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chap.9

《九》

 土曜日の朝、藤井君とハナにおはようの挨拶をするとすぐに、花は言った。

「今日の夜ね、おばあちゃんが泊まりにくるの」

 お母さんのお母さんであるおばあちゃんは、電車で一時間半くらいのところに住んでいて、二ヶ月に一度くらい、友達に会うとか、知り合いの個展とか、お気に入りのピアニストのコンサートとかのついでに泊まりにくる。

「だから多分、喧嘩は一時休戦」

「…てことは、まだ喧嘩中なんだ」

「うん。お母さんはほとんど口きいてくれないし、お父さんは、お母さんみたいに怒ってる感じは全然しないんだけど、でもやっぱりいつもみたいには話しかけてこない」

 おばあちゃんが来ることだって、さっきすれ違いざまに

「今日おばあちゃんが来るわよ」

 と、まるで不機嫌な独り言のようにぼそっと言われただけだ。

「そっか…。大丈夫?辛くない?」

 心配そうな藤井君に花はにこりとしてみせた。

「平気。藤井君もハナも琴ちゃんも中村先生もいてくれるから」

 藤井君が勢い込んで頷く。

「そう、僕たちはK-Menだからね」

「なにそれ?」

「X-Menって知らない?うちのお父さんがアメリカにいた時好きだったんだけどね…」

 藤井君が説明してくれる。

「…で、プロフェッサーXの下に集まったメンバーたちだからX-Men。海藤さんの下に集まった僕たちはK-Men」

 なんだか嬉しくて、照れくさくて、くすぐったい。

「それで相談なんだけど、K-Menの新しいメンバー候補に、うちのお父さんとお母さんを挙げたいんだけど…どうかなと思って」

「え」

「昨日、学校から帰ったら、お母さんが『海藤さん、お家で何かあったの?』って訊いてきたんだ。だから『うん、ちょっとね』ってだけ答えたら、『何かあったらいつでも私たちを頼っていいからって海藤さんに伝えて』って。身贔屓みびいきで言うわけじゃないけど、お父さんもお母さんも結構いい人達だと思うし、頼りになると思う。簡単に事情を説明してみたらどうかなと思うんだけど」

 花は迷うことなく頷いた。昨日あんな泣き顔で朝ごはんの時間にお邪魔している。事情を話さないなんて失礼だし、それに藤井君のお父さんとお母さんにだったら知られても構わないと思った。藤井君のお母さんの優しい言葉に胸がじんとした。

「うん、全部話してくれて構わないよ。何かアドバイスとかもらえたらすごく嬉しいし」

 ハナが振り返ってニコニコして、藤井君も嬉しそうに頷いた。

「おっけ。じゃ、僕からちゃんと話しとくよ。あ、そうだ、明日お父さんがケーキ焼くんだけど、よかったら来ない?」

 花は目を丸くした。

「お父さんが?ケーキ焼くの?」

 なぜか、ピンクのフリルのついたエプロンをつけた藤井君のお父さんが頭に浮かんだ。

「そう、お父さんの趣味なんだ。結構おいしいよ。丸一日休みが取れた時しか作らないんだけどね。今回は確か桃のレアチーズケーキって言ってたかな」

「わあ」

 桃のレアチーズケーキ!おいしそう!

 朝ごはん前でお腹が空いていることもあって、花はうっとりくらくらしてしまった。

「じゃあお邪魔させてもらっちゃう。楽しみ!」

「了解。じゃ、明日三時くらいに来て」

 ニコニコしている藤井君を花はつくづく眺めてしまった。

 すごいなあ。こんなに幸せな人もいるんだ。

 妬みの気持ちは全く起こらなかった。ただただ、なんて不思議なんだろうと強く思った。

 親になった人が違うだけで、こんなに違う。

 一緒に暮らしている大人がどんな人かで、こんなにも色々なことが違う。

 不思議だ。


 今日は学校のない土曜日だったけれど、花は四時から五時まで英会話の授業があった。

 先生は、おばあちゃんがイギリスに留学していた時の友達で、おばあちゃんと同い年くらいの日本人のおばあさんだけれど、イギリス人並みに英語がペラペラだ。イギリス人と結婚してずっとイギリスに住んでいたのだけれど、数年前にその人が亡くなったので日本に帰ってきたのだそうだ。

「今日は喜久代さんがいらっしゃるのでしょう?明日一緒に美術館に行くことになってるの。楽しみにしてるって伝えてちょうだいな」

 先生は花を見送る時にっこりしてそう言った。

 家に帰ると、もうおばあちゃんが来ていて、キッチンのカウンターのところに座って、食事の支度をしているお母さんとおしゃべりをしていた。

「まあ、会うたびに綺麗になるわね、花ちゃんは」

 おばあちゃんはいつもそうやってお世辞を言ってくれるので、花はどぎまぎしてしまう。お母さんは花にお世辞や褒め言葉を言ってくれることがほとんどないので、慣れていないのだ。

「どうだかね」

 お母さんが皮肉っぽく言う。

「もー最近憎ったらしくなって大変なのよ」

「そりゃそういう年頃だもの。それに、賢い子っていうのは大抵生意気なものよ」

「どうだか」

 お母さんが渋々といった感じで笑い、花に

「手を洗ってらっしゃい。テーブルの支度を手伝って」

と、普通の——喧嘩している時ではなくいつもの——声で言ったので、花はほっとして手を洗いにいった。

 夕食は和やかに進んだ。途中でお父さんも帰ってきて、少しぎこちなくではあるけれど花とも会話を交わした。お母さんは花と喧嘩することに慣れているから、喧嘩の後また普通に会話をすることにも慣れているけれど、お父さんは今回が初めてだ。花とあまり目を合わさないし、どうしたらいいのか困っているらしいのが花にはよくわかった。おばあちゃん、気づいてるかな、と花はおばあちゃんの様子を窺ったけれど、おばあちゃんは何も気づかないかのようにおしゃべりしていた。

 食後のデザートは、おばあちゃんのお土産のチョコレートケーキだった。袋や箱に大きな星のマークがお店の名前と一緒に印刷されているので、小さい頃から花は「お星様のケーキ」と呼んでいた。光も気に入っているケーキなので、

「オホシサマ!オホシサマ!」

 と声をあげて嬉しそうにしている。おばあちゃんはそんな光をニコニコしながら見ていたけれど、ケーキを切り分けながら、

「今年もまたあのキャンプに行くんでしょ?」

 と言ったので、花は内心ビクッとした。

「もちろんよ。ね、光ちゃん、キャンプに行こうね」

「キャンプ、イク!」

「ねー。行こうねー」

「イコウネ!」

「光ちゃんはキャンプが好きなのね。もう何回目?」

「年長さんの時からだから、今年で四回目ね」

隆一りゅういちさんはまだ行ったことがないんだったかしら?」

「ええ、なかなか休みが取れなくて…」

 おばあちゃんが今度は花を見る。

「花ちゃんは去年初めて行ったのよね?」

「うん」

「今年も行くの?」

 花はテーブルの下でぎゅっと拳を握りしめた。

「行かない」

「なーに言ってるの。もちろん行くわよ。もうとっくに申し込んであるもの」

 お母さんが何を馬鹿なことをと言わんばかりに花の言葉を払いのけた。花は自分に言い聞かせた。落ち着いて。冷静に。穏やかに。

「でも私、今年も行きたいなんて一度も言ってないよ」

 お母さんが憤慨したように目を見開く。

「行きたくないとも言わなかったじゃないの。もう申し込んじゃったわよ!」

「だって、行きたいか訊かれなかったんだもの」

 おばあちゃんがおかしそうに笑った。

「それじゃあしょうがないわよ。花ちゃんに訊かずに申し込んじゃうなんて、あなたも相変わらずおっちょこちょいねえ」

 花の前に切り分けたケーキの載ったお皿を置いてくれながら、おばあちゃんが

「あんまり楽しくなかった?」

 と訊くのを遮るようにして、お母さんが

「ほんとに行かないつもりなの?」

 花を睨みつけるようにして訊いた。

「うん」

「どうして行きたくないの」

「まあまあ、いいじゃないの、そんなこと…」

「どうして行きたくないのかって訊いてるの」

 お母さんの尖った声に遮られたおばあちゃんが、気の毒そうに花を見る。

「だって、あんまり楽しくなかったし…、頭叩かれたし…」

 お母さんが呆れたように言う。

「あれっぽっちのことで!」

「だってすごく痛かったもの。思い切り叩かれたんだよ」

「誰に思い切り叩かれたの?」

 身を乗り出してお父さんが訊くと、花より先にお母さんが答えた。

「真央くんっていう大きい男の子。思い切り叩いちゃうのはしょうがないのよ。力加減が分からないんだか…」

「大きい男の子に思い切り叩かれたの?頭を?」

 更に身を乗り出したお父さんがお母さんを遮る。お母さんが苛々したように答える。

「大したことないわよ。ゲンコツじゃなくて平手だったんだし」

「でもすごく痛かったもの。あんな大きな子に思いきり叩かれたんだよ」

「大袈裟なんだから。そんなことくらいでキャンプに行くのをやめるなんて…。他の子達の兄弟はもっと小さい頃からみーんな毎年楽しく参加してるのに。ちょっと叩かれるくらい、みんな経験してるわよきっと。そんなことくらいでもう行きたくないなんて情けないこと言うのは花ちゃんだけよ」

 そこでお父さんのスマホが鳴った。お父さんが急いで立ち上がる。

「仕事の電話だ。すみません、ちょっと失礼します」

 おばあちゃんに謝って、電話に出ながら足早に部屋を出ていった。

「隆一さん、随分忙しいの?」

「さあね」

 お母さんは素っ気なく言ってから、花をじろりと見た。

「キャンプ、ほんとに行かないの?」

「行かない」

「そ!じゃ、好きにしなさい」

 花はほっと胸を撫で下ろした。お母さんはものすごく不機嫌そうだけれど、とりあえずキャンプの問題はクリアした。怒鳴り合いにもならずに済んだ。まるで奇跡だ。やっぱりお父さんもおばあちゃんもいるからかな。

 安堵のため息をつき、華奢な金色のフォークを手にとって、チョコレートケーキを食べ出す。おいしい。しかしお母さんは怒りが収まらないようで、ケーキを食べながら、 

「この子、陰でこそこそスクールカウンセラーなんかに会ってたのよ」

 と、おばあちゃんに愚痴を言い始めた。

「いいじゃないの。悩みを話せる相手がいるのはいいことよ」

 おばあちゃんが花に微笑みかける。お母さんが顔をしかめる。

「よくないわよ!心理カウンセラーっていうのは、なんでもかんでも母親のせいにするんだから。お母さんにも話したでしょ、桜井さんのところの芹奈せりなちゃんのこと。カウンセリングに行くようになったら、自分の悪いところは棚に上げて、桜井さんのことばっかり責めるようになったのよ。勉強ができないのも、友達ができないのも、自分に自信が持てないのも、ぜーんぶ『お母さんのせいだからね!』って泣いて責められて、桜井さん、ストレスで体調崩しちゃったのよ。カウンセラーなんて!この子だって、こないだいきなり何だかんだと私のことを責め出して…。カウンセラーに何か吹き込まれたんでしょうよ」

「そんなことないよ」

 花は静かに言った。

「芹奈ちゃんのカウンセラーがどうかは知らないけど、中村先生は私に何も吹き込んだりしてない。ただ私の話をちゃんと真剣に聞いてくれただけ」

「ふん、どうだか!」

「本当だよ。お母さんはそうやってすぐ怒り出して、私の話をきちんと聞いてくれないでしょ。そんなんじゃ本当に仲良くはなれないと思う」

「またくだらないことを!」

「ほら、今みたいなのもそう。私は真面目に話し合いたいって思ってるのに、『どうだか』とか『くだらない』とか…」

「くだらないからくだらないって言ってるだけよ!」

「どうしてくだらないの?」

 花は冷静に、でも一生懸命心を込めて言った。

「私は、お母さんとちゃんとした仲良しになりたいって思ってる。でも、お母さんが私のことを見下したり、馬鹿にしたり、暴力振るったり、私のものを勝手に光にあげちゃったり、私の引き出しを勝手に開けたり…」

「黙んなさいっ」

 お母さんがテーブルを叩いて怒鳴り、とっくにケーキを食べ終えて居間のソファでテレビを観始めていた光が、唸って飛び跳ね出した。

 お母さんが花を睨みつける。

「あなたがそんなふうだからね、最近光ちゃんも落ち着かないし、お母さんもお父さんも嫌な気持ちになるのよ。あなたがいるとみんなが嫌な気持ちになる。だいたいね、偉そうにお母さんのことをとやかく批判して、これはやめてほしい、あれはやめてほしいって要求ばかりするけど、自分はどうなの?自分は完璧な子供だとでも思ってるわけ?お母さんのことを批判してあれこれ要求する前に、まずは自分が完璧な子供になったらどうなの?」

 するとおばあちゃんが厳しい声で言った。

「何言ってるの、あなたは。親がいい親であることを要求され、いい親であろうと努力するのは当然のことだけれど、親が子供にいい子であることを要求したり、まして完璧なんてことを要求したりなんて、とんでもないことよ。子供はね、親からいい子であることを要求されたりするべきではないし、親のためにいい子であろうなんて努力する必要はないんですよ」

 お母さんは腹立たしげに鼻から息を吐くと、おばあちゃんを睨みつけた。

「私の子育てに口出ししないで!」

 そして今度は花を睨みつけ、

「カウンセリングなんてもうやめなさい。いいわね!」

「どうして?」

「お母さんがやめなさいって言ってるからですっ」

 いつもだったらとっくに花も怒鳴り返して大喧嘩になっている。でも花は冷静な態度を崩さなかった。

「その理由はおかしいと思う」

「どこがおかしいっていうの!あなたはお母さんに面倒見てもらってるから暮らしていけてるのよ。面倒見てくれてる人の言うことを聞きたくないなら、この家を出ていって一人で暮らしなさい!自分でお金を稼いで、お母さん達に頼らないで生活するなら、自分のしたいようにして構わないわよ!カウンセリングでもなんでも受けなさい!」

 おばあちゃんが呆れたような声を出した。

「そんな無茶苦茶な…」

「お母さんは黙ってて!」

「花ちゃんは小学生なのよ」

「黙っててって言ってるでしょう!」

 花はいきり立っているお母さんを眺めた。

 この人は、どうしてこんなに怒鳴るんだろう。どうして冷静に話し合えないんだろう。

「カウンセリングがどうしてそんなにいけないの」

 できるだけ静かに穏やかに訊いてみたけれど、それが更にお母さんの怒りを煽ったらしい。

「そんな猫撫で声出すのはやめなさい!自分の親のすることにケチつけて、他人と一緒になって親の悪口を言うなんて、そんなことはしちゃいけないことだってどうしてわからないの⁈」

「悪口じゃないよ。相談するだけだよ。お母さんに直接言っても聞いてくれないから、どうしたらいいか他の人に相談したり…、話を聞いてもらったり…、お母さんにどんなことされてるか、他の人に知ってもらうだけでも気持ちが少し楽になるし…」

「被害者ぶるのはやめなさいっ」 

 お母さんの目がギラギラしている。

「『どんなこと()()()()か』⁈何を()()()()っていうの⁈」

「…友達何人かに訊いてみたけど、顔を叩かれて鼻血が出たことのある子なんて私だけだよ」

「それはその子達がみんなあなたと違っていい子だからでしょ!」

「子供を叩くのは法律違反だって知ってる?」

「あなたは親を脅迫するんですかっ」

「美沙子、いい加減にしなさい」

 おばあちゃんが低い声で言った。花に向かって優しく、

「花ちゃん、ちょっとおばあちゃんと散歩に行きましょ」

 と言って立ち上がる。花も立ち上がると、お母さんがフンと鼻を鳴らした。

「へえ、逃げるわけ」

 おばあちゃんが静かに答える。

「あなたは少し頭を冷やしなさい」

「カウンセリングは絶対許さないから」

 玄関に向かおうと歩き出した花の背中をお母さんの声が追いかけてきた。花は振り向いて静かに言った。

「カウンセリングはやめないよ。それに友達とか、友達のお父さんとかお母さんに助けてもらうのもやめない。私にもちゃんと味方はいるんだよ」

 おばあちゃんと一緒にダイニングルームを出たら、そこにお父さんが立っていた。人差し指を唇の前に立てている。三人一緒に靴を履いて玄関を出てから、お父さんが真剣な顔で花に言った。

「お父さんも一緒に散歩に行っていいかな。花の話をちゃんと聞きたいんだ」


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