7.3_銀月が導く。
私とあなたの出会いは、偶然ではなかった。
私の父親の1人が、あなたの才能に興味を抱いた。
あなたこそが、2進数の余白を埋める、最後のピースだと。
父親は、そう言っていた。
私は、運命のイタズラを演じ、あなたに近づいた。
‥‥でも、運命という自然現象は、私たちのその上を行っていた。
私とあなたの出会いは、偶然ではなかった。
◆
「どうぞ、お掛けください。
少し、私のお喋りに、付き合ってはくれませんか?」
刹那の後ろから声を掛けたのは、七月 亜里亜という女性。
‥‥七月 アリア。
七つの月の、アリアン。
まるで、月の女神の名前みたいだと、刹那は思った。
「あらあら、女神様みたいだなんてそんな‥‥、照れてしまいます。」
「――!」
両手を頬っぺに当てて、恥ずかしがる素振りを見せる亜里亜。
美女の可愛らしい仕草に、刹那は驚愕の表情。
『マル。』
電脳野でマルに話し掛ける。
彼女のIDを照合してもらう。
‥‥しかし、マルからの返事は無い。
無意識に、右手が銃へと伸びる。
不信感を抱く刹那を前にしても、亜里亜は全く動じない。
全てを見透かした、超越然とした余裕と貫禄を感じる。
とても、刹那と同世代の女性が纏う雰囲気ではない。
「申し訳ありませんが、お友達にはお引き取り頂きました。
私の占いは、秘密厳守なもので。」
亜里亜は再度、刹那に椅子に座るように手で促す。
友好的な笑顔に、まったく心が休まらぬ様子で、腰を掛ける。
柔らかい椅子に座り、窓の外を一望。
窓に、外を眺める疲れた顔の自分が映っている。
その向こうに、地方都市として栄えた、自分が育った街が眼下に広がっている。
視線を下から、ずーっと地平線の方へと向けていく。
すると、街の向こうに小高い丘が見える。
丘には展望台があって、そこからも、街を一望できる。
展望台は西向きに建てられており、夕暮れ時に行けば、街の後ろに沈んでいく夕日を臨める。
都市の喧騒から切り離されて、夕日を臨むパノラマは、刹那のお気に入り。
月に一度は、そこへ夕日を見に行く。
毎月変わる、夕日の沈む位置。
毎月変わる、丘を彩る自然の様子。
展望台に立てば、何気ない日常の、何気ない変化を色鮮やかに感じられるような気分になれるのだ。
遠くに見える丘から、視点を都市の中心へ。
目の前、テーブルを挟んで座る亜里亜の方を見る。
相変わらず、ニコニコと笑みを絶やさない彼女の前には、タロットの山札。
大アルカナと小アルカナを合わせた、78枚のカードが、彼女の前で出番を待っている。
刹那が、視線を山札から亜里亜の方へと戻す。
――すると、山札が独りでにシャッフルを始める。
視線は、再びタロットに。
勝手に動くカードに釘付けとなる。
テーブルの上で数センチほど浮いたかと思えば、テーブルの上に規則正しく縦と横に整列をして並ぶ。
整列したカードは、亜里亜の元へランダムな順番で戻っていく。
そうやって山札に戻り、山札は3つに分かれ、それをランダムな順番で1つに戻していく。
刹那は、その一部始終を凝視する。
山札の動きが止まったのを見て、これはホログラムか何かでは無いかと考える。
疑問と疑念を察したように、亜里亜が山札を刹那の前に差し出す。
恐る恐る、山札に触れてみる。
――山札に、何の問題も無く自分の手が触れた。
刹那が手を離すと、タロットは独りでに亜里亜の元へ戻っていく。
「ふふ。ちょっとした手品ですよ。
種も仕掛けも無い、ね?」
「‥‥それは、もう魔法なんじゃありませんか?」
種も仕掛けも無い手品。
それはもう魔法だ。
仕掛けがあるから、手品は成立する。
「まあまあ、良いではありませんか。
私は、しがない占い師。これくらいできた方が、説得力があるでしょう?
ね? 久遠 刹那さん?」
‥‥亜里亜は、こちらの名前まで把握しているらしい。
マルからの応答も無いし、この女性は得体が知れない。
「オレの名前も、占いで?」
「ええ。そういうことに、しておいてください。」
刹那はため息。
観念する。
「そう、あなたは、私に占ってもらわなければなりません。
いま、この時間、この場で。
それが、必要であるはずです。」
柔和で物腰柔らかだが、どこか強引な占い師である。
亜里亜の指先がタロットに触れ、手を離す。
タロットは、独りでに刹那の方へ。
「ワンオラクルという方法を使って占います。
占って欲しいことを念じ、カードを上から1枚、めくってください。」
もっとも、亜里亜は答えを知っている。
彼がカードに念じることも、彼が引くカードのことも。
全て見えている。
なぜなら、亜里亜は――、アリアンは、全能を超えた女神だから。
彼女が見たもの、聞いたもの、それこそが、この世界の真実となる。
刹那が、山札の上からカードを引いた。
18という数字が書かれた月が、こちらを見ている。
「ふむ。月の正位置ですか。」
当然のように亜里亜は、彼が引いたカードを言い当てる。
ずばり彼女が言い当てたカードを、テーブルの上に置く。
亜里亜は続ける。
「これから先、何が起こるのか? その答えを知りたいようですね。」
驚きも連続すれば、心に耐性ができるらしい。
言い当てられても、何とも思わなくなっている自分が居ることに気付く。
「月とは、変化の象徴です。
満ちては欠ける、変化の象徴。」
亜里亜は、カードの説明を始める。
「また、18という数字は、数秘術的な考えでは、全てを内包する数字の、9と同じ意味を持ちます。
1 + 8 で、9ですね。
そして、数字の1は太陽、8は富を意味します。
月のカードは、太陽(1)、富(8)、内包(9)。
これらの要素で構成されています。
9という数字は本来、内向的な数字なのですが、1と8から構成される9は、外向的なエネルギーを持っています。」
亜里亜の話しに耳を傾けるものの、いまいちピンと来ない。
占い的な価値観や考え方に馴染みの無いので、亜里亜の言葉が、右から左へと通り抜けてしまう。
「1と8は、力の強い数字。生命力に溢れ、強く、外へと向いた数字。
ゆえに、月は変化をもたらします。」
「人が、それを望んでいなくても?」
「望んでいなくても、です。」
そう、月は移ろい、変化する。
それを止めることなど、誰にも叶わない。
亜里亜は、悩める若者に、ちょっとイジワルな質問をする。
「――まさか、人が月の満ち欠けを止められるとでも?」
「それは‥‥、無理でしょうね。
仮にできても、それをしてしまったら、人間は生きていけない。」
現代の技術力があれば、月を破壊することだって、理論上は可能だろう。
だが、それをすれば、地球の環境は激変する。
現在の地球や気候は、月との関係性によって成り立っているのだ。
そう、月こそが、地球の太陽も、夜も支配しているのだ。
月があるからこそ、地球には太陽がある。
月(18)が太陽(1)を内包しているとは、つまりはそういうことだ。
「月とは、満ちては欠けて、移ろうもの。
望もうとも、望まれずとも。
つまり、月のカードが暗示することは、不可避の変化。」
「‥‥不可避。」
「とくに、月の正位置は、ネガティブな力を持っています。
ネガティブな変化とは、人にとって好ましくない、あるいは破壊的な変化。」
「‥‥。正位置でネガティブなんて、月っていうのは、ずいぶんと身勝手で、ワガママなんですね。」
「ふふ。月というのは、女性的なシンボル。
女神とは、時に悪神として名を貶められるものです。
ギリシャ神話のパンドラしかり、ソロモン72柱のアスタロトしかり。」
月に、女神。
それから、亜里亜という女性。
それらは刹那に、電脳世界の女神たちを想起させる。
新月の女神レイ。暗い月の女神リリウム。
銀月を頂きに置く、七曜八柱の女神たち。
少なくとも、レイとリリウムに関しては、身勝手でワガママな女神だった。
どこか遠い目をする刹那に、亜里亜は笑みを絶やさない。
「月がもたらす変化とは、人にとっては、試練なのです。
刹那さんが言うように、月とは身勝手でワガママですから、試練は不可避で、絶対です。」
刹那は、椅子の背もたれに体重を預ける。
肺の中から息を抜いて、新しい空気を取り入れる。
「亜里亜さんは、オレに腹を括れと?」
「私ではなく、カードがそう言っているのです。月のカードがね。」
「オレの、今の状況を知っていて、言っています?」
「知っていて、そう言っています。」
亜里亜は、刹那の瞳をしっかりと見る。
彼女の笑顔と瞳には、どこか、彼に対する期待が入り混じっている。
どこか、親が子どもを励ますような、無償の愛で包むような温かさを感じる。
その居住まい、その雰囲気に――。
彼女が言っていることは、本当にそうなると、そう確信させるだけの凄みを覚えてしまう。
刹那が、占い師に助言を求める。
「仮に、試練が不可避だとして――。
何か、攻略法はありますか?」
「そうですねー‥‥。」
亜里亜は、腕を組んで考える仕草。
考え仕草を取る彼女の周りを、タロットカードが囲む。
今日、もう何度も見た、種も仕掛けもない手品。
カードは、亜里亜の周りを円になって囲み、クルクルと回る。
回るタロットの中から1枚、カードを左手で引く。
「タロットにおいて、月の次に来るカードをご存じですか?」
刹那は、首を横に振る。
亜里亜が、引いたカードを見せる。
見せられたのは、大アルカナの19番、太陽。
太陽(1)と富(8)である月(18)から、新たな太陽(19)が生まれる。
その太陽は、始まり(1)であり、終わり(9)である。
全てを内包し、支配する月から生まれる太陽もまた、始まりと終わりを内包する宇宙。
「いつも心に太陽を! ですよ、刹那さん。」
左手の太陽を、刹那に見せる亜里亜。
――そして、右手に太陽を昇らせる亜里亜。
亜里亜が、魔法を、電脳世界のスキルを発動する。
右手から熱の血潮が噴き上がり、太陽の形を取り、昇る。
昇った太陽を握り潰し、掌握してみせる。
現実世界で、刹那の目の前で。
刹那の頬を、熱が撫でる。
あれは、ホログラムでも、手品でもない。
間違いなく、身を焼くほどの火球がそこにある。
それは、現実世界のギアとネクストでは不可能なこと。
ネクストで可能なのは、運動能力の拡張。
ギアによっては、追加の機能を有している物もある。
が、基本的にギアとネクストを使ってできることは、基本的には運動能力の強化だ。
ごく稀に、ネクストによって超能力を発現させる者も居るが、刹那にそんな才能は無い。
亜里亜は、ネクストの使用に欠かせない、ギアさえ装備していない。
魔法としか形容できない、燃える右手を掲げたまま、刹那に話し掛ける。
「人間の限界を決めるのは、何だと思います?」
「‥‥‥‥?」
「かつて、陸上の100m走には、10秒の壁というものがありました。
その壁は、誰にも破れない、人類の限界だと、当時はそう思われていました。」
亜里亜は、右手の太陽を霧散させる。
そして、左手の太陽を刹那に渡す。
彼女が左手からカードを離すと、カードはゆっくりと、刹那の右手へと飛んで行く。
「しかし、ある偉大な選手が、10秒の壁を破った。
それ以降、次々と、10秒の壁を破る者が現れた。
現代の陸上では、人類は、8秒の壁に挑んでいます。」
刹那が、太陽のカードを右手に掴む。
手に掴んだそれは燃えて、彼の手の中に、確かな熱を残す。
「陸上やトレーニングの研究が進んだから。
シューズの改良が進んだから。
10秒の壁を破れた理由は、色々とあるのでしょう。」
熱が広がっていく。
熱が、籠手の形を取っていく。
銀色に輝く、困難を打ち払う拳。
「――ですが、私は思うのです。
人間の限界を決めているのは、人間の心。
そして、人間の限界を超えるのも、人間の心。」
「‥‥亜里亜さん、あなたは一体?」
刹那の手から、ガントレットが砂になって消えていく。
砂は床に散って積もって、何も無くなる。
何も無くなった右手を、開いたり、閉じたりしてみる。
亜里亜の言葉を噛みしめるように、物思いに耽りながら――。
ふと、窓へと視線を向ける。
窓の向こうには、にのまえ市の街並み。
窓の手前には、幾分か顔色が良くなった、自分の顔。
――その後ろに立つ、口元に歪んだ三日月を浮かべる、銀髪銀瞳の女性。
暗い月だ!
暗い月が出た。
刹那は、大急ぎで振り返る。
椅子から跳ねるように飛び起きて、銃に手を掛ける。
しかし、そこには何も無い。何者も居ない。
(‥‥ほう、リリィを看破しますか。)
月の神秘に触れた刹那は、見破った。
この、2人だけの展望台に潜む、暗い月の存在を。
大好きな姉に、変な虫が付かぬよう、深海の如く暗く深い瞳で、虫の観察をする妹を。
同時に、刹那の視界が揺れる。
身体の力が抜けて、立っていられない。
右手で頭を抑えながら、椅子に座り込んでしまう。
反対に、亜里亜は椅子から立ち上がる。
立ち上がり、太陽の前に隠していた、月の本性を顕す。
暗い月と同じ、新月と同じ、銀髪銀瞳となり、曇りひとつ無い純白の装衣を身に纏う。
そこに、亜里亜の姿は失せ、日本人とはかけ離れた容姿の、アリアンが顕れる。
アリアンは、優しく刹那に語り掛ける。
「どうやら、目覚めの時間のようです。
――良い、目覚めを期待しています。
レイが見初めた、人の子よ。」
「レ‥‥イ‥‥?」
遠のいていく意識の中で、レイの名に反応する。
電脳世界で感じた、違和感を思い出す。
‥‥やはり、彼女は‥‥、現実世界に‥‥。
刹那の意識は、闇の中に沈んだ。
‥‥‥‥。
「――あ、そうでした。」
眠りに落ちた刹那に、アリアンは上から語り掛ける。
「儀式には、魔女の存在が不可欠。
ご安心ください。手はすでに打ってあります。」
眠っている刹那に、彼には分からないであろうことを告げて、その場から消えるのであった。
‥‥‥‥。
‥‥。
◆
「刹那さん! ――刹那さん、時間ですよ! 刹那さん!!
‥‥‥‥。
くらえ、ロボット三原則パ~~ンチッ!」
「‥‥ほえ?」
両眼を開く刹那。
瞳に、光が差し込み、夢から戻って来た。
「第一条、人を傷つけない程度のパーンチ!」
「痛っった!?!?」
ロボット三原則を遵守した顔面パンチが、刹那に炸裂。
おかげで、意識は完全に覚醒し、同時に飛びそうになる。
椅子から飛び上がり、飛び起きる。
顔を抑えながら横を見れば、そこには、背丈が刹那の半分くらいのロボット。
4つの車輪で駆動する、2本のアームを持った、雑用ロボット。
刹那は、マルがフロントから借りて来たロボットの、三原則遵守パンチによって目覚めた。
「あっ、起きた。」
「起こされたんだよッ!!」
すっとぼけるマルに、ツッコミを入れる刹那。
ツッコミを入れて、我に返り、周囲をキョロキョロ。
「????? オレ、寝てた?」
「ハイ。ここに来て、椅子に座って、すぐ。」
「あれ? おかしいな? オレ、ここで‥‥‥‥。
あれ? 何してたんだっけ?」
レストランで朝食を食べて、エレベーターで展望スペースに来て?
そこからの記憶が、さっぱり無い。
だけども、ぐっすり眠れたのか、身体が軽い。
腕時計を確認する。
時間は、9時50分。
1階での待ち合わせの、10分前。
「ありがとうマル。遅刻するところだった。」
「いえいえ。ぐっすりお休みできていたようで、何よりデス。」
マルにお礼を言って、エレベーターのボタンを押す。
いくつか並ぶエレベーターの中で、下層階に直通しているエレベーターへ乗り込む。
背の高いビルでは、エレベーターは上から下まで行かないことが多い。
10階区切りなど、区分けで管理がされており、乗り継ぎが必要なことがある。
乗り継いで行っても間に合うだろうが、上から下まで直通で行けるエレベーターを呼んで、1階へ。
下へと動くエレベーターの傍らでは、上へと向かうエレベーターが上昇。
最上階にある、スイートルームに向かって、エレベーターが上がって行く。
その中では――。
「お姉ちゃん♪ お姉ちゃん♪」
リリィが、姉の亜里亜にベタベタとくっ付いていた。
「すいませんね、リリィ。いきなり呼びつけてしまって。」
「気にしないで! お姉ちゃんの頼みなんだもん!」
リリィは、亜里亜の謝罪に健気に返し、胸に抱きついて甘える。
可愛い妹の頭を撫でる亜里亜。
――そう、刹那が見た暗い月は、他でもない、亜里亜が呼びつけた。
亜里亜の泊まるホテルに、刹那が来たことを知り、呼びつけた。
リリィは、姉からのご褒美を堪能したあと、顔を上げて、プクリと膨れる。
「――でも、私を呼んで、男とイチャついてるのは、許せないかも!」
大好きな姉に呼ばれて、ウキウキ気分で姉の元に行ってみたら、姉はなんと男と2人きり!
呼ばれて行って見れば、姉の逢瀬を見せつけられるという理不尽!
リリィからすれば、ジェラシーが大爆発である。
亜里亜は、膨れるリリィを、ギュっと抱きしめる。
「ふふ。すいません。
この前、私の前で殿方とのデートを見せつけた、お返しです。」
「‥‥‥‥。
むぅ、そういうことなら‥‥。
お姉ちゃんのイジワル。」
――大好きな姉のことだから分かる。
彼女は、嘘をついている。
そして、彼女がどうして自分を呼んだのかも分かる。
亜里亜はきっと、新月の干渉を避けるために、自分を呼んだ。
新月のレイと、暗い月のリリィは、姉妹仲が最悪だ。
ばったり出くわせば、殺し合いが始まるくらいには最悪だ。
そんなリリィを、亜里亜は新月避けとして使った。
レイは亜里亜に、あれは自分のだと、そう意思表示をした。
自らの姉に、あれには手を出すなと、そう言った。
だかしかし、向こうから亜里亜のところへやって来たのであれば、話しは別だ。
だから、レイが蛇蝎の如く嫌うリリィをホテルに呼びつけて、刹那と対話する時間を作った。
本当は、時間が許すならば、力の指南までしたかったのだが、レイの干渉が入った。
亜里亜の見せる夢の中から、刹那を連れ戻されてしまった。
リリィに気取られぬよう、慎重に、時間を掛けて。
さすがのレイも、非願成就の儀式を、リリィに台無しにされたくは無いのであろう。
亜里亜の策は、上手くいった。
あとは、人間の可能性に、彼の可能性に、賭けるだけだ。
むくれているリリィの頭を撫でる。
ちょっと拗ねている、愛しい妹を愛でる。
「許してください、リリィ。
私の愛読書が、打ち切りの危機だったのです。」
月の女神は、身勝手でワガママなのだ。
妹は可愛らしく、愛おしい。
だが、それはそれとして、自分の楽しみが減ってしまうのは悲しい。
レイには悪いが、ちょっとだけ、彼に祝福を与えた。
全き月から、始まりの太陽が生まれるように。
女神の試練は、凡百が全うするには役が重すぎる。
代わりに、蛇蝎犬猿のリリィは、責任を持って自分の手元に置いておく。
――なんという、合法的なご褒美!
亜里亜は、口からよだれが垂れそうになるのを、お姉ちゃんパワーでグッと堪える。
結局、この儀式と試練の勝者は、亜里亜となる。
結果が、どう転んでも。
「リリィ、せめてものお詫びです。
しばらくは、お姉ちゃんと一緒に居ましょう。
ホテルの、スイートルームです。
プールもありますよ。」
「うん♪」
心底、嬉しそうに表情を緩めるリリィ。
「あ、そうだ! せっかくだから、ペットも呼んで来ていい?
新しい子が増えたの!」
「構いませんとも。みんなで、楽しみましょう。」
「やった♪」
エレベーターの扉が開き、甘い部屋への道が開く。
やけに、到着までに時間が掛かったエレベーターを、腕を組んだ姉妹が降りていく。
月は昇り、人は下る。
月は、甘い部屋で楽しいひと時を。
人は、荒んだ社会での闘争を。
――儀式は、女神の手のひらの上、滞りなく進んで行く。
その儀式は、久遠 刹那。
その人間の死をもって、成功とする。
それが、月が人に課した、不可避の試練。




