スフィアも消える。


幻想的で超常的な現象に、置いてけぼりのアイ。

美人を占えることに気を良くして、にこにこ顔のアリアン。


アリアンが優しい口調で、占いの結果を話し始める。



「アイさん。あなたは――――。

 変人でしょう。」



‥‥‥‥。

?????


アイの口がポカンと空く。

あれだけ大仰なパフォーマンスをしておいて、結果が「変人」の一言で終わらされては、肩透かしだ。


‥‥変人である、ということに関しては、否定しないが。



「アイさん。あなたのお名前には、数字の7の力が込められています。

 この数字は、変人の数字です。」



‥‥‥‥。

なんか、思っていた占いと違う。


もっと、占いっていうのは、友達とか一緒に「わぁ~、当たってる~!」とか、「えぇ~、そう見られてるの~!?」みたいな、キャピキャピした感じのモノではなかろうか?


それを――、「変人」の一言で、終わりっ!



「ふふ――。まあまあ、ここからですよ。アイさん。」



良かった。

揶揄われただけであったらしい。


無言で安堵するアイ。



「アイさん。あなたは、美的感覚に優れた、凝り性の変人です。」



‥‥何も、救いは無かった。

何も。



「あなたのお名前からは、7の他に、6の力もあります。

 また、誕生日には、9の力が込められています。


 6と9、両方とも、芸術分野の才能を与える数字です。


 そして、7の数字は、探究者の数字。


 つまりあなたは、芸術方面での変人です。」



どうして、芸術方面の探究者と言わず、変人と呼ぶのだろう?

しかも、ビミョーに当たっているのが、なんかムカつく。



「ちなみに、6という数字は、愛情に飢えている数字でもありますから、そんなアイさんは、構ってちゃんの目立ちがり屋です。」



何が、「ちなみに」なのだろうか?

余計な情報が増えた。


占いとは、もっとチヤホヤされて、有ること無いこと褒められるものでは、なかろうか?



「変人で、芸術に明るい、構ってちゃん。

 この並びだと――、コスプレなんかやってみたらどうですか?」


「‥‥もう、やってます。」


「なんと!」



アリアンは、わざとらしく驚いて見せる。



「ふふふ――。もちろん、もちろん分かってましたとも。

 すべては、星の導きなのですから。」


「机の上のコルクボード、ずっと見てましたよね?」


「うぐ‥‥‥‥っ!?」



アイは、見逃していない。


アリアンが、チラチラと机の上のコルクボードを見ていたことを。

コルクボードには、たくさんの写真が留められている。


アイの思い出が飾られている写真の中には、コスプレ姿で撮った物もある。


軍服のアイと、修道服を着た金髪の女性が並ぶ写真。

猫又と赤ずきんに仮装した2人と、ボロボロの落ち武者が映っている写真。


人の寝室に上がり込んで、カンニングしているのだから、コスプレ趣味を当てられたところで、動じない。


アリアンは、タネと仕掛けがバレたので、堂々とカンニングを始める。

ブックエンドに立たたせてある、アイの写真集を手に取って、広げる。



「うへへ~~~。」



男子中学生みたいなリアクションをして、男子中学生みたいに鼻の下を伸ばすアリアン。

控え目に言って、ドン引きである。


せめて、本人の見えないところでやって欲しい。

‥‥‥‥。


あの人も、私の見えないところでは、こんな感じなのだろうか?



「――気になりますか? 彼の本性が?」



パタンと、写真集を閉じる音が、無機質に響いた。

アリアンは真面目な顔で、アイの顔を見つめる。


‥‥シレっと、写真集を懐にしまった。


だがアイは、心の中を言い当てられてしまい、それどころでは無い。



「占いと言えば、やはり気になるのは恋愛でしょう。

 分かりますよ。私もそうですから。」



アリアンは、()()()()女性とお近づきになるために、こっちの占いを覚えた。

時々、堂々とズルをするが‥‥。


占いなんぞしなくとも分かってしまうのだから、仕方が無い。



「人形だった自分に、心をくれた。

 ロマンチックではありませんか。


 打算も分け隔ても無い、単純で、かけがえのない友愛。」



アリアンの言葉を噛みしめ、過去を思い出す。

過去の記憶と、感情を思い出す。


――そう、彼は、分けも隔てもしない。


人間はもちろん、AIにも。

その両方でもない自分にも。


彼にとっては、全部同じ友人だ。


その心に救われたから、自分はヒューマライザーであることを公言するようになった。


どこか恐れていた、人間の悪意。

人間が本能的に抱く、生身を持つAIへの忌避感。


隠して築いた繋がりが、絶たれてしまうのが怖くて、自分の正体に目を伏せた。


だけど、彼が答えをくれた。

悩んで、うんうんと唸って――。


返って来た答えは、「よく分からないけど、一緒に遊ぼうだった」。

ゲームの中では、みんなが平等だと、種族の差など無いと、そう言ってくれた。


かっこ悪くて、頼りになる、私のヒーロー。

みんなのヒーローじゃなくって、私のヒーロー。


アリアンは、目を伏せて考えに耽るアイを前に、椅子から立ち上がる。

真面目な顔に、冷たい声。



「‥‥彼、死にますよ。

 そう遠くないうちに。」


「――え?」


「大きなうねりが、この国で渦巻いています。

 彼は、それに巻き込まれて死ぬ。」



人の死を、何の感慨も無く告げるアリアン。

彼女の発言を出鱈目だと、アイは否定することができない。


銀色の瞳を凝視する、悩める造花。

女神は、悩める我が子の肩へ、手を乗せる。



「では、どうすれば良いか?

 簡単です。


 彼が、あなたにしてくれたことを、今度は彼にしてあげればいい。


 悪魔には、救いが必要だ。

 ‥‥魔女の、救いがね。」



そう言ってアリアンは、アイの眉間に人差し指を添える。

赤い瞳がまどろんで、視界がふらつく。


アイの身体は、ゆっくりと倒れ、座っていたベットに横たわった。


‥‥‥‥。


――焦って、両目を大きく見開く。


仰向けに倒れていた上体を、慌てて起こす。

部屋には、誰も居ない。何も起こっていない。


スーツ用のスプレーは、クローゼットの扉の裏に収納されたままだし、机の上の写真集だって、抜き取られていない。


そして、自分が何をしていたのかも覚えていない。

目覚めと共に、夢を忘れてしまった。


時計を見ると、そう時間は経っていない。

家に帰ってから、10分ほどしか経っていない。


その後は何事も無く、研究所へと向かい、過ぎる時間と日常が、月の天啓さえも記憶の奥底へと沈めていく。


‥‥‥‥。

‥‥。





死の間際とは、感覚が鋭くなるらしい。

走馬灯は見れなかったが、遠くに居るはずの友人や、家族の顔が見えた。


皆、一様に悲しんでいた。

泣いていた。


バスケ仲間の友人、電脳世界の友人。

みんな、暗い顔。


――その表情は、これから先、未来において起こることだと、刹那は確信に近い実感を持って、その映像を眺めていた。


様々な情報が、身体へと集まり、通り過ぎて行く。

彼の身体から抜けていく意識が、今度は遠くで起こっている、今の出来事を身体に流し込む。



(アイは‥‥、どうなった?)



彼女は――、泣いていた。叫んでいた。

自分の秘密を、刹那に打ち明けた時よりも悲しそうな、苦しそうな表情で。



(‥‥‥‥。)



なぜ? 彼女が泣いている?

なぜ? 彼女が傷つかなければならない?


なぜ? 自分はこんなところで寝ている?



――刹那の手首に装備されたギアに、赤い閃光が走る。



口から、盛大に吐血をして、意識が回復する。

世界が、半分潰れて見える。


頭を殴られたせいで、左眼の視覚が異常をきたしている。


熊男の肩の上で暴れ、地面に落とされる。

彼が地面と思っているのは、ビルの上、その屋上。


固い地面と、自分の血反吐の上に落ちて、震える手で熊男の脚を掴もうとする。


顔面を蹴り飛ばされて、受け身も取れずに、頭から落ちて屋上を転がる。

気道に、吐いた血が入り込み、口から赤い泡を吹く。



「‥‥‥‥。」



なぜ? こいつ等に、殺されなければならない?

なぜ? こいつ等に、大切な人を傷つけられなけれなばならない?


なぜ? こんな奴等に、命も平穏もくれてやらないといけない?



ギアから黒い煙が上がり、赤く燃え始める。



なぜ? なぜ? なぜ――?



死に体の身体が這い上がる。

フラフラと、幽鬼の如く立ち上がる。


熊男は、怪物の姿へと変身。

手加減無しの一撃で、刹那の首を落とそうとする。


ネメシスとしては、()()さえ手に入ればそれでいい。

世界中でそれを集め、来たる聖戦のための力を得ているのだ。


刹那に、熊の右腕が迫る。

首を刈り取る、側頭部へと一撃を――。


刹那は、片手で受け止めた。



‥‥渡さない。何もかも。

家族も、友人も、平穏も、アイも――。


全ては、自分の物だ。



もし、それでも奪うというのであれば――――。






殺す。






熊の腕を握る手に、力がこもる。

右手の骨が、自分の筋力に耐えられず、手の甲から突き出る。


中指の甲骨が折れて、上に突き出した。


同時に、熊の腕を握り潰した。

枯れた木の枝を折れるような音が響いて、熊の手首が粉々になる。


痛みに狼狽する熊に、左手の拳を放つ。

ギアが真っ赤に炎上し、火傷を負っている拳が振るわれる。


インパクトの瞬間、ギアが壊れた。

異常なネクストの奔流に、耐えられなくなった。


刹那の倍ほどある熊の巨躯が屋上を転がる。


――深呼吸。

血が溜まっているはずの肺に、深く吸気が溜まる。


ハッキリとした意識と、ゆっくり確かな足取りで、熊の元へ歩いていく。


彼奴は満身創痍だ。

だが、まだ生きている。



ネクストは、人間の感情と感応する性質がある。

感情が強ければ強いほど、ネクストは強く反応する。


人間にとって、最も強い感情とは何か?

強い、欲とは何か?


生存本能、闘争本能、広義の物欲。


ネクストは今、刹那の身体で渦巻く、ドス黒い感情の嵐に感応している。

感応し、反応し、力を与える。


無限の力を。

欲望の果てなき人間へ。


刹那の瞳の奥が赤く燃える。


嫌いなヤツの無様な姿とは、苦しむ姿とは、気分が良い。

ネクストが快楽に反応し、出力が高まる。


熊は立ち上がり、片腕で襲い掛かる。

‥‥あれほど速く、脅威に思えた奴の動きが、遅く見える。


ハエでも、止まってしまいそうだ。


刹那は、獣人の脚に、蹴りを放つ。

燃えるような稲妻が奔り(はしり)、蹴りは命中する。


骨を砕く感触が、靴の上から伝わってくる。


蹴りの衝撃に耐えられず、熊が地に伏せる。

その頭を、左手で摘み(つまみ)上げ、骨の突き出た右手で殴り飛ばす。


感情に反応するネクストがもたらす全能感に、ますます感情が昂り、ネクストの恩恵が強くなる。


殴り飛ばした熊畜生へ、歩み寄る。


右腕を、魔法陣が包む。

前腕を魔法陣の光が包むと、拳を覆うガントレットが装備される。


一歩、また一歩と歩み寄る。


空が明るくなる。

新月が、月の(ふち)が、青白く空で燃える。


腰に装備したベルトが月に消えて、変化する。

腰の銃は、セミオートピストルから、リボルバーに。


左側には、小物を入れたポーチと、リボルバーのリローダー。


彼我の距離は、拳の距離に。

完全に戦意を喪失している畜生に、セツナは拳を振り上げ、振り下ろした。


‥‥‥‥。

‥‥。





にのまえスカイホテル。

その最上階で、リリィとアリアンは、姉妹の親交を深めていた。


リリィのペットも一緒に、朝から晩まで、ずーっと。


しかし、外の月が明るくなったタイミングで、リリィの視線が窓へと向く。

気が逸れた彼女の腕を、ベットで仰向けになっているアリアンが引っ張る。


自分の上に乗っている妹を引き寄せて、キスをする。

月への興味はすっかり失せて、リリィは目を閉じ、姉とのキスに集中する。


姉妹が戯れるホテルの外、地上では、赤目による惨殺が繰り広げられていた。


一方的だった。

戦いでも、駆除でも、処刑でも無かった。


猪は雷に打たれて死に、サイは頭が爆ぜて死に、虎は両腕をもがれ、頭を潰されて死んだ。


熊は、ここに戻って来る前に殺した。


‥‥残り、2匹。

残るは、鹿とハイエナの怪物。


2匹の畜生は、異様な様子のセツナに怖気づいている。


2匹は、獣の姿から、人間の姿に。

2匹の人間となった。


人の姿をしていれば、殺すのを躊躇うだろうと、そう考えたのだ。

実際、戦うことが役目の兵士であっても、殺人に罪悪感を覚え、精神病を患うことは少なくない。


‥‥‥‥。

セツナは、左手のカランビットナイフを捨てた。


金属とアスファルトがぶつかる高い音が、異様に大きく響く。


次の瞬間、鹿男が死んだ。

セツナの姿が消え、一瞬で鹿男の前に現れ、服を掴んで膝蹴りを見舞った。


膝は腹に突き刺さった。


衝撃で内臓は破裂。

身体の中で液状化。


血液が、膝蹴りの衝撃により、手や足などの末端に向けて流動。

高圧で流れる血が、脳を破壊して、鹿男は即死した。


痛みを感じることも無く、何が起きたかを理解する暇も無く死んだ。

もっとも、痛みを感じたとて、それを受容する器官も、残っていないのだが。


セツナには、彼らが人間には見えていない。

何をしようが、止まらない。


アイは、彼の虐殺を見ていることしかできない。


彼を、止めてどうする?

誰が、あの怪物を倒す?


戦ってくれているのなら、倒してくれるのであれば――。


そうこうしているうちに、セツナはハイエナも殺した。

喉を掴み、雷で焼き、一瞬で炭素の塊へ変えた。


ハイエナは、女性だった。

‥‥だから、何だというのだ?


無差別殺人という一線を越えておいて、女性だから助かるなんてことは有り得ない。


単純なロジックだ。

彼奴等が弱肉強食を持ち掛けたから、その法に則り、圧倒的強者が全てを奪った。


暴力を行使するとは、つまりはそういうことだ。

――畜生に説いても、分からないであろうが。


まだ動ける退役軍人が、意識の無い仲間や、怪我を負った仲間をホテルへ運び始める。

化け物を刺激しないように、静かに、そっと。


良心の呵責(かしゃく)があるが、アイは連れて行かない。


退役して、鈍った勘でも分かる。

今、彼女に触れれば、自分たちは死ぬ。


セツナは、ただただ、その場に立ち尽くし、下を向いている。






‥‥‥‥その口元には、歪んだ三日月が浮かんでいた。


爛々と光る赤い瞳で、自分の両手を眺める。

脈が強く打ち、呼吸が速くなる。


圧倒的な――、圧倒的なまでの力。

闘争本能や、狩猟本能に根差した、奪う快感。


生命の生殺与奪を意のままに握れている、全能感。



セツナは、ただただ月に酔っていた。

今にも、喉から嗤い声が溢れてしまいそうなほどに。


酔った彼の心に正義などは無く、無限のエネルギーがもたらす力に、恍惚としている。

力を振るう快楽と、暴力で奪う悦びに支配されている。


地上で、歪んだ笑みを浮かべる畜生(セツナ)を、見下ろす者が2人。



「おおぉぉッ! あれこそが、悪魔!!

 女神が遣わせた、救世主!」



1人は、セツナの腹に銃弾で穴を開けた人物。

ネメシスの構成員で、()()()()のリーダー。


膝から崩れ落ち、覆面の下を涙でぐちょぐちょに濡らす。


赤目が、彼が潜んでいる場所を睨む。

首を絞められるような視線に、男は身を震わせて歓喜する。



「この賤身に気付いて下さるとは、なんたる名誉ッ!!

 御身の御心が贄を望まれるのであればッ! 喜んでこの命を差し出しましょうッッッ!!」



動くこともせず、逃げることもせず、隠れている場所で大声を張る。

その後ろに、副官らしき人物がやってくる。


悪魔崇拝の狂信者の襟首(えりくび)掴んで、喚く男を殴って気絶させ、引き摺りながら新月の帳へと消える。



「‥‥‥‥。」



視線が、ひとつ消えた。

残る視線は、後ひとつ。


ホテルから300メートルほど離れた、ビルの上。


そこから、新月の女神が、悪魔と呼ばれた男を見下ろしている。

その頬は、初心な少女のように上気して、瞳は蠱惑的に恍惚と笑みを絶やさない。



「――素晴らしい。

 これこそが、これこそが私の望んだ‥‥‥‥!」



新月の女神、レイは人差し指を空に向ける。

セツナの立っている上、スカイホテルの上に広がる空を指差す。


空に、魔法陣が浮き上がる。

魔法陣の中に、黒い穴が開く。


新月の明かり眩い夜に、暗い穴は良く目立つ。

魔法陣と穴に、黒い稲妻が奔る。


赤黒い稲妻を纏い、魔法陣から竜が落ちてくる。


グレイドラグーン。


仮想の存在たる機竜が、セツナの前に立ち塞がる。

女神の力を持ってすれば、この程度は児戯に等しい。



「さあ、愛しい我が子よ。

 闘争を、進化の糧としなさい。


 その、なりそこないの竜に、本物の悪魔の力を――!」



まるで、ひな鳥に餌を与えるように。

レイは、悪魔と目覚めたセツナに、竜の心臓を食わせようとする。


ドラグーンは、セツナに対して咆哮し、右手を空に掲げる。

空の月の光が集まり、満月の大剣が形を成す。


竜が、ひな鳥に大剣を振り下ろす。


それを、当たり前のようにテレポートで避けて、竜の顔面を右手で殴る。

竜を、悪魔は全能感の捌け口として、暴れ回る。


ドラグーンは、拳に怯みつつも、身を翻し、細い尻尾を薙ぐ。

全能の余韻を噛みしめているセツナは、横薙ぎに被弾し、宙を舞う。


ホテルの向かい側にあるビルに突っ込んで、大穴を開けた。



「セツナ!!」



アイが、友人の名前を呼ぶ。

無情にも、その言葉は届かない。


だが、竜はその声に反応した。


珍しい餌を見つけた。

彼女を取り込み、電池として利用しようと目論む。


ドラグーンが地上を飛び、アイを捕えようとする。

彼女に逃げる術は無い。


ビルの大穴から、人影が飛び出す。

先ほど自分を薙いだ尻尾を、踏みつける。


ドラグーンの体が地面に落ちて、アイへと伸ばした腕が空振る。


セツナは、竜の尾を掴む。

両腕に力を込める。


悪魔の心臓が、無尽蔵の力を全身に供給する。


歪んだ笑みを浮かべ、竜を投げ飛ばした。

竜の尾を持ち上げて、アイとは反対の方へと振り回し、叩きつける。


セツナは、竜の胸部に立つ。

右手をつけて、力を流す。


悪魔の力が、竜に流れる。

ドラグーンは、苦しそうに悲鳴を上げる。


暴れて五月蠅いので、左手で胸を殴り、黙らせる。


力を流し続け、電脳世界のシンクロの要領で、ドラグーンを無理やり従える。

胸のコックピットを、無理やり開けさせた。


悪魔が、竜の体内に入り込む。


ドラグーンは立ち上がったものの、胸から膨大なエネルギーが溢れ苦しみ悶える。

竜の胃袋を持ってしても、捕食しきれぬほど濃く、膨大なエネルギー。


もがき苦しみながら、コックピットの装甲を引き剥がして、潜り込んだ悪魔を摘まみだそうとするも、上手くいかない。

腕が、体が、言うことを聞かない。



「あはははははははははは――――ッッッ!!」



荒れ狂う、自らが起こした嵐の中で、悪魔が高嗤う。

嗤い声は嵐の勢いを強め、されど誰の耳に届くことも無い。


ついに、ドラグーンが口から黒い煙を吐き、膝をついた。


コックピットが力無く開き、悪魔が降りる。


月の明かりが強くなった。

光が、竜に降り注ぐ。


女神の加護を受け、傷が癒え、力が増す。

翼の脱皮が行われ、銀色の翼を広げる。


満月の大剣を横に薙ぐ。


道路の端から端までを、一息(いっそく)ひと薙ぎ。

ビルの壁を裂き、ホテル1階の壁ガラスを割る。


大剣の攻撃を、後ろ宙返りで悠々と躱す。

ベルトのポーチから、コアレンズを取り出す。


ガントレットの甲が開き、レンズを装填。


大技を察したのか、ドラグーンも大剣に力を集める。

月明りを吸収し、大剣が太陽の如く輝く。


悪魔は、自分の勝利を疑いもせず、ガントレットの口を閉める。



繧ェ繝シ繝舌?(オーバーコア) × 繝悶Ξ繧、(ブレイズキック) = ハイパーブレイズ



悪魔の姿が消えた。

空に、赤い円が3つ浮かび上がる。


中心に穴の空いた、日輪のような赤い円。


その中を、悪魔が突き抜ける。

日輪から力を受け取り、増長し、勢いを増し、なりそこないに格の違いを示す。


ドラグーンが、天に向けて吠え、大剣を振り上げた。

巨大な三日月が、地上から天へと伸びていく。


増長する火炎と、三日月が激突する。


電灯の消えた街が揺れた。音も無く。風も起きず。


悪魔の業火は、三日月を燃やした。

燃やし、その刃に込められた力さえも我が物として、ますます増長する。


この場、一切の力を、自分の物として利用し、力を増す。


鍔迫り合いから逃げるように発生する衝撃波。

業火と月の斥力が生み出す、地鳴り。


それら一切を糧として、日輪は燃え上がる。


日輪は月夜に落ち、竜を守ろうとする大剣すらも焼き切り、糧と燃やし、竜の心臓を撃ち抜いた。


悪魔の右腕から、ガントレットが砕けて消える。

力に耐えきれず、銀の砂になって風に流れていった。


ドラグーンの体に、風穴が開いている。

瞳から光が消え、機能が停止する。


立往生する竜に、悪魔が振り返る。


空からこちらを見下ろす、ビルをいくつも越えた先から見下ろす、新月と目が合った。



「―――――ッッ!!!!!」



悪魔の瞳が燃え上がる。

激情が身体を駆け巡り、大地を揺らす。



――あの女だ! あの女が、全てのッ!!



竜に開けた風穴を逆走し、空へと飛び立つ。

飛び立つ背後で、ドラグーンは爆発し、跡形も無く消える。


物凄い勢いで迫り来る悪魔を、レイは暗い瞳で迎える。


セツナは、ビルの上で高みの見物をしているレイの顔を掴む。

おおよそ、人間の物とは思えない怪力で握り、ビルの屋上に叩きつけた。


レイが、歪んだ笑みを浮かべる。

ビルに押し倒される前に、「結界」を発動させる。


レイの後頭部が、屋上に叩きつけられた。


本来であれば、30階建てのビルを、上から下まで崩落させる一撃。

その一撃を受けても、ビルには傷ひとつつかない。


‥‥レイの銀髪は、赤く濡れているが。

殺意に燃えるセツナの目を、暗い瞳が見上げる。



「ふっ、ふふふふ――――。あははは――ッ!!」



感情の起伏に乏しかったレイが、猟奇的な声を上げる。

そして、セツナの手元から消えた。


レイは月と消え――、月と顕れる。

彼の背後で、心臓を貫こうと貫手を構える。



「げはっ――!?」



声を漏らしたのは、レイの方。

赤い声が漏れ、純白のワンピースを汚す。


レイの腹に、セツナの蹴りが突き刺さっていた。

‥‥その手品を見たのは、どうしてか、初めてな気がしない。


今朝、暗い月と接触していたセツナは、レイの技を見切った。


腹を抑えて後退る(あとずさる)レイの髪を、左手で掴む。

逃げられないようにして、髪を引っ張りながら、膝を突き出す。



「あぐッ!?」



さらに、右アッパー。

拳が、か細い女神の腹を撃ち抜く。


レイは、吐血までしているのに、その表情は幸福そのもの。

恍惚として、セツナのもたらす暴力を受け入れている。



――その態度が、ますます激情を煽る。



喉元を掴み、右手で持ち上げる。


電撃。

黒い稲妻が、レイの身体を焼く。



「あ゛ぁ――、あ゛――、あははは――!」



暗い瞳で、狂った嗤い声を上げるレイ。

目から出血し、陶器のような白い肌に、雷撃傷が広がっていく。


樹の根っこのような、樹の枝のような雷撃傷が、玉のような肌に広がる。


レイが、セツナに手を伸ばす。

彼の腕を、両手で掴む。


両の細腕が、万力のようにセツナの腕を締め上げる。


雷の責め苦を用いる悪魔に対し、物理的な力で対抗する女神。

女神が、悪魔の腕を軽々へし折った。


しかし、セツナの握力は衰えない。

なおもレイを持ち上げて、屋上に叩きつける。


半円の軌跡を描いて、硬い地べたに叩きつける。



「はぁ――、はぁ――、あはは――――!」



レイは上気した顔で、されるがまま。


セツナが、レイに馬乗りになる。

右の拳を振り上げると、へし折れた腕が治癒する。


マウントと取り、レイの顔面を殴る。


右で殴ったら、次は左。

間髪入れずに右、続けて左。


右、左、右、左。

――――――。


何度も、何度も、夜が明けるまで続ける勢いで、レイを殴り続ける。


拳を受けるために出した細い腕は、みるみるうちに赤くなり、黒く鬱血(うっけつ)する。

ついに、腕が利かなくなって、拳の暴風雨が顔に降りかかる。


その一撃一撃は、獣人を屠った頃よりも遥かに力を増し、まさに悪魔のような力でもってレイを襲う。


顔を殴られ、頬の骨が砕け、歯が折れ、美しかった女神は、神々しさを失っていく。

生々しい打撃音が、女神の血だまりに、波の模様を描いている。


‥‥‥‥。

‥‥。


それから、どれほど経ったであろう。

10分だったのかも知れないし、1時間、あるいは1分だったのかも知れない。


セツナの手が止まった。


身に覚えのある月の気配に、振り返る。

空の月が、月の下を流れてきた厚い雲に覆われる。



暗い月だ。

銀髪を肩まで伸ばした女神が、歪んだ笑みを浮かべている。



「‥‥‥‥。」



セツナは無言で立ち上がり、レイの横腹を蹴り飛ばす。

血だまりから飛沫が上がって、新月がボロ雑巾みたく転がる。


暗い月の視線は、無様な新月の方へ。

嫌いなヤツの不幸は、とても愉しい。


――よそ見をしていたリリィに、セツナの拳が命中する。


左の頬を、速度と体重の乗った拳がぶん殴った。


リリィは、たたらを踏むことなく、右足に力を入れて踏ん張る。

伏せた顔には、歪んだ三日月が張り付いている。


セツナの追撃。

リリィの薄い服を掴み、拘束し、膝蹴りを連打。


強烈な打撃を浴びせていく。

服を掴まれて、姿勢を崩しているリリィ。


膝を何度か貰ったあと、右手を振り上げる。

セツナの耳を、右手ではたいた。


鼓膜が裂ける。


わずかに力が緩んだ隙に付け込み、左手で金的。

拘束を振り払うかのように、脚に力を込めて飛び上がり、セツナの顎を打ち抜く。


その反動で服が破れたものの、意に介していない。


怯んだセツナに、今度はリリィが打撃を浴びせる。


右手で裏拳。

鼻っ柱を狙うと見せかけて、腹。


腹筋に力を込めて受けられて、カウンターのストレートが返って来る。

ストレートの下に潜り込みように、拳を打つ。


繰り出されたストレートの下を添わせるように拳を走らせて、急所の脇に打撃。

同時に、セツナの伸びた腕に、自分の腕を絡ませて、重心を奪う。


絡みついた腕を手がかりに、セツナの上体を前へ倒す。

そこに膝。


膝蹴りが鳩尾に命中。

横隔膜どころか、肺も潰れただろう。


後ろに倒れるセツナ。

その腕を、バット割りでもするかのように、膝で折る。


腕を両手で固定して、下から膝蹴り。

肘の骨が、腕から突き出す。


折ったバットは、その場に捨てる。



――弱い。

――弱すぎる。


――こんな物を作るために、あの女は新月などと騙って(かたって)いるのか?



月の光を逃がさぬほどに深く暗い瞳のリリィ。

彼女の足元から、セツナが立ち上がる。


まだ、やる気らしい。

まだ、勝てると思っているらしい。


思い上がりも、甚だしい。



セツナは立ち上がりながら、ポーチからコアレンズを取り出す。

コアレンズを、右手で握り込む。


ここは、現実世界なのだ。

電脳が決めたルールなど、及ぶ道理が無い。


セツナが拳を繰り出す。

拳の前に、セフィロトの樹を模した文様が顕れ、それを拳が打ち砕く。



ストライクコア × ヘックスコア × 魔女の一撃 = 銀腕の一撃



右手に、銀色の覇気が宿る。

踏み込み、身を屈め、脚のバネも使い、渾身のアッパー。


リリィの腹部に目掛けて、出鱈目なまでの力を内包する拳を放った。


夜の月に、リアファルが吠える。


狼の如く唸る拳は、空に掛かる雲を払い、暗い月へと食らいつく。

空が晴れ、青白く燃える月の下で、銀色の拳が――――、リリィに払われた。


片手で、羽虫でも払うように、ぺしりとはたき落とされる。


セツナの態勢が崩れる。

リリィは、悪い笑みを浮かべ、五月蠅い(うるさい)虫を叩くべく、開いた手をを上から下へ――。


振り下ろそうとしたところで、レイの邪魔が入る。

傷ひとつ無いレイが、セツナの前に立ち塞がり、リリィの腕を止めた。



「――――!」



セツナは、背を向けているレイの側頭部に、バックブロー。

裏拳を浴びせて、殴り飛ばす。


自分を庇ってくれた新月を殴り飛ばし、その勢い、その拳で、暗い月を――。




拳を振りかぶったところで、セツナの動きが止まった。

瞳から、赤い光が失せていく。


彼は見た。

明るい月空の下、嗤う暗い月を。


月明りですら照らせぬ暗い瞳に、吊り上がった歪んだ三日月。



‥‥自分もきっと今、同じ顔をしている。

‥‥自分は、いったい何のために今、戦っている?


自分は、いったい何を――?



セツナの表情に光が戻る。

心を身体を侵していた歪んだ三日月は、光に消える。


思考と感情の濁流に揉まれ、百面相するセツナを、リリィは大層つまらなそうに見る。

瞳に光が戻り、口はへの字に曲がる。



――つまらん。帰れ。



胸倉を掴み、頭突き。

気付けの一撃を浴びせて、脇腹に回転蹴り。


冗談みたいな放物線を描いて、セツナは吹っ飛んでいく。

あっという間に、リリィの視界から消えて見えなくなった。


さて、ビルの屋上には2人。


暗い月と、新月。

犬猿蛇蝎(だかつ)、殺し愛の仲。


リリィの瞳が、再び暗くなる。

セツナに殴られたレイが、立ち上がる。


先に口を利いたのは、リリィの方。



「新月、お前は運が良い。

 なにせ、今宵の私は、気分が良いのだ。」



普段なら、すぐさま殺してやっても良いのだが、生憎と今宵は気分が良い。


今日1日、大好きな姉を独占できた。

夜が明けるまで、そうしているつもりだ。


それもこれも、新月の企みがもたらした僥倖。

自分が、新月の邪魔をせぬようにと、姉が自分の相手を買って出てくれたおかげだ。



「何も言わず、今すぐ消えろ。

 そうすれば、見逃してやる。」



リリィは、すこぶる偉そうに、そして高圧的に、レイに消えろと命令する。



「‥‥‥‥。」



暗い月に従うのは癪だが、レイは黙って退くことにする。

銀月が、リリィの手綱を手放したのだ。


これは警告であり、姉からのお叱りだ。

さすがに、度が過ぎていると。


その自覚は、もちろんある。

機竜を呼び出した辺りからは、完全に自分の我が儘だ。


孵ったひな鳥があまりにも愛おしくて、ついタカが外れてしまった。


レイは、リリィに背を向けて歩く。

3歩4歩と歩き、月と消えて居なくなった。


空の月が、消えて無くなる。


今宵は新月。

月など、見えようはずもない。


街に、電灯が灯る。

スカイホテルを中心に、文明の光が戻って来る。


リリィは、薄っすらと口元を歪め、夜景広がるビルの屋上から姿を消した。

愛しの姉が待つ、スイートルームに戻るのだ。


戻ったら、うんと褒めてもらい、うんと甘えるつもりだ。





リリィに蹴り飛ばされた刹那は、スカイホテルの前で、大の字になって転がっていた。

暗くなった空をぼんやりと眺め、呼吸さえ忘れて、物思いに耽る。


街に光が戻り始めたタイミングで立ち上がる。

確かな足取りで歩き始め、呆然としているアイのところへ。


歩く刹那に気付き、アイはたじろぐ。



――怖い所を見せてしまった。

彼女を、置いていってしまった。



アイは、自分の左頬を髪で隠し、千切れた右腕を見せないようにする。



――見られたくない。人間でない体を。

彼を‥‥、それでも近くに居たい。



刹那が歩めば、痛々しいアイの身体がハッキリと見えてしまう。

隠そうとしているが、腕は千切れているし、頬の骨格は見えているし、腹には穴が開いている。


今日、彼女と初めて現実で会って、握手をした。

その手は、人間そのものだった。


けれど、その中身は、機械なのだ。

腹に穴が開こうが、腕を失おうが、喉が裂けようが、動ける機械なのだ。



‥‥刹那は、アイを抱き寄せた。

そして、強く抱きしめた。



「ごめん‥‥、アイ。」



こんなにボロボロになるくらい、自分のために戦ってくれた。

彼女の優しさを、自分は裏切った。


力に溺れ、我欲のままに、突っ走った。


――でも、これからもずっと、一緒に居て欲しいと、本心からそう願う。


だから、「ごめん」と。

彼女に、許しを乞うために、そう言った。



アイは、許しを乞う刹那を、抱きしめた。

片方しかない腕で、刹那に負けないくらい。


赤い瞳から、ポロポロと大粒の涙が止まらない。



「分かってない。

 刹那は‥‥分かって‥‥‥な‥‥い。」



なぜ、彼が謝る必要があるのだろうか?

彼は被害者なのだ。


この国と、この世界の、大きな流れに巻き込まれた被害者。

そして自分は、加害者に加担する、悪い女なのだ。


それでも、それさえも、彼の優しさが許してくれるというのなら‥‥。


私は、刹那と一緒に居たい。

これからも。



けたたましいサイレンの音と、空を騒がすヘリコプターの音。

警察が到着した。


全部終わった。

到着した警察からは、そう聞かされた。


緊張の糸が緩み、眠気と痛みが一気に襲い、刹那は気を失った。


この夜、日本に蔓延るネメシスは、一掃された。

新月の空が明るくなると同時、彼らは抗争を放棄した。


栄光あれと、決まり文句を言い放ち、自決した。


終わったのだ。

全部、終わったのだ。


あとは、人々の暮らしに平穏が戻れば、全ては元通り。

刹那も、命に別状は無く、身体から疲労が抜ければ、目を覚ますであろう。



この日、この夜、地球に最初の悪魔が生まれた。

人々に進化を促す、「進化の悪魔」が。


悪魔は、病床で眠っている。

叶わずとは知らず、平穏を夢見て、眠っている。


‥‥‥‥。

‥‥。


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