chap.6
《六》
楽しかった散歩から帰ってくると、ちょうどお父さんが出かけるところで、玄関で靴を履いていた。
「おかえり。どこまで行ってきたの」
「公園。明日はね、もう少し早く、五時半に行くことにした」
すぐ隣のキッチンにいるであろうお母さんにも聞こえるように、少し大きな声で言ってみたら、案の定、お母さんが顔を出した。
「五時半?なんでそんな早く行くの」
「だってこれくらいの時間だともう結構暑いんだもの。ハナもハアハア言っちゃって暑そうだった」
「ハナ?ハナっていう名前なの?」
お母さんが驚いたように言って、お父さんが楽しそうに笑った。
「へえー、いいね!同じ名前か。仲良くなれるんじゃない」
「うん、もうすっごい仲良し!」
お父さんの言葉が嬉しくて、弾むようにそう言ったら、お母さんが顔をしかめた。
「なんだかいやねえ、犬と同じ名前なんて。クラスメイトと同じ名前を犬につけるなんて、失礼しちゃうわね」
花は心底ムッとした。
「藤井君が名前つけたわけじゃないよ。前の飼い主がつけたんだもん」
前の飼い主がハナコと名前をつけていたので、突然まるっきり違う名前をつけてハナが混乱しないように、ハナと呼ぶことにしたのだと、藤井君が話してくれた。
「それにハナってとってもお利口さんだし、かわいいし、大好きだもん。おんなじ名前ですっごく嬉しい」
力を入れて言うと、お母さんが腹立たしげに、
「はいはい、そうですか!」
と言ったので、花はちょっと身構えた。喧嘩の前兆だ。戦闘準備開始。
するとお父さんが苦笑して、
「ほら、二人とも喧嘩しない。じゃ、行ってきまーす」
と明るく言ったので、花とお母さんが
「行ってらっしゃーい」
と声を揃えて言い、その場は一応収まった。
学校への道を三分の一くらい歩いたところに琴音の家がある。いつものようにピンポーンとインターフォンを押すと、すぐに琴音が現れた。
「おはよう」
「おはよう」
笑顔で挨拶を交わし歩き出すとすぐに、琴音が言った。
「井口さん一緒じゃないんだ?」
花はどきっとした。
「茉莉奈ちゃん?」
「うん。昨日一緒に帰ったんだけど、これから朝も一緒に行こうかなあって言ってたから」
「…そうなんだ」
「うん、でも朝は文章書く練習してから出ることにしてるから、花ちゃんが家を出る時間には間に合わないかも、とも言ってた」
さばさば言って、琴音は肩をすくめた。
「…そっか」
琴音がそれ以上何も言わないので、花も何も訊かずにおいた。いつものように、学校の話だのバスケの話だのピアノの話だの食べ物の話だのをしながら、学校まで歩いた。昇降口で靴を履き替え、階段を上っている時、琴音が言った。
「あ、そうだ。今日、放課後にバスケのミーティングがあるから、先帰って。ごめんね」
「了解」
答えながら、花は心のどこかが不安になるのを感じた。
本当にバスケのミーティングなのかな。
もしかして茉莉奈ちゃんと二人だけで帰ろうって約束したとか…。
そこまで考えて、心の中で断固として首を横に振る。
琴ちゃんは、そんな人じゃない。
琴音と別れて教室に入ると、ちょうど数人の男子達と一緒に教室を出ようとしていた藤井君と目が合った。
すれ違いながら、他の人にわからないくらい小さくにこりと頷きあう。
琴音と茉莉奈のことでなんだか薄暗くなっていた気持ちが、ふわっと明るくなる。
ニコニコ顔のハナを思い浮かべて、花は微笑んだ。
ハナ、今頃どうしてるかな。
朝ごはん食べた後で、満腹でウトウトしてるかな。
それとも藤井君のお母さんとおしゃべりしてるかな。
今朝、花の家の前で別れた時、ハナはなかなか歩き出したがらず、藤井君に引っ張られるようにして、何度も何度も花の方を振り返りつつ帰っていった。花もそこに立ち尽くしてずっとハナと藤井君を見送っていた。
早く会いたいな。今日なんてさっさと終わって、早く明日の朝になってくれればいいのに。
中休みの始まりに、教室を出ようとしていた高橋先生が戸口のところで花を呼んだ。
「海藤さん、ちょっと」
「はい」
もしかして作文のことだろうか、と思いながら、花は急いで先生のところへ行った。廊下に出た先生は、教室から離れ、少し廊下を歩いて人のあまりいない窓際まで行くと、花のほうを振り返り、声をひそめて言った。
「作文、読ませてもらいました」
「…はい」
やっぱり。
先生は真剣な顔をして花をじっと見つめた。
「それで…スクールカウンセラーの中村先生と話をしてみたらどうかと思うんだけど、どうかしら」
「え…」
花が怯むと、先生は安心させるように微笑んでみせた。
「大袈裟に考えなくていいのよ。もしかして話してみたら海藤さんの気持ちが楽になるかもしれないし、なにか改善する方法が見つかるかもしれないから、話してみたらいいんじゃないかしら、と思って提案しているだけです」
花は、先生も「改善」という言葉を使ったのに気がついてちょっと驚いた。
「はい…」
「もしよかったら面接の予約も取れるけど。ちょうど明日の木曜日が中村先生のいらっしゃる日だから」
花は困った。
どうしよう。
藤井君はああ言ってたけど、でもなんだかやっぱり、家の中の問題を見ず知らずの大人の前であれこれ話すなんて、恥ずかしいような、みっともないことみたいな気がする。英会話の先生のところで習った言い回しにも、そういうのがあったっけ。Do not wash your dirty linen in public.汚れ物を人目のあるところで洗わない。
それに、自分が、普通のお母さん達とは違う、ジャイアンみたいなお母さんに、暴力を振るわれている気の毒な子だなんて、あまり人には知られたくないような気がした。藤井君に話してしまったことだって、実は少し後悔している。
どう言って断れば失礼にならないだろう、と言葉を探していると、先生が柔らかい口調で、
「今決めなくてもいいのよ。明日じゃなくて来週の木曜日でもいいんだし、ゆっくり考えて、答えが出たらいつでもいいので教えてください」
と言ってくれたので、花はホッとして、
「はい」
と頷いた。失礼にならないような断りの言葉をきちんと考えて、うまく言えるように練習してから断ろう。
教室に戻る途中で隣のクラスの前を通りかかると、廊下の近くの席でちょうど顔を上げた琴音と目が合った。琴音がニコッと笑って手招きしたので、花は嬉しくなっていそいそと琴音の席へ行った。たまにこうしてお互いのクラスを訪ねあうけれど、今日は茉莉奈と琴音のことを心配していたこともあって、特別嬉しかった。
「花ちゃん、三時間目、何?」
「算数。琴ちゃんは?」
「国語。やだなあ、音読当たりそうなんだ」
琴音は昔から音読が嫌いだ。特にセリフを読まされるのが大嫌いで、恥ずかしくて虫唾が走ると言っていた。
「もしかして『人魚の歌』?」
「そうなんだよー」
琴音がまるでこの世の終わりが来たかのように言って、花は同情しながらもくすくす笑ってしまった。
『人魚の歌』は、ちょっと人魚姫に似ているお話で、漁師に恋してしまった人魚の切ない気持ちをあれこれ書いてある。確かに、音読するのはちょっと恥ずかしい。人魚が自分の気持ちを独白するところなどを、男子が読まされることになってしまうと、まことに気の毒だ。
「なんであんな話を教科書に載せたりするんだろう。ほんっとに世の中バカな大人ばっかりで嫌になるよ」
憮然として琴音の言った言葉でふと思いついて、花は思い切って訊いてみた。
「ねえ琴ちゃん、お母さんと喧嘩することってある?」
ピアノ教室が同じだったし、一年生の頃から毎日家に寄っているのだから、もちろん花は琴音のお母さんに何度も会ったことがある。駅前のビルにあるフラワーアレンジメント教室の先生だ。ピアノの発表会の時ステージに飾られるお花も、最後に先生に贈呈する花束も、琴音のお母さんがアレンジしている。ほっそりして大人しそうな、艶のある長い黒髪をいつも色々違うスタイルで綺麗にまとめている人で、いつだったかの発表会の終わった後で、お母さんがまとめ方を教わっていた。
「そりゃああるよ。ガミガミ怒ってすごいんだもん、あのオバサン。もちろんこっちだって反撃させてもらう」
琴音が言って、花はちょっと意外に思った。あの大人しそうなお母さんでも、やっぱり怒ったりするんだ。
「ガミガミなんて怒りそうにない感じだけど」
「怒る怒る。今日だってお知らせのプリント渡すのが遅いって怒ってさ。『こういうものはもらってきた日のうちに渡してって言ってるでしょ!』だって。そんなこと言ったって、忘れちゃったもんはしょうがないじゃん。なんでもう済んじゃったことにあんなガミガミ言うんだか」
「…お母さんに叩かれたこととかある?」
琴音はえっと驚いた顔をして、
「…それはさすがにないけど」
と言って、不思議そうに花を見たので、花は慌てて、
「親戚の子の友達の話なんだけどね、お母さんと喧嘩して、お母さんに顔叩かれて鼻血が出ちゃったんだって」
「ええーひどいねそれは」
「なになに、どうしたのー?」
花とも同じクラスになったことのある小山さんと向井さんが会話に加わってきた。
「親が子供と喧嘩して、子供の顔を叩いて鼻血出させちゃった話」
琴音がさばさば言って、二人が眉をひそめ声を上げる。
「わーかわいそう」
「ひどーい」
花は平静を装いながら、
「ねーひどいよね。ね、親に叩かれたこととかある?」
「ないない」
「私はあるよ。小さい頃だけど。妹とおもちゃの取り合いして喧嘩になって、私が妹のことぶって泣かせちゃったら、お母さんにペシッて手を叩かれたの」
「ああ、まあそれくらいだったら私も何度かあるよ」
琴音が言うと、琴音の隣の席の男子が、
「子供に対する体罰って、法律違反なんだよ。知ってた?」
と身を乗り出してきた。
花はびっくりした。琴音がのんびりした口調で応じる。
「へえーそうなんだ。知らなかった」
「じゃあさ、親に叩かれたりとかして警察呼んだら、警察来てくれるの?」
向井さんが言うと、男子はうーんと首を傾げた。
「…どうかな。そこまではわかんないけど」
「でも法律違反なんだったら、来てくれるんじゃない?」
「そうなのかなあ。お尻叩かれたくらいでも?」
みんなのおしゃべりを聞きながら、花は考えていた。
お母さんは、体罰が法律違反だって知ってるのかな…。
四時間目の国語の時間の最初に先生が、
「国語の授業を始める前に、ちょっといいですか」
と話し始めたのでそちらを見た花は、どきりとした。先生が手に空色のノートを一冊持っている。作文ノートだ。作文ノートはクラス全員が同じものを使っているので、ここから見ると誰のものかはわからない。
「昨日書いてもらった作文から、ちょっと読ませてもらおうと思います。今、そのことについて、皆さんに意見を言ってもらおうというのではありませんが、皆さんがそれぞれの胸の中で、少し考えてみてくれたらいいなと思います。本人の希望で、名前は伏せます」
先生は小さく咳払いして、教卓の上にノートを広げ、読み始めた。
「今回は自由テーマということなので、新しい家族のことについて書こうと思います。二本脚ではなく四本脚の家族です。目と鼻が真っ黒で、垂れ耳で、全身がミルクティー色をしています(父は生焼けクッキー色と言っていますが、僕には牛乳をたっぷり入れたミルクティーの色に見えます)。…」
それは藤井君の作文だった。花はほっとして、藤井君の綴った言葉に耳を傾けた。ハナのことがユーモラスに書いてあり、花はハナの笑顔を思い浮かべながら、幸せな気持ちで聴いていた。藤井君、やっぱり作文上手だなあ。
途中から、作文は、どうしてハナが藤井君の家に来ることになったかという話になった。それまで微笑みやくすくす笑いでいっぱいだったクラスの雰囲気が、急に緊張した真面目なものになった。
藤井君は、作文の最後の方でこんなことを書いていた。
「ハナの場合は、たまたま近所に保護団体の人が住んでいて、その人が何かおかしいなと気づき、注意して見ていて、思い切って飼い主に声をかけたので、助けることができました。でも、世の中には、助けが必要なのに、誰にも気づいてもらえず、辛い思いをしている犬がたくさんいると思います。こんなに人がたくさんいる世の中なので、周りがみんなで注意して見ていれば、辛い目にあっている犬に気づくのは結構簡単だと思うし、助けてあげられるはずです。人の家の犬だからと遠慮したりしないで、思い切って飼い主に声をかけてみることも大切だと思います。見ているだけでは助けられません。僕もこれからもっと注意して周りを見るようにして、思い切って行動できる人間になりたいと思っています。少しでも、辛い思いをしている犬たちを減らせるようになりたいです。」
先生が作文を読み終わって、国語の授業が始まった後も、花は藤井君の作文のことを考えていた。
どうして藤井君がお母さんとのことを色々心配してくれて、アドバイスをくれるのか、わかったような気がした。
きっと藤井君は、私を助けようとしてくれてるんだ。保護団体の人がハナを助けたように。
同情してくれているのはわかっていたし、話を聞いてくれて色々アドバイスしてくれるのをありがたいなと思いつつも、ちょっと心配しすぎだなと、藤井君に話したことを少しだけ後悔するような気持ちもあった。でも、今はもうそんなふうに思わなかった。
藤井君は、真剣に、私を助けてくれようとしている。
授業が終わるや否や、花はまっすぐ教卓の先生のところに行った。
「先生、」
ざわざわしている教室の騒音に紛れるように、そっと、でもはっきりと言う。
「スクールカウンセラーに会ってみます。よろしくお願いします」
先生は微笑んでしっかりと頷いてくれた。
「わかりました。すぐ連絡をとってみます」
ようやく藤井君と二人で話せるチャンスがやってきたのは、清掃の時間だった。関口君と森田さんが、プロ野球の選手のことで何やら言い合いをしているのを聞きながら、小さい声で、
「あのね、スクールカウンセラーに会ってみることにした」
と言ったら、藤井君は嬉しそうな顔をして頷いた。
「そっか、よかった。いつ?」
「まだわからないけど、多分明日。先生が連絡とってみてくれるって」
「そう。恥ずかしがったりしないで、全部ちゃんと話すといいと思うよ」
「うん。そうする」
花は素直に頷いた。前だったら「また心配しすぎ」と、少し心の中で眉をひそめたかもしれない。でも今は、温かい気持ちになる。ありがたいな、と思う。
「今日も家寄ってく?」
藤井くんがさらっと誘ってくれて、花は嬉しくて思い切り頬がゆるんでしまった。
「うん!」
藤井君がにこりとする。
「ハナが喜ぶよ。今朝海藤さんと別れて家に帰った後、なんだかしょんぼりしちゃってさ。せっかくまた会えたのにまたお別れ、って思ったんだろうね」
そんなことを聞くと胸の奥がきゅうっとなる。しょんぼりしているハナが目に見えるようだ。今すぐにでも会いに飛んでいきたい。
「今日これから会えて、明日の朝もまた会えたら、ハナも私とはしょっちゅう会えるんだから別れても大丈夫ってわかるよね、きっと」
勢い込んで言うと、藤井君も頷いた。
「うん、そうだと思う。そうすればもう悲しくならなくてすむよね」
二人で頷き合って微笑む。ハナに悲しくなんかなってほしくない。いつもニコニコ幸せでいてほしい。
清掃の後で教室に戻り、昨日のようにランドセルを背負って二人一緒に教室を出ようとしたところで、後ろから茉莉奈に声をかけられた。
「あれー花ちゃん、今日も先に帰っちゃうのぉ?」
「う、うん。用事があるから」
「ふうん、わかった。琴ちゃんには私から言っといてあげるから帰っていいよ。バイバーイ」
こちらを早く追い払おうとするような茉莉奈の言い方にカチンときたけれど、花は笑顔を作って手を振り返し、教室を後にした。
茉莉奈ちゃん、琴ちゃんがバスケのミーティングだって知らないのかな。それともやっぱりミーティングなんて嘘?…ううん、琴ちゃんはそんな人じゃない。絶対に。
階段を降りながら、藤井君がちょっと不思議そうな顔で花に訊いた。
「海藤さん、井口さんと仲いいの?」
花はちょっと困った。
「うーん…、そう、でもない…かな」
どうも藤井君には本当のことを話す癖がついてしまったようだ。
藤井君は納得したように頷いた。
「そうだよね」
「どうして?」
「えっ。いや、えーと…」
今度は藤井君がちょっと困った顔をした。
「その…噂で色々聞いたことあるっていうか…」
申し訳なさそうに言って、小さく頭を下げる。
「…ごめん。変なこと言って」
「ううん、別に大丈夫。私も色々聞いたことあるから」
目をくるりと回してみせる。
「…私の文章が稚拙だとか、色々」
おどけて言うと、藤井君もちょっと笑った。
「やきもちだよ。作家になりたいのは自分なのに、海藤さんのほうが作文が上手だから、悔しいんだと思うよ」
藤井君が爽やかに言ってくれた途端、花の中で何かが起こった。
ずっとずっと心に刺さっていた毒のある小さな棘がスッと抜けて、傷が跡形もなく消え去ったような、もやもやと垂れこめていた灰色の薄い雲が、爽やかな風に吹き払われて、青い青い空が現れたような感じ。
心がふわりと軽くなって、花はそっと息をついた。
なんだか、世界がきれいになったような気がした。
昇降口で靴を履き替えていると、後ろから
「あ、よかった。海藤さん」
と声がかかった。高橋先生だった。
「明日の放課後、清掃の時間が終わったらすぐに。それで大丈夫ですか」
藤井君が近くにいるからだろう、ひそひそ声で、それにスクールカウンセラーという言葉を使わなかったけれど、もちろんスクールカウンセラーに会う日時のことに違いない。
「はい」
花が答えると、先生は微笑んで頷いた。
「じゃ、清掃の時間の後、相談室に行ってください。作文ノートは明日の朝返すので、もしそうしたかったら中村先生にも読んでもらって」
先生が行ってしまってから、
「スクールカウンセラーのこと。明日の放課後だって」
と藤井君に囁くと、藤井君はにこりとして頷いた。
「よかったね。善は急げ、だよ」
グレイの濃淡が綺麗な曇り空の下を藤井君の家の門の前まで来ると、ハナが向こう側から門の格子に顔を押し付けるようにして、尻尾をブンブン振り回して待っていた。
「あれ、外にいる。お父さんかな」
「お父さん?」
「うん、今日当直明けで家にいる日なんだ。ハナ、待てだよ」
藤井君がそう言いながら注意深くそうっと門を細目に開けて、花を先に通し、自分も入ってから後ろ手に閉めた。
身体をくねらせて大喜びしているハナの前に屈んで、自分の家ではないけれど、
「ただいま、ハナ!」
と言ってみたら、花の心の奥が嬉しくてじぃんとした。
おかえり、おかえり!
ハナがぐいぐい顔を押し付けてくるので、バランスを崩してガシャーンと門にぶつかってしまった。
「こらハナ!海藤さん大丈夫?」
「平気平気」
「おー、おかえり」
ベンチの方から少し眠そうな声がして、男の人が立ち上がった。
「ああ、ついうとうとしちゃった。おや、いらっしゃい」
花を見てにこりとする。優しそうな目元が藤井君と似ている。
「こんにちは」
「もしかして噂の海藤花ちゃん?」
噂の?
「は、はい」
「藤井健です。初めまして。いつも優輝がお世話になってます」
「えっ、いえ、あの、こちらこそ」
差し出された大きな手と握手した。
「幸せだね、優輝。美人の花ちゃんと可愛いハナ。こういうのを両手に花という」
「なんだそりゃ」
藤井君がちょっと照れたように笑った。
その日は居間で、藤井君のお父さんも一緒におしゃべりして楽しく過ごした。花は最初ちょっと緊張したけれど、藤井君のお父さんが色々な話をしてくれるのを夢中になって聴くうちに——若い頃アメリカの病院で研究していた時の話が特におもしろかった——、すっかり打ち解けて、楽しくおしゃべりできるようになった。ハナはずっと花にぴったりくっついていて、藤井君のお父さんに甘えん坊とからかわれていた。
途中で藤井君のお母さんがパートの仕事から帰ってきて、みんなでお母さんが買ってきてくれたケーキを食べた。藤井君のお父さんが連絡していたのか、ケーキはちゃんと四人分あって、花は、大好きな苺のショートケーキを幸せな気持ちで味わった。家でショートケーキを食べると、上に載っている苺は光にあげなくてはならない。白いふわふわのクリームの上に宝物のように載った真っ赤な苺が自分のものになるのは、特別な気分だった。
帰りは「紳士たるもの、淑女を家まで送っていくのは当然であーる」とお父さんに言われた藤井君が、今にも太った雨粒の落ちてきそうな曇り空の下を、ハナと一緒に花を送ってきてくれた。
「お母さんにスクールカウンセラーに会うこと話す?」
訊かれて花は断固として首を横に振った。
「ううん。お母さんてね、カウンセラーが嫌いなの。お母さんの高校時代の友達の娘さんが何年か前、中学生だった時に不登校になったのね。それでカウンセラーに会うようになったら、その子が母親のことを責めるようになったんだって。その友達と電話で話した後、お母さん、『心理学ってなんでも母親のせいにするんだから!』って怒ってた。『心のケアとかなんとか言って子供を甘やかすから、現代の子供たちは弱っちいのよ』とも言ってたし」
「そっか…。じゃ、言わないほうがいいね。先生とかカウンセラーにも、お母さんに連絡しないでって言っておくほうがいいんじゃない?」
「うん、そのつもり」
「アリバイは?また家に来てたってことにしておく?」
「いいの?」
「もちろん」
アリバイだなんて、なんだかドキドキしてしまう。
「あ、でももしお母さんが本当に藤井君のお家に電話しちゃったらどうしよう。『うちの花がお邪魔してませんか』って。それか、もしかしてお家まで探しに来ちゃったりとか」
ドキドキついでに、ついあれこれ想像してしまう。藤井君も宙を見上げてうーんと唸った。
「連日だもんね。確かに、何か怪しいと思って家に来たりってことはあるかも。じゃあ、明日の午後は僕は絶対に電話に出ないことにする。で、うちのお母さんにも話しておいて、もし海藤さんのお母さんから電話があったら、『二人でどこかに出かけました』って言ってもらうことにするっていうのはどうだろう?」
「なるほど!それいいね!」
よし、と二人で頷き合いながら、花の心の奥はちくりと痛んだ。
こんなふうに、お母さんを敵みたいに考えて策略を練ったりするのは、なんだか悲しかった。