6.9_暗い月
月の女神は、銀軸の女神。
太陽との車輪で世界を回す、運命の女神。
月と銀軸は、車輪であり、鏡である。
目の前の光を映す、鏡である。
とくに暗い月は、心の狂気を、ひときわ大きく映し出す。
人が飲み込み、臓物の奥に沈め、腐った汚泥を映し出す。
◆
月の剣を握るセツナが踏み込む。
新月の剣は、それを手に取る者に、速足の加護を与える。
加護と魔法を融合。
加護と、霹靂の電光石火を混ぜ合わせる。
速足は、縮地の領域へ。
地上を稲妻が駆けた。
屈み、左手に持つ、月の爪を地面に刺し込む。
ブレーキを掛けながら、暗い月の足元に剣を振るう。
剣の攻撃とは、線の攻撃。
剣を受ける時は、その線の軌道から離れたり、軌道に武器を置くことで受ける。
その性質上、下から足元を狙う攻撃は受けずらい。
魔法が無ければ、屈むことによる機動力の低下を看過できない。
しかし、この世界には魔法がある。
屈んだ姿勢でも、膝をついた状態でも、常人が走るよりも速く移動する方法が存在する。
屈み、暗い月の足元に、横一文字。
二刀流は、相手の攻撃を受けるのが相当難しい。
片腕だけでは、武器を支える支点が弱く、攻撃を受けきれずに弾かれやすい。
ゆえに、相手の剣を逸らすように受けることが肝要なのだが、足元の横一文字を逸らすことなどできない。
そもそも、横方向の剣戟を逸らすことは、人体の構造上不可能。
だからこそ、日本の武術では、水平斬りに対して、相手の懐に姿勢を低く潜り込むような返し手が存在する。
‥‥足を狙う水平斬りを、潜って避けるのは無理なのではあるが。
暗い月は、自分も一歩踏み込み、月の剣の切っ先でセツナを穿つ。
腕を伸ばし、滑り込んで来るセツナの前に、切っ先を置く。
斬って、突くだけが剣戟ではない。
剣を置くのだって、立派な剣戟だ。
武器を振らないと、攻撃モーションに入らないと、当たり判定が発生しない。
なんてことはあり得ない。
剣に触れただけでも身は切れるし、刺さる。
暗い月は半身になり、突っ込んで来るセツナに切っ先を見せて牽制する。
横薙ぎを打てば、死ぬ。
そういう牽制。
――セツナが、月の爪を地面から引き抜く。
膝を支点に方向転換。
膝行と呼ばれる、膝を使った歩法を用い、暗い月の切っ先を捌き、彼女の横を通り過ぎる。
身を翻しながら、爪を立て、膝裏を切り裂きながら背後に回り込む。
剣の持ち方を変える。
刃の部分の中腹を握り込み、柄の部分を鈍器として扱う。
立ち上がり、柄剣を横に振るう。
鍔を使った打撃攻撃。
重心が柄の部分に偏っている剣を、遠心力を使って振るう。
暗い月は、打撃の攻撃から逃れるように、セツナに向き直りつつ後ろに下がる。
セツナが、彼女を追って踏み込む。
踏み込んで、爪の間合いへ。
爪を立てた状態から、逆手状態へ持ち変える。
人指し指に通したリングのおかげで、爪が簡単に逆手持ちとなる。
打撃を振るった遠心力をそのままに、ナイフで首筋を狙う。
暗い月は、胸椎から上を後ろに引っ込めることで、首筋を狙うナイフをやり過ごす。
ナイフは振り抜かず、胸の前に留める。
防御と、攻撃の準備。
互いにナイフの間合い。
剣を振るうには遅すぎる。
暗い月が、爪を伸ばす。
爪を逆手から順手に。
順手のナイフを、左フックを打つ要領で繰り出し、セツナの構えたナイフをすり抜けて首元を狙おうとする。
だが、そのナイフは、途中で動きを止める。
セツナが、暗い月の左脇にナイフを食い込ませたのだ。
この距離、使うならばナイフしかない。
ならば、相手がナイフを振り次第、空いた脇にナイフを滑らせてやればよい。
カランビットナイフは、湾曲した刃のおかげで、相手の腕や脚を取る用途でも使用が可能。
暗い月の左腕を封じた。
柄剣を、短く握り直す。
鍔付近の刃を握り込み、長さの調節。
いまの間合いは、剣の間合いでは無いが、柄剣の間合いではある。
柄頭で、暗い月の腹を殴打。
そのまま、柄頭に体重を掛けながら、前へと歩く。
柄頭が、暗い月の腹に食い込んでいく。
痛みから逃げるように、暗い月が後ろに下がる。
その逃げようとする足を、セツナは踏みつける。
暗い月が、後ろへバランスを崩す。
左脇に刺したナイフで、倒れる彼女を引っ張って引き付ける。
柄頭の一撃、二撃。
固い柄頭で、顔面を殴打していく。
彼女も、やられっぱなしではない。
ロングソードの刃を、素手で握り込む。
白く美しい手のひらを、剣が切り裂いていく。
構わず刃を短く握り込み、セツナの腹に刺した。
今度は暗い月がセツナの足を踏み、彼が柄剣を振れないように身体を密着させ、腹に刺し傷を増やしていく。
セツナは、左脇に刺したナイフを使い、彼女を引き剥がそうとするが上手くいかない。
執拗なまでに、暗い月は恋人同士の距離を保ち、腹を穿っていく。
――やむを得ない。
脇からナイフを引き抜く。
ヌラリと赤光りするナイフを、腹へ。
ヘソの辺りを刺して、それを――、上に持ち上げる。
ナイフは、縦一直線に、腹を捌いていく。
捌いていって、胸骨 (胸の中心にある骨)によって止められる。
持ち上げる。持ち上がる。
魔力で強化された肉体が、女性の身体を片手で持ち上げる。
暗い月の足が、地面から離れた。
狂気のナイフが、セツナの腕に浅い傷を作る。
腹を裂かれ、持ち上げられても、狂気は止まらない。
暗い月が剣を振り上げ、振り下ろす。
それに対して、セツナは左腕の力を緩める。
彼女を持ち上げている、左腕の力。
ふわりと、身体が下に落ちて――、また素早く上に戻って来る。
ナイフの嚙みなおし。
暗い月の体重を使い、より深く、刃を通す。
暗い月の動きが止まる。
口から、大量の赤い液体を吐き出した。
それが、セツナに容赦なくかかる。
‥‥騎士の象徴である剣を手にしたのに、やっていることは相変わらず、泥臭い近接戦闘。
2人に握られた剣は、まともな用途で使用さえされず、華々しさの欠片も無い。
月の女神は、相手を映す鏡。
つまり、この泥臭さこそが、セツナの本性なのであろう。
腹からナイフを抜く。
腹を捌かれて、やっと大人しくなった暗い月の足が、地に着く。
身体の損傷により足がもつれており、反撃の気配は無い。
セツナは、柄剣に遠心力を溜める。
切っ先を握り、肩を支点に縦に、振り回す。
1回転、2回転させて、暗い月の脳天を鍔でカチ割るべく攻撃。
‥‥‥‥。
暗い月は、今宵で最も暗い笑みを、口元に浮かべた。
彼女の腹が裂ける。
黒い泥をまき散らしながら、腹の中から、腹の底から、泥の触手が何本も伸びて来る。
触手は、セツナの右腕を絡め取る。
生暖かく、ハチミツ牛乳のように甘ったるい香りの触手。
それらが、セツナの腕を、剣もまとめて暗い月の腹へと引き摺り込む。
(‥‥化け物が‥‥‥‥ッ!)
暗い月をナイフで滅多刺しにするも、触手を切り払うも、大した効果は得られない。
そうこうしているうちに、セツナの右腕は肩まで女神の腹に食われてしまう。
AGを2本消費。
ナイフから、銀色の光が溢れる。
セツナの横に、新月の女神の幻影が現れる。
‥‥それは、暗い月の機嫌を逆撫でする、最悪の選択肢。
女神の口から、瞳から、笑みが消えた。
次の瞬間には、般若の形相でセツナを睨む。
暗い月は、持っているナイフを捨てる。
空いた左手で、触手に飲まれるセツナを掴み上げる。
ブチブチと、肉の繊維が切れるような音がして、触手は千切られる。
掴み上げたセツナを、投げ飛ばす。
そして、暗い月は新月に襲い掛かる。
新月に膝蹴りをかまし、長い髪を掴んで地面に押し倒し、剣を突き立てていく。
何度も、何度も。
執拗に、身体の至る所を突き刺し、幻影を殺した。
新月が消えると、彼女に再び、暗い笑顔が戻る。
新月を殺した剣が、大剣へと変わる。
――新月を呼ぶとは。
――よりにもよってッッ!! あの女を呼ぶとはッ!
‥‥仕置きが必要だ。
神と戦士、女と男。
狂気の死合いたる逢瀬に、よりにもよってあの女の呼んだことに、暗い月は立腹。
腹の蟲は居所が悪くなったのか、彼女腹の中へすごすごと帰って居なくなっている。
大剣を振るう。
凡百ではまともに扱えない大剣を、軽々と振るい、そこから銀の刃が伸びていく。
横に伸びる銀の三日月を、セツナは屈んで避ける。
足に炎を纏い、前へと駆けだす。
剣は、女神の腹に飲まれてしまった。
残された片割れのナイフを頼りに、距離を詰める。
暗い月は飛び上がり、回転しながら落ちてくる。
大剣が地べたを震わせると、そこから銀の魔力が溢れ出す。
その魔力は、周辺一帯へと広がり、月焼けによって尽くを焼いていく。
セツナも、魔力の奔流の犠牲になった。
まるで、月が地表に落ちて来たような一撃。
道路の車は炎上し、ビルの窓が割れ、溶けていく。
セツナの体力が、底を尽き始める。
暗い月は畳み掛ける。
大剣は使わず、彼を嬲るように、徒手で打ちのめしていく。
手始めに、三半規管と聴覚の一部を奪った。
セツナの耳に平手打ちをして、耳の機能を奪う。
怯んだ瞬間を狙い、目を潰す。
その次は、喉。
そして、金的。
勢いよく、急所を脚で蹴り上げた。
倒れ伏したセツナを片手で掴み上げる。
そして、潰した目を直してやる。
――残念だ。
――新月さえ呼ばなければ、もっと別の運命もあっただろうに。
大剣が、セツナの胸を貫いた。
深く、致命的なほどに、セツナの胸は、剣の根元までくわえる。
当然、体力は底をつく。
身体の力が抜けていく彼の頬に、女神は口づけをする。
セツナは崩れ、へたり込み――、そのまま下を向いて動かなくなった。
彼の耳元では、届くはずのない、アリサからの通信。
「そんな‥‥。セツナさん!? ――セツナさん!!
‥‥‥‥。」
暗い月は、背を向けて歩き出す。
そろそろ、生かしておいたオモチャが食べ頃だ。
木っ端の絶望など、淡くて腹が膨れぬ。
優秀で、聡明で、美しく、健気で――。
そのような者の絶望こそ、濃い味がする。
最期まで足掻くもよし、狂気に耐えられず、壊れるもよし。
なにせ、夜は永いのだ。
存分に、愉しむと良い。
‥‥‥‥。
‥‥。
◆
‥‥発作が起きる。
心臓の上を、蛇が這いまわるような、ナイフの切っ先で引っ掛かれるような。
血が沸騰するように、血が泡立ち気泡立つような。
セツナの瞳が、赤く光る。
体力は底をついているのに、意識が目覚める、身体が動く。
ゆっくりと、大剣を掴み、引き抜いていく。
水っぽい音と、硬い音を小さくさせながら、胸に生えた剣を引き抜く。
剣を肩に担ぎ、幽鬼のように、音も無くふらふらと立ち上がる。
悠長に背を向けて歩く、暗い月を視界に捉える。
歩き出す。
歩き出し、進み、走り出す。
足音に気付いた暗い月が振り返る。
振り返った面を、左の拳で打ち抜いた。
暗い月が嗤う。
壊れないオモチャに、歓喜し、身を震わせる。
拳を受けても、女神は吹き飛ばない。
腰を反るばかりで、その場に留まっている。
‥‥なら死ね。
頭の中で、自己ならざる声が響く。
人類に魔力を与え、寄生する侵略者の声。
脳にへばりつく声を振り払うように、担いでいた大剣を振り下ろす。
人間の外、人外の膂力が、女神の寵愛も無しに大剣を軽々振り回す。
ガバリと暗い月の上体が起きて、歓喜の表情をセツナに見せつける。
大剣が、肩に刺さり食い込む。
重い一撃に、膝をつく。
気にせずに立ち上がり、暗い月はセツナの顔を殴る。
そのついで、彼から大剣を奪い、それをバットでも振るかのように腹へ打ち込む。
まともな人間であれば、上半身と下半身が両断される一撃。
しかし、まともな状態でないセツナは、それを、たたらを踏むだけで堪える。
すかさず、フルスイングをして隙だらけの暗い月に殴り掛かる。
大振りの、技術も何も、へったくれも無い、テレフォンパンチ。
暗い月は、その攻撃を避けない。
避けようともしない。
互いに不死同士。
不死らしく戦おうとする。
テレフォンパンチが顔に命中し、大剣を落として吹っ飛ぶ。
セツナが大剣を拾い、暗い月の元へ。
いま、彼が生き長らえているのは、身体に寄生する侵略者のおかげ。
イバラの悪夢の中で活性化した侵略者が、死体に鞭を打ち、鼓動の止まった身体を動かしている。
身体は、闘争本能によってのみ、拍動する。
戦いを拒めば、たちまち彼らに意識を奪われ、異形へと成り果てる。
まだ、使い道があるから、彼は生かされている。
地べたに転がる女神に、大剣を突き刺す。
暗い月が、新月にそうしたように、何度も何度も突き刺す。
何度か繰り返すと、暗い月は剣から逃れようと、背中を見せ這いつくばって逃げようとする。
これは、彼女なりの遊び、試し行為。
逃げる女神の脊椎を砕くように、剣が突き刺さる。
そのまま、地面を削りながら大剣を持ち上げる。
背を砕かれた女神も、剣と一緒についてきて、重力で深く剣が刺さっていく。
大剣を力任せに振るう。
遠心力で女神がすっぽ抜け、地面に叩きつけられる。
女神は、満足した表情で立ち上がる。
互いが互いを、壊れないオモチャとして、終わらない夜の中で踊る。
――月の姿が変わる。
彼女の足が、白い蛇の尾へと変わる。
尾を伸ばし、鞭としてしならせて、セツナを打つ。
大剣が、電柱ほどある尾を切り裂く。
尾を失い、暗い月は痛みでのたうち回る。‥‥フリをする。
セツナが踏み込もうとすると、切った尾が動き、セツナを鞭打つ。
太く長い一撃に、セツナの動きが止まる。
蛇の尾が月と消えて、暗い月が接近。
セツナの脇腹に指を捻じ込み、中身を握り、引っ張り出す。
彼の身体から、致死量の赤い液体が零れる。
もっとも、死人に致死量など関係ない。
暗い月の腹を蹴り、くの字に折れた身体に大剣を振り下ろす。
暗い月は、左手を大剣にくれてやった。
大剣が、腕を半分ほど切り裂いて、硬い物にあたって止まる。
暗い月による金的。
膝で2回、その後、顎に掌底。
コンビネーションにより、大剣を奪う。
左腕から大剣を引っこ抜いて、上段打ち。
腕で防御しようとするセツナを前に、跳躍。
宙で一回転して、空中上段打ち。
セツナの左腕が完全に切断され、大剣は彼の肩に刺さった。
腕を失い、肩を裂かれようとも、依然、肉体は平気で動く。
いよいよ、痛みにも鈍くなってきて、ショックで動けなくなることも減っていく。
傷など全く気にせず、タックル。
暗い月を突き飛ばし、跳躍後ろ蹴り。
くるりと宙で回る、後ろ蹴りが側頭部に命中して、暗い月の身体を浮かし、錐もみさせながら、ビルの壁へ磔にする。
大剣を落とし、大の字に磔られた暗い月の首元に、何かが投擲される。
それは、先ほど彼女が切り落とした左腕。
セツナがそれを拾い、彼女に向けて投げつけた。
左腕は細い首を掴み、明らかな殺意を持って首を締め上げる。
それだけでなく、抵抗しようとする彼女を持ち上げ、壁に叩きつけていく。
セツナが、左腕に弄ばれる暗い月に、ゆっくりと歩んでいく。
身体が不死であるのならば、何度も挑めば良い。
何度も挑み、神を相手に、一を引ければ (マグレ勝ちのこと)良い。
届く、勝てる。
今の状態なら、神にだって――。
右手に太陽を宿す。
太陽を握りつぶし、掌握する。
そして、繋がっていない左腕で拘束している暗い月に、太陽を叩きつけた。
‥‥‥‥。
‥‥。
「‥‥まったく、見るに堪えないわね。」
小柄で儚い、ワンピース姿の女性。
声の抑揚が無く、表情の起伏すらない、人形のような女性。
セツナの繰り出した右手を、新月の女神が受け止めた。
静かで騒がしい夜に、レイが姿を顕した。




