chap.5
《五》
「遅かったじゃないの。どこ行ってたの」
玄関でただいまーと言ってそのまま階段のほうに行きかけたら、キッチンからお母さんの声がかかった。昨日喧嘩したばかりだし、朝食の時も素っ気ない受け答えしかしてくれなかったので、普通に話せるかどうか危ぶみながら、ランドセルを階段のところに置いて、キッチンへ行く。
「藤井君のお家。わんちゃんに会わせてもらったの」
お母さんは、ちょっと目を見開いて、
「ああ、あの作文の上手な子?」
普通の、わだかまりのかけらもない口調で言ったので、花はほっとしながらもびっくりした。藤井君が作文上手だってお母さんに話したっけ?
するとお母さんが、
「『たけのこ』に花ちゃんと一緒に載った子でしょ?」
と続けたので、なるほどと花は頷いた。『たけのこ』というのは区の小学生の文芸冊子のことだ。
そうか、それで藤井君のお母さんも私の名前知ってたのかな。
「そう」
「何犬?」
「イエローラブ」
「あらーいいわねえ」
お母さんは犬嫌いではない。お母さんのアルバムには、大きなシェパードと仲よさそうにくっついて写っている、子供時代のお母さんの写真がたくさんある。それを見るたびに花はため息が出てしまう。羨ましい。
「でも犬はねえ、かわいいんだけど、別れが辛すぎるからだめよ」
まただ、と花は心の中で憮然とした。
犬の話になると、お母さんは二言目にはそう言う。
いつもはただ「ふうん」と聞き流していた花が、ある日、
「でも人間だって死ぬじゃない。なのに人間とは一緒に暮らして、犬とは別れが辛いから一緒に暮らさないなんて、犬との別れのほうが人間との別れよりも辛いってこと?」
と言ったら、見る見るお母さんの機嫌が悪くなり、
「どうして花ちゃんは、そういうくだらない、馬鹿みたいなこと言うのかしらね、まったく!」
その言葉に納得できなかった花が、
「どこがどうくだらなくて馬鹿みたいなの?ちゃんと説明してよ」
と食い下がって大喧嘩になった。あの時、激しいやり取りの挙げ句に花が、
「私の質問にちゃんと答えられないから『くだらない』とか言って逃げてるだけじゃない!」
と言ったら、バシンと顔を叩かれて鼻血が出たのだ。
「それに、光ちゃんは犬嫌だもんね?」
続けてお母さんが言うと、ソファに座ってじっとテレビを観ていた光が、その言葉に反応してパッとこっちを見た。警戒した顔でお母さんをじっと見る。
「イヌ!イヤ!」
「そう、光ちゃんは犬嫌よねー」
「イヌ!ナイナイ!」
「うん、大丈夫よ。犬ないないよー。大丈夫」
「イヌ!ナイナイ!」
「うん、ないない」
お母さんが安心させるようににっこりしてみせると、光は数秒間確かめるようにお母さんの顔をじっと見てから、テレビに戻った。
今なら言っても大丈夫そうだな。
そう思って、花はさりげない調子で、
「あのね、明日から毎朝、藤井君とわんちゃんの散歩に行くことにした」
と言ってから、慌てて、
「行ってもいい?」
と付け加えた。
お母さんは、ええー?というように眉をちょっとしかめた。
「朝六時に家を出るんだって。六時五分くらいに家の前通るから、その時間に門のところで待ってて、それで一時間くらい一緒に歩いて戻ってくるの」
「…いいけど…」
お母さんが、何か反対する理由はないかと考えているように見えて、花はどきどきした。
「子犬?」
「ううん。二歳だって」
「藤井君だけなの?お父さんかお母さんは一緒に行かないの?」
「藤井君だけだと思うけど」
そう答えてから花はしまったと思った。案の定お母さんは難しい顔になった。
「大丈夫なの?ラブは力強いわよ。いうこと聞かない子だと大変よ」
「大丈夫だよ。とってもいい子だもん。今日もね、藤井君のお母さんがおやつあげた時、言われなくてもちゃんと『待て』して、よし!って言われるまで食べなかったの」
「ふうん…。じゃあまあいいけど」
やった!と花は躍り上がりたい気持ちだった。お母さんが釘を刺す。
「でも気をつけなさいよ。花ちゃんは犬の扱いに慣れてないんだから、リード持ったりしちゃだめよ」
「はあい」
その晩、ベッドに入った花は、薄暗い中ぼんやりと浮かぶ天井の木目を眺めながら、長いため息をついた。
なんだかいろんなことがあった日だったな。
ハナのニコニコ顔が頭いっぱいに浮かんで、頬が自然に緩む。嬉しい気持ちが身体中を満たして、花はもう一度大きく息をついて目を閉じた。すぐに金色の小舟が滑るようにやってきて、ぼんやりと柔らかな黄金色の光の中を、花を乗せて眠りの国の門へと漂い出す。
まどろみながら、花は藤井君のことを考えた。
藤井君とは一、二、五、六年とクラスが一緒だ。去年一緒に学級委員をやった。真面目で、穏やかで、しっかりしている。成績もいい。授業中にはいはい手を上げて目立つ発言をするタイプではないけれど、当てられればいつも正解。クラスの男子たちは大抵「俺」と言うけれど、藤井君は「僕」と言う。マイペースな感じだ。
今日藤井君の家に行って、花はなんだか納得した。うまく言葉にできないけれど、藤井君とあのお家はとても似合っていると思った。クリーム色のバラのアーチの門。よく手入れの行き届いた小さな前庭の、あの秩序ある優しい雰囲気。ニコニコ顔のハナ。自分の子供にも礼儀正しい理知的なお母さん。落ち着いて、穏やかで、静かな家の中。
羨ましいな、と思ってから、花はちょっと悲しくなった。
どうしてうちは藤井君のお家のようじゃないんだろう。
どうしてお母さんは、藤井君のお母さんのようじゃないんだろう。
ノックをして「どうぞ」と言われるまで待つのが、どうしてそんなに嫌なんだろう。
どうして私の引き出しを勝手に開けたり、私のものを勝手に光にあげちゃったりするんだろう。
どうして私のことを大事にしてくれないんだろう。
どうして?私のことが好きじゃないから?
どうしたら、私のことをちゃんと扱ってくれるようになる?
藤井君のお母さんの笑顔が頭に浮かんで、花はため息をついた。
いいなあ。
あんなお家の子になりたかったな。
作文に書いたことを思い出す。
先生、もう読んだかな。びっくりしてるかな。
急いでいっぱい書いたから、決して上手な作文とはいえないと思う。きっと茉莉奈が読んだら稚拙だとかなんだとか批判するのだろう、と嫌な気持ちになりかけたところで、ふと思い出した。そうだ。昨日茉莉奈が言ったことも、作文に書いたのだった。もしあの作文を先生がクラスに読んで聞かせるとしたら——先生はたまにそうする——あの部分は読まないでくれるといいけど、と思う。
寝苦しいというほどの暑さではないので、エアコンはついていない。じっとして感覚を集中すると、ベッドから一番遠い隅に置いてある扇風機が、部屋の空気を微かに動かしているのが感じられるような気がする。
琴ちゃん、茉莉奈ちゃんと一緒に帰ったのかな。
花は、茉莉奈が自分と琴音とよく一緒に帰るようになったことを、あまり嬉しいとは思っていなかった。でも、茉莉奈が琴音と仲良くしたいと思うのを邪魔する権利は自分にはないのだし——茉莉奈が花のことを好きでないのはわかっているので、お目当ては琴音であるのは一目瞭然だ——、やきもちを焼いたりするのは嫌だった。
…今日は私がいなかったから、もしかして茉莉奈ちゃんが、琴ちゃんに私の悪口を言ったりしてるかもしれない。
ちらりとそう思ったけれど、そのことについてあれこれ考え出す前に、花の後ろで眠りの国の門がそっと閉まった。
翌朝、花は六時五分前にはもう玄関の外にいた。門の外にはまだ出ないでおく。頭上は明るい真珠色の曇り空。時折ゆるやかに、まだ涼しい朝の風が通っていく。スカイブルーの朝顔達が爽やかに咲いている横で、ひさしの深いオフホワイトの帽子を被り、いっち、にっ、と屈伸をしてみたり、ストレッチをしたりしていたら、玄関のドアが開いてお母さんが出てきた。
「まだちょっと早いんじゃないの?」
「うん、藤井君が来たらすぐ出られるようにと思って。待たせちゃ悪いでしょ」
「まーいつもは寝坊のくせに、はしゃいじゃって」
お母さんがからかうように言う。
お母さんがからかうように何かを言う言い方には二通りあることに、花は最近気がつくようになった。楽しい言い方と嫌な言い方。今のは嫌な言い方だ。皮肉っぽい口調。
どうしてそういう嫌な言い方するんだろう。
ムッとしたけれど、すぐに藤井君が来るのだから、こんなところで喧嘩をするわけにはいかない。ぐっと我慢して、黙ってストレッチの続きをする。すぐに家の中に戻っていくだろうと思っていたのに、お母さんはそのままドアに寄りかかってスマホを見始めた。
「…お母さん何してるの?」
「メールチェックしてるの」
「…ここで?」
「そうよ」
「……」
それ以上何も言わずに澄ましているお母さんから目を逸らせて、花は心の中でため息をついた。
藤井君とハナに会うつもりなんだ、お母さん。
会うというよりは、チェックするというか、品定めするというか。
去年、クラスの友達と数人で遊園地に行こうという話が出た。その中の一人のお父さんの仕事の関係で、フリーパスが取れるというのだ。行っていいかとお母さんに訊いたら、メンバーを訊かれた。そのうちの二人の名前に、お母さんは顔をしかめ、首を振った。
「やめときなさい。前にいじめをして問題になったことのある二人組じゃないの」
花は口を尖らせて抗議した。
「でも他のクラスだった時だよ。今はそんなこと全然してないし、みんなと普通に仲良くしてるよ」
「そう?でも花ちゃん、本当に○○さんと△△さんがいい子だと思う?二人とも、本当にみんなとちゃんと仲良くできてる?」
お母さんにじいっと見つめられて、花は渋々口を開いた。
「そりゃ…ちょっと威張ってるけど」
「それに、不真面目で勉強だってできない子達でしょ。そういう子達と仲良くするのはあまりよくないの。朱に交われば赤くなるっていってね、悪い影響っていうのは受けやすいものなのよ。そろそろ、そういうことをちゃんと考えて友達を選ぶようにしないとだめよ」
…まあ藤井君なら、合格だろうけど。
腕時計を見ると、六時を少し過ぎている。
道に出たら、もう道の向こうのほうにハナと藤井君が見えるかな。でも、そんなふうにお互いを見ながらずっと待ってるのも、決まりが悪いかな。
そんなことを考えながら、ちょうど肩の高さくらいの門の焦茶色の扉に、腕と顎を載せて耳を澄ませていると、少しして、ハッハッという息づかいと足音が聞こえてきた。
あっと思って急いで門を開けると、門の外の石段脇の植え込みの向こうから、グレイのキャップを被った藤井君とニコニコ顔のハナが現れた。花を見たハナが、とびきり嬉しそうな顔になってぴょんぴょん跳ねる。
嬉しくて顔がフニャフニャになってしまう。
「おはよう!」
藤井君が、ちょっと眩しそうな顔をして見上げる。
「おはよう!」
二段ある石段を一足跳びで降りて、ハナの前に屈む。
「おはようハナ!」
ハナが大喜びで足踏みしながら花の顔を舐めていると、背後から足音がして、
「あらあら」
いつもよりちょっと高いよそ行きの声で言いながら、門のところにお母さんがやってきた。藤井君がぺこりと頭を下げる。
「おはようございます」
「おはようございます。まあーかわいいわねー」
お母さんはニコニコと目を細めてハナを見てから、藤井君に、
「大きいわねえ。力が強いでしょう。大丈夫?」
「大丈夫です。あんまり引っ張らないので」
「そう、お利口さんなのねえ。車に気をつけてね」
「はい」
「行ってきまーす」
藤井君の声と花の声が重なった。
少し歩いてから藤井君がヒソヒソと言う。
「反対されなかった?」
「うん、大丈夫だった」
藤井君がさらに声を落として、
「なんか…ちょっと意外。すごい優しそうなお母さんで」
と狐につままれたような顔をして言ったので、花は苦笑した。授業参観でも友達によく言われる。いいなあ花ちゃんのお母さん、美人で優しそう!
確かに、ふんわりした髪を背中まで垂らして大きな目をしたお母さんは、ニコニコしていると優しそうに見える。でも、花はお母さんのことを優しいと思ったことは一度もない。物心つく頃からお母さんはよく怒って怒鳴っていたから、小さい頃から花が両親を描写する時はいつも「怖いお母さん」「優しいお父さん」だった。
「どっちに行くの?」
十字路の近くで花が藤井君に訊くと、ハナもどっちに行くの?というように、真っ黒な目で藤井君を見上げる。その様子があんまりかわいくて、花は心の底から幸せな気持ちになった。一緒に散歩してるなんて、夢みたいだ。
「そうだな、今日はじゃあ、公園のほうに行こうか」
左に曲がる。
「今日は、っていうことは、いつも同じルートじゃないんだ」
「うん。毎日同じじゃハナもつまらないだろうと思って」
「なるほどね。雨の日はどうするの?」
「ちゃんと行くよ。ハナはレインスーツ着て、僕は傘さして。あんまりざあざあ降りの時はうんと短くするけど、ちょっとくらいの雨だったらいつも通り一時間くらい」
藤井君はちょっと苦笑して、
「ハナ、散歩大好きなんだよね。雨が降ろうが槍が降ろうが、って感じ。雷怖がる犬が多いって聞くんだけど、ハナは全然へっちゃらだから、雷鳴ってる時に『今雷すごいから、もうちょっとあとで行こう』って言うと、玄関のとこに座って『ええーどうして?早く行きたい』って顔するんだよ」
想像して花はくすくす笑ってしまった。ハナったらかわいいなあ。
歩いているうちに、雲の切れ間から日が差してきた。そうすると急に気温が上がったように感じる。ハナのハアハアいう息遣いも、急に「アチアチ」と言っているように聞こえてくる。
「暑くなってきたね」
「うん。そろそろ散歩の時間を、もうちょっと早くする方がいいかもしれないな…。犬って暑さに弱いんだよ」
ハナを見ながら藤井君が考え深げに言う。
「もうちょっと早くって、五時半とか?まだ暗くない?」
「いや、それくらいだったらもう結構明るいよ」
藤井君はいたずらっぽく笑って花を見た。
「海藤さん、朝寝坊?」
花はちょっと赤くなった。
「うん…どっちかって言うとそう。でもお散歩行くためならちゃんと起きるよ。頑張る」
「じゃ、明日から五時半にしてみようか、ハナ」
ハナがニコニコして見上げる。
了解。
花はなんだか嬉しくてうふふと笑った。ちゃんと言葉が通じてる。不思議だな。
「海藤さんのお母さん、いいって言うかな。そんな早い時間」
藤井君が心配そうに言うので、花はへっちゃらという顔をしてみせた。
「大丈夫。なんて言われたって行くもん」
「そういえば、さっきの様子だと、仲直りできたんだね。一昨日の喧嘩」
花はちょっと驚いた。昨日話したこと、気にかけてくれてたんだ。
「うん。昨日の朝はあんまり口きいてくれなくて、素っ気なかったんだけど、昨日藤井君のお家から帰ったら、普通に話せるようになってた」
「海藤さんから謝ったの?」
「ううん」
花は首を振った。
「前はね、いつも喧嘩のあと必ず謝りにいってたの。そうしないとだめだって思ってた。でも、昨日話したあのひな祭りの時の喧嘩——真面目な意見をちゃんと真面目な態度で聞いてほしいって私が言って、お母さんがすごい怒った時の、あの喧嘩の時以来、あんまり謝らなくなった。よく考えてみて、私が悪かったなとか、言いすぎたなと思う時だけ、謝ることにしたの」
それも、ただ「ごめんなさい」と言うのではなく、「○○って言ったのは言い過ぎだったと思う。ごめんなさい」などと限定して謝るようにしている。お母さんはそれが気に食わないらしく、以前全面的に謝っていた時のように快く許してはくれないけれど、花はそれでいいと思っていた。自分が悪いと思っていないのに謝るなんておかしいもの。
「それでも普通に話せるようになるんだ?」
「うん。謝ってた時より時間はかかるけどね」
「そういう時、お母さんも謝る?」
「まさか」
花は思わず笑ってしまった。お母さんが謝るところなんて、想像すらできない。物語なんかでは、謝られた方も「私も悪かったわ。ごめんなさいね」とか言うけれど、お母さんは絶対にそんなことを言わない。
「そっか…」
藤井君がため息をついた。少し考えてから、花を見る。
「あのさ、お母さんとのこと、お父さんに相談してみたことある?」
「お父さんに?」
「うん。お父さんは、海藤さんがお母さんにされてることとか、真相をあんまり知らないわけでしょ?お父さんに、色々打ち明けてみたらいいんじゃないかと思って」
花はうーんと唸って、真珠色の雲の切れ端を見上げた。
「…お父さんはね、多分わかってくれないと思うんだ」
「…そうなの?」
「前にね、お母さんと喧嘩した翌日とかに、何回かお父さんに言われたことがあるの。『あんまりお母さんを困らせちゃだめだよ。お母さんは光のことで大変なんだから』とか『花はもう大きいんだから、もっとお母さんを助けてあげないとね』とか。完全にお母さんの味方。悪いのは私だって思ってる感じ」
今度は藤井君がうーんと唸って空を睨んだ。
「そうか…。でも、それはさ、お母さん側の説明だけを聞いてるからじゃない?それじゃ不公平だよ。お財布の話とか、お父さんに話してみれば?」
「うん…。でも、なんていうか…」
心の中を探って、言葉を紡ぐ。
「うまく言えないんだけど…、やっぱりお父さんって、お母さんのものっていう気がするの。お母さんの相棒っていうか、お母さんとペアっていうか。だから、私がお母さんのことをお父さんに告げ口するみたいなのって、しづらいっていうか…」
藤井君がまたううーんと唸った。
「…なるほどね。そうか…それはそうかも」
納得したように何度も頷く。
「…本当にそうだね。そんなふうに考えたことなかったけど、その通りだ。夫婦だから、チームだもんね。なるほどね」
二人一緒に大きなため息が出て、顔を見合わせてちょっと笑った。ハナがなあに?というように二人を見上げる。
「でも、じゃあ、そうだなあ…、親戚の人とかは?相談できる大人の人いない?」
「んー、叔母さんとか、おばあちゃんとか…。でもお母さんの妹とお母さんのお母さんだから、やっぱりお母さんの味方って感じがしちゃう。お父さんのほうの親戚とはあまり付き合いがないの。北海道だから、夏休みに何回か会ったことがあるくらいで」
「そっか…」
藤井君が眉を寄せた。
「じゃあ…先生とか、スクールカウンセラーとか。それか…もし海藤さんが嫌じゃなければ、うちのお母さんとか」
「そんな、いいよ、大丈夫だから…」
花が言いかけると、藤井君がきっぱりと言った。
「ちゃんと、大人の人に相談するほうがいいと思うんだ」
藤井君の真剣さに気圧されて、花はおずおずと言った。
「…そう?」
「うん。昨日話を聞いてて、海藤さんのお母さんは、海藤さんの…子供の言うことは真剣に聞いてくれない人なんだなって思って。子供のくせに何偉そうなこと言ってるんだ、って感じでしょ。子供だから対等に相手をしてくれない。だから、大人を巻き込まないと、何も改善されないと思うんだ」
「改善…」
花はつぶやいた。
改善、なんて言うと、なんだか大仰な感じだ。別に毎日ムチで打たれているとか、食事もろくに食べさせてもらえないとか、シンデレラみたいにこき使われて宿題をする暇もないとか、そういうんじゃないんだけどな。
藤井君がじっと花の返答を待っているようなので、花は心の中の思いをそのまま口にしてみた。
「でも…、あのね、私がお母さんにされてることって、虐待とかそういうのとは違うような気がするの。そう思わない?」
そう言ってから、あっ、これはお母さんがいつも私に同意させようとする時の言い方だ、と気づき、慌てて言い直す。
「どう思う?」
藤井君はまるで質問を予期していたかのように躊躇なく答えた。
「虐待っていうのとは違うと思う。でもこのままにしておいていいことじゃないと思うよ」
「うん…でもね、なんていうか…、こんなことを他の大人の人達…例えば先生とかに話したら、つまらないことを大袈裟に騒いでるって思われたりしないかな。だってご飯食べさせてもらってないとか、ムチで打たれてるとか、骨折させられたとか、そういうんじゃないのに」
「でも、海藤さんは、嫌だな、やめてほしいな、直してほしいなって思ってるわけでしょ。で、そう思ってることの一つについて、お母さんに直接『やめてほしい』ってきちんとお願いしてみたけど、お母さんはまともに取り合ってくれなかった。学校のいじめとかと同じだと思うんだ。相手に直接やめてほしいって言ってみて、だめだったら、そこで諦めないで、親とか先生に助けを求めてみる。それでもだめだったらそこでも諦めないで、どんどん他の大人に言ってみる…」
藤井君は言葉を切って、
「あ、もし、海藤さんが今のままの方がいいって思ってるなら、話は別だよ」
と言った。
「でも、海藤さんが今のままじゃ嫌だと思ってるなら、他の人の手を借りてでも、変えられるように努力してみる方がいい、って思うくらいの、ひどい状況ではある、と、僕は思うけど」
目を上に向けて考え考え言葉をつないでから、藤井君は苦笑した。
「今の、なんかすごいわかりにくいね。ごめん」
花もちょっと笑って答えた。
「ううん。わかるよ、大丈夫」
藤井君が、顔から微笑を消し、生真面目な顔で花をじっと見た。
「大袈裟に騒いでる、なんて絶対誰にも思われないよ。海藤さんのお母さんがしてることって、結構ひどいと思うから」
「…そっか…そうだよね」
答えながら、花はまたちょっと惨めな気持ちになった。自分の持っているものはよくないものだと、いいものを持っている人に指摘されるのは、ちょっと心がチリチリする。
「…藤井君は、お父さんとかお母さんとかと喧嘩したりしないの?」
昨日訊いてみようかなと思って訊けなかったことを、思い切って訊いてみる。
「うーん、喧嘩はしたことないかな。口論程度ならあるけど」
「…じゃ、叩かれたりしたこともないよね」
「覚えてる限りではないな」
ちょっとおどけて、
「うんと小さい頃は、もしかしてお尻叩かれたりしたことあったかもね。結構いたずらっ子だったらしいから」
と言った藤井君の笑顔を見て、花は眩しいなと思った。
私とは全然違う。本当に大事にされてるんだな。王子様みたいに。
王子と乞食のお話みたいだ。お城できちんとした人々に大切に育てられた王子様と、飲んだくれの親にぶたれて育った乞食の子。
表面上のことを言えば、花のお母さんだって「きちんとした人々」の部類に入ると思う。大学を出て、茶道や華道やお琴の免状も持っている、世間のいわゆる「いい家のお嬢さん」だ。飲んだくれの乞食とは程遠い。
それなのに、どうしてあんなに乱暴なんだろう。お嬢さん育ちの人が、あんなふうに怒鳴ったり暴力振るったりするなんて、変じゃない?
…いや、物語にも、乱暴でわがままなお金持ちのお嬢さんというのは結構出てくる。おもちゃもペットも大事にしないで乱暴に扱う、わがままな王女様とか…そう、あれは確か低学年の頃に町の図書館で借りて読んだ本だ。もう一度借りて読んでみよう。なんてタイトルだったかな。王女の名前はロザモンドっていったっけ…
ヒュンッという声で、花は我に返った。ハナが真っ黒な目でこちらを見上げている。
どうしたの?
「ごめんごめん。ちょっと考え事してた」
笑って答えると、ハナは嬉しそうな顔をして、花の手に顔を擦り寄せた。
公園には、花が思っていたよりも人がいた。ジョギングやウォーキングをしている人たちに混じって、犬の散歩をしている人たちも結構いる。大抵が小型犬で、ハナに向かってギャンギャン吠える犬が何匹もいたが、ハナはニコニコして楽しそうに歩いている。
「ハナ、かっこいいね。あんなの相手にしないんだ」
一際ひどく吠えついてきた小さな黒い犬とすれ違ってから花が言うと、藤井君も頷いた。
「そうなんだ。堂々としてるっていうかね。喧嘩しないでくれて助かるよ」
「堂々と、か…」
花はため息をついた。
「私も、お母さんが嫌なこと言っても、ハナみたいに堂々として喧嘩しないでいられればいいんだよね、きっと」
「うん…でも、自分のお財布取られたり、引き出しを勝手に開けられて中身を出されたりしたら、抗議したいと思うのが当たり前だよ」
「そうだよね…わっ」
びゅっと風が吹いて、花の帽子が浮き上がった。飛ばされる前になんとか押さえることができた。髪を直しながら被り直していると、藤井君がにこりとして言った。
「髪、やっぱり長い方が似合ってるね」
「えっ」
思わずちょっと赤くなる。
「四年生の時、短くしてたでしょ」
「あ、ああ、あれはね、」
赤くなったのを誤魔化そうと、肩より少し長い髪を指でつまんで顔の横に上げてみせる。
「お母さんに切らされたの。短い方が絶対よく似合うって言われて。でもあとで…五年生になってからだったかな、『そろそろ髪伸ばせば?』って言われたから、『でもお母さん、短い方が似合うって言ったじゃない?』って言ったら、『ああ、あの時はね、毎朝髪を結んだり編んだりしてあげるのが面倒でたまらなかったから、ああ言って短くさせたのよー』って笑って言われた。それから得意そうにふっふっふって笑ってみせて、『子供ってのはね、うまく誘導するものなのよ』って言ってた」
藤井君が眉をしかめる。
「ひどいなあ」
「でしょ。そんなこと、言わないでおいてくれればいいのに、どうしてわざわざ言うんだろうって思った」
「うーん…。なんていうか…」
藤井君は言葉を探すようにしてから、ため息をついた。
「鈍感なのか、無茶苦茶間違ってるのか、それともわざとしてるのか…どれなんだろう」
花は首を傾げて藤井君を見上げた。
「わざとっていうのは、私を怒らせようとしてってことだよね?」
「うん、それか、海藤さんがどんな反応するか見てやろう、って面白がってるみたいな」
「鈍感っていうのは、別になんの考えもなく、ただ本音を話しちゃってるってことでしょ」
「そう」
「無茶苦茶間違ってるっていうのは?」
「海藤さんが怒らずにそれを受け入れるのが当然だ、って思ってるってこと。自分の子供なんだから、親である自分のやることに対して、怒ったりなんかしないはずって思ってるっていうか」
花はちょっと眉を寄せて考えた。
私が怒らずにそれを受け入れるのが当然だって思ってる…。
ふと、あるイメージが花の頭に浮かんだ。
思わず、ああ…と納得のため息が出る。
「わかった。ジャイアンみたいな感じなんだ」
「え?」
「ドラえもんに出てくるジャイアン。ジャイアンって、のび太とかスネ夫とかのものを取り上げたりするでしょ。で、『いいだろ、友達なんだから』って言ったりする。ちょっと抗議されると『なんだよ、文句あるのか!友達だろ!』って怒る。怒鳴ったり殴ったりもするけど、それでも友達のつもりでいるし、のび太たちもそれを受け入れてる」
藤井君が我が意を得たりというように頷いて、
「そうそう、それ。ぴったり」
「うちの場合は、それが『いいでしょ、親子なんだから』ってなるのか…なるほどね…」
お母さんは、自分が「親子なんだからこれくらい言ったっていいでしょ」って勝手に思ってることで私が怒って抗議すると、腹をたてるわけか。
ちょっと前を行くハナのミルクティー色の太い尻尾が楽しそうに揺れるのを見ながら、花はもう一度納得のため息をついた。
お母さんはジャイアンみたいなんだ…。
ジャイアンは、完全にいじめっ子っていうわけではなくて、のび太達と友達でもあって、一緒に冒険したり、共に悪者たちと戦ったりもする。でも大抵は威張っていて、自己中で、のび太達の気持ちを思いやることなく、ラジコンや漫画を取り上げたり、壊したり、好き放題している。
ジャイアンみたいなお母さんか…。
「私は、『若草物語』のマーチ夫人みたいなお母さんが欲しいのにな。すごい違い」
ぼやいたら、藤井君がちょっと笑った。
「それはさすがにちょっとハードル高いかも」
「だよね」
くすくす笑い合ってから、花は真面目に言った。
「藤井君、ありがとう。なんか色々相談乗ってくれて」
「いや、そんなこと、全然」
ちょっと照れたように笑ってから、藤井君はじっと花を見つめた。
「でもほんと、さっきも言ったけど、絶対に誰か大人の人を巻き込んだ方がいいと思うよ。それも一人だけじゃなくて、できれば複数の方がいいと思う。助けは多い方がいいと思うから」
花は心の中でちょっと後ずさったけれど、口では、
「うん、そうしてみようかな」
と言って頷いた。
「あとさ、考えたんだけど、お母さんと喧嘩する時、できるだけ他の人がいるところでする方がいいと思うよ」
「そんな。他の人がいるところでなんて、喧嘩にならないよ」
花がちょっと笑うと、藤井君は真剣な顔で頷いた。
「だからだよ。っていうかつまりさ、お母さんに何か意見を言いたい時とか、お母さんが怒りそうだなと思うようなことを言う時にね、他の人がいる場所を選んでするってこと。そうすればお母さんもひどい態度取ったり、暴力振るったりできないんじゃないかと思うんだ。人目があるから」
「…ははあ、なるほどね…」
「家だと、お父さんがいる時を狙ってってことだね。でも、できればお父さんじゃなくて他の人のほうがいいだろうと思うから——だって、お父さんはお母さんの味方だろうからね——、そうすると、家の中ではできるだけお母さんと喧嘩になるような話題は控えて、そういうことは外出した時に話すってことかな」
「…そうだね。わかった」
藤井君の真剣さに合わせて神妙に頷きながらも、花はちょっと首をすくめたいような気持ちだった。
藤井君たら、やっぱりちょっと心配しすぎだよね。