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chap.3

《三》

 帰りのホームルームの後は、清掃の時間だ。さようならの挨拶の後、教室の後方に机を下げながら、花はさっきの作文のことをほんの少し後悔し始めていた。

 勢いに任せて随分色々書いてしまった。まずかったかな。特にあの「自殺する」というのは絶対にまずかった。先生が慌てふためいてお母さんに連絡したり、あの作文を見せたりしちゃうかも…。あとで先生にそのことをちゃんと話した方がいいかな。本当に自殺しようと思っているわけではありません、って。

 昨日の月曜日から、花たちの班は教材室の掃除当番だった。教材室に向かう途中、藤井君が追いついてきて小声で言った。

「今日さ、帰りに犬に会いにこない?」

 えっと目を丸くして見上げた花に、藤井君はいたずらっぽく笑ってみせた。

「寄り道だから、校則違反になっちゃうけど」

 ちょうどその瞬間、頭の中で同じように「校則違反になっちゃうな」と思っていた花は、ぴったり合ったタイミングがおかしくて思わず笑ってしまった。

「うん、行きたい!」

 そんな校則、破ったって別にいいよね。やってる人いっぱいいるもん。

「おっけ。じゃ、決まり」

 藤井君はにこりとして頷いた。

「わんちゃん、なんて名前?」

 花が訊くと、藤井君はまたいたずらっぽく笑って、

「海藤さんと同じ」

「え?」

「ハナ」

 藤井君に名前を呼ばれたようでちょっとドキッとする。

「そっか、女の子なんだ。何ヶ月?」

「子犬じゃないんだ。今二歳。前の家族がさ、もう大きくなっちゃったからいらないって保護団体の人に押し付けたんだって」

 花はびっくりして目を見張った。

「…『大きくなっちゃったからいらない』?」

「もう子犬の時みたいに可愛くないし、場所とるし、散歩も大変だからいらない、って」

 花は唖然とした。

 そんなひどい人がいるのか。

 信じられない思いで、花は話し続ける藤井君の少し眉を寄せた横顔を見つめた。

「最初は家の中で飼ってたんだって。子犬の頃はちゃんと散歩にも連れてってた。でも大きくなったら外に出して、鎖に繋いで、寒い冬にも犬小屋に毛布も入れてあげないで、散歩もろくに連れていかないで放ったらかし。その家の向かいに動物保護団体の人が住んでて、見兼ねて飼い主に訊いたら、『子犬の頃は可愛かったからよかったんだけどねー、もう大きくなっちゃって可愛くなくなっちゃったし、場所取るから家の中に置いとけないし、邪魔なだけで』って言ったんだって。『いらないから、よかったら連れてってくださいよ』って。ひどくない?」

「…ひどすぎ」

 花は泣きそうになってしまった。胸が震えた。

 ミルクティー色の犬が、冬の犬小屋の中で丸まって震えている姿や、悲しそうに家の中にいる人たちを眺めている姿が頭に浮かんだ。

 前は家の中でかわいがってくれていたのに、どうして外に出されて鎖で繋がれるようになったんだろう。私が悪い子だからかな。私のこと嫌いになったのかな。どうして?

「ふっじいくーん」

 後ろから小走りでやってきた関口君が、藤井君にふざけて飛びついた。

「なんだよ」

 藤井君が笑って応える。花はうるうるしてしまった目を急いでぱちぱちさせたけれど、

「あれ、花ちゃん、目どうしたの」

 関口君と一緒にやってきた同じ班の森田さんに訊かれてしまった。

「うん、今特大のあくび出ちゃって」

 そうごまかしてえへっと笑ったら、藤井君とちらりと目が合った。優しい目だった。


 教材室の掃除を済ませて教室に戻ると、教室の掃除はまだ終わっていなかった。茉莉奈が同じ班の子達とおしゃべりしながら床を掃いている。ちょっと迷ったけれど、花は茉莉奈には声をかけずに、ランドセルを背負って藤井君と教室を出た。隣のクラスの廊下の掃き掃除をしていた、背の高いショートヘアの女子に近づく。

「琴ちゃん、ごめん、今日寄るとこあるから、先に帰るね」

 橘琴音(ことね)とは、幼稚園の時からの仲良しだ。通っていた幼稚園は違ったけれど、同じピアノ教室に通っていて友達になった。発表会で一緒に連弾をしたこともある。学校では一度も同じクラスになれなかったし、琴音は昨年「ピアノよりバスケの方がいい」とピアノ教室も辞めてしまったけれど、琴音の家に寄って毎日一緒に登校するのは一年生の時から変わらないし、下校もいつも一緒だ。最近、なぜか帰りに時々茉莉奈が加わるようになったけれど、別に毎日一緒に帰ると約束しているわけではないし、一緒に帰れないことを告げるなら茉莉奈にではなく琴音にだろう。

 琴音は、花を見下ろしてにこりとし、さばさばと言った。

「オッケー。んじゃまた明日」

「うん、じゃあね」

 手を振って歩き出すと、数歩先で待っていた藤井君が羨ましそうに呟いた。

「背高いよなあ、橘さん。羨ましい…」

 確かに、琴音は藤井君よりも——大抵の男子よりも——背が高い。

「藤井君だって、別に低くないじゃない」

 花が慰めると、藤井君はため息をついた。

「中学行ったらバレー部に入りたいんだ。何食べたらあんな高くなるんだろう。カルシウム…やっぱ牛乳とかかな…」

「うーん、そうだね…小魚とか?煮干し?」

 すると、廊下の角を曲がって、担任の高橋夏美先生がせかせかと早足でやってくるのが見えた。花はハッと思い出した。

 作文のこと、言わなくちゃ。

 にこやかに「さようなら」と言って通り過ぎようとした先生を、慌てて呼び止める。

「あの!先生」

 急停止した先生の上履きがキュッと高い音を立てた。

「はいはい?」

「あの、さっきの作文なんですけど、あの…」

 ちょっと言いにくい。声が小さくなる。

「あの、自殺するって書いたところがあるんですけど、本当に本気でしようと思ってるわけではないので…母に連絡したりしないでください」

 お母さんよりちょっと若く見える先生は、細い目を丸くしたけれど、微笑んで、

「わかりました」

 と頷いた。少し気掛かりそうな微笑みだった。

「…自殺?」

 先生とさようならと言い合って別れた後、藤井君が生真面目な表情で問いかけるように言った。

「うん」

 花はちょっと肩をすくめて笑ってみせた。

「ちょっと大袈裟に書いちゃっただけ。夏休みにお母さんに無理やりキャンプに連れて行かれそうになったら自殺します、って」

「そっか。なるほど」

 藤井君はほっとしたように頬を緩めてから、少し意外そうに言った。

「キャンプ、そんなに嫌いなの?虫嫌いとか?」

「ううん、そういうんじゃなくて」

 ちょっと迷ったけれど、花は正直に言ってみることにした。

「去年ね、弟みたいな子達がたくさん来るキャンプに連れて行かれたの。でもあんまり楽しくなかったからもう行きたくないんだけど、お母さんは今年もみんなで行くって勝手に決めてるみたいで」

 藤井君は軽く眉を寄せた。

「それは海藤さんの意見を聞いてから決めるべきだよね。『今年も行きたい?』って」

「そうだよね」

 まさにその通り、と力を込めて頷く。

 本当にそうだ。

 お母さんは、私がどうしたいか訊いてくれることがほとんどない。


 驚いたことに、藤井君の家は花の家と同じ道筋にあった。同じ道ではあるけれど、結構離れているので、地区班も違うし、学校によって決められた登下校の道筋も違う。バス通りからずっと離れている藤井君の家の周辺には、ちらほらと小さな畑や芝生になった空き地もある。

「家とおんなじ道だったんだ。知らなかった」

 花が言うと、藤井君がにこりとした。

「僕は昔から知ってたよ。バス通りに出る時にいっつも通るし。低学年だった頃、海藤さんが光君と門のところで遊んでるのも見たことあったし」

「そっか」

 光がまだ幼稚園だった頃だろう。なぜか光が門のすぐ脇の塀に登るのが大好きで、危ないので一緒にいて見張っていた時期があった。

 それにしても、藤井くんが通り過ぎたのにこちらはちっとも気づかなかった。気づかずに、こちらを知っている人に見られていたと思うと、なんだか少し恥ずかしい。

 「ここ」

 藤井君は言って、クリーム色のつるバラが満開になっているアーチの下の、黒い小さな門をカタンと開けた。

 青い屋根の家だった。よく手入れの行き届いたこぢんまりとした前庭がある。滑らかな緑の芝生と、青紫と黄色と白の花の溢れる小さな花壇。小さな緑の星のような葉をたくさんつけたほっそりしたモミジの木が、芝生の上に心地よさそうな影を作っている。花壇の近くに、小さな木のベンチがあり、その脚元にパッと人目を引く艶やかな赤の大きなジョウロが置いてあった。

「わあ素敵なお庭」

 花は思わず声を上げていた。なんだか絵本の中に入ったような気持ちになる。門の外とは全く別の空気が流れているような感じがした。柔らかくて優しい空気。

「猫の額だけどね」

 玄関に続く白い敷石の短い小道を歩きながら、今日授業で出てきた表現を使って、藤井君が笑った。

「ただいまー」

「お邪魔しまーす」

 そう言いながらドアを開けて二人が玄関に入ると、目の前に、ニコニコ顔の大きなミルクティー色の犬が、太い尻尾をバシンバシンとブルーのカーペットに打ちつけながら座っていた。真っ黒な目がキラキラしている。

 花とハナの目が合った。

 花の胸がきゅうんとした。キューピッドの矢に打ち抜かれるって、きっとこういう気持ちだ。一目惚れ。

「ハナちゃん」

 思わずハートマークつきで呼びかけると、ハナはますます嬉しそうな顔になって、尻尾を一層強くカーペットに打ちつけた。

「ハナ、『待て』だよ」

 藤井君が片手を「待て」というように突き出しながら落ち着いた低い声で言う。ハナは、待ちきれない、というように、カーペットの上で身体を揺らして、前足を何度も踏み替えている。

「お帰りなさい」

 横のドアが開いて、藤井君のお母さんが出てきた。ブルージーンズにグレイのポロシャツ。長い髪を後ろで束ねて、大きなメガネをかけている。花は慌てて頭を下げた。

「こんにちは」

 お母さんは驚いたような笑顔を浮かべた。

「あら海藤さん!いらっしゃい!」

 花はびっくりした。どうして私のこと知ってるんだろう?会ったことないはずだと思うんだけど。

「犬、大丈夫?抑えてるから、どうぞ上がって。優輝ゆうき、スリッパ出してあげて」

「抑えたりしなくて大丈夫だよ。ハナに会いにきたんだから」

 藤井君が近くの棚に手を伸ばしながら言って、花の前にスリッパを置いてくれた。

「ありがとう」

 蔦の模様の浮き出たオフホワイトの素敵なスリッパだ。

「履き替えてる時に飛びついたりしたら危ないから、抑えてるわ。さ、どうぞ」

 お母さんが言ってハナの身体に後ろから手を回すと、ハナは嬉しがってお母さんの方を振り向き、顔をべろべろ舐めた。メガネが大きくずれて、お母さんが笑いながら悲鳴をあげる。

「うひゃーやられた!」

 花はお邪魔しますともう一度言って、急いで靴を脱いでスリッパに履き替えた。それから後ろを向いて膝をつき、脱いだ靴の向きを直して揃える。ハナが斜め後ろから首を伸ばして花の耳辺りをふんふん嗅いだ。濡れた鼻に押されて校帽が傾ぐ。そうっとハナの方に向きを変えると、目の前に大ニコニコのハナの顔。ベロンとほっぺを舐められて、花は笑って尻餅をついてしまった。ハナは立ち上がって、ブンブン尻尾を振りながら花に顔を擦り寄せてくる。

 よろしくね、よろしくね、会えて嬉しい。

「よろしくね、ハナ。私も会えて嬉しいよ」

 ハナの大きな顔をゴシゴシ撫でると、今度はハナは、ごろんとひっくり返ってお腹を出した。くすくす笑って温かいお腹をそっと撫でると、ハナは満足そうに目を細めた。

「まー初対面の人にこんなに甘えて」

 藤井君のお母さんが楽しそうに笑う。

「僕のことは完全無視だし」

 苦笑しながら藤井君が言って、ランドセルの中からお知らせのプリント類を出してお母さんに渡した。

「ありがとう」

 お母さんがそう言って受け取ったので、花は心の中でちょっと目を丸くした。

 学校からのプリント受け取っただけでも、ありがとうって言ってる。やっぱりこれが普通なんだよね、きっと。

 花のお母さんは、「ありがとう」と言わない。

 一年生の時の道徳の授業で、人の手助けをするという話をしていた時に、先生が、

「みんなも、お家でお手伝いをしてお母さんやお父さんに『ありがとう』って言ってもらうと、嬉しいでしょう?どんなことをして『ありがとう』と言われたことがありますか?」

 と訊いた。何人もの手が挙がり、指された人が次々と、お手伝いをして「ありがとう」と言われた経験を話した。花は、授業でも割と積極的に手を挙げて答える方だったけれど、その時は、どんなに一生懸命考えても、お手伝いをして「ありがとう」と言われたことが思い出せなかった。

 お使いにはよく行くし、洗った食器を拭くお手伝いだってするのに。

 それでその日、頼まれたお使いから帰った時に、お母さんに言ってみた。

「お母さんって、お手伝いしてもありがとうって言わないね」

 買い物バッグから花が買ってきたものを取り出していたお母さんは、憤慨したように目を見開き、きっぱりとこう言った。

「お手伝いなんてするのが当たり前なんだから、『ありがとう』なんて言わなくていいんですっ」

 花はちょっと驚いた。

「…そうなの?」

「そうよ、何言ってるの!花ちゃんは毎日ご飯を作ってもらって、お洗濯もお掃除もしてもらって、お洋服も本もおもちゃも買ってもらってるんだから、せめてものお返しに進んでお手伝いをするのが当然でしょ。そう思わない?」

「…そう思う」

「やって当然のことをして、相手に『ありがとう』って言ってもらうのを期待するなんて、おかしいと思わない?」

「…うん」

 その時は、お母さんを怒らせたくなくて、そう言って頷いた。でも、なんだかお母さんはちょっと間違っているような気がする、とずっと思っていた。

 当然か当然じゃないかなんて関係なく、人に何かしてもらったら、「ありがとう」と自然に言うものじゃないだろうか。本でも漫画でもテレビでも映画でも、そして現実世界でも、人々はそうしているし、花もそうしている。

 ありがとう、って気持ちのいい言葉なのに。

 暮れの大掃除で、花が頑張って家中の窓をピカピカに磨き上げた時などでも、お母さんは決して「ありがとう」とは言わない。「あらーきれいになったこと」とか「ご苦労様」とは言うけれど。

 どうしてなんだろう。


 藤井君の部屋は一階にあった。居間の隣の、オフホワイトとブルーを基調にした小さな部屋だ。前はお父さんの書斎だったのを、ハナが来てから二階の自分の部屋と交換してもらったのだそうだ。

「だってハナは二階に行かれないからね」

「階段、上れないの?」

 窓際の小さなローテーブルの前に藤井君が置いてくれたコバルトブルーのクッションに座って、すぐ横にぴったりくっついて、気持ちよさそうに寝そべっているハナを撫でながら訊く。

 向かいに座っている藤井君が答える。

「上ろうと思えば上れると思うよ。でも階段の上り下りは足腰によくないんだって。それに危ないしね」

「そっか。そうだよね」

 自分が四つん這いになって、急な階段を下りるところを想像して身震いする。確かに危ない。滑り落ちてしまいそうだ。

 そこへ、トントン、とノックの音。

「どうぞー」

 藤井君が言って、ドアが開き、藤井君のお母さんが、クッキーと麦茶のグラスの載ったトレイを持って入ってきた。花にぴったりくっついているハナを見て、うふふと笑う。

「まあーすっかり仲良しになっちゃって。やっぱり女の子同士ねえ」

「名前も同じだしね」

 と藤井君。

「えっ。あらー、ほんと、そういえばそうね!」

 一緒に笑いながら、花はまた内心驚いた。藤井君のお母さん、私の名前も知ってるんだ。

「はい、ハナもおやつ」

 お母さんはハナの前にベージュ色のタオルを敷いて、その上に骨の形をした大きなクッキーを載せた。すぐに齧り出すかと思いきや、ハナはじっとお母さんの顔を見上げている。

 数秒後、お母さんが

「はい、よし!」

 と言うと、ハナは、待ってましたとばかりにクッキーにかぶりついた。

「すごいね、ハナ。お利口さんなんだ」

 お母さんが行ってしまってから、麦茶を一口飲んでそう言うと、藤井君がちょっと複雑な表情をした。

「うん。…小さい頃に、前の家族に教えられたらしいんだ」

「…そうなんだ」

 花もなんだか複雑な気持ちになって、まだゴリゴリと夢中になってクッキーを齧っているハナを見下ろした。

 一体どんな人達なんだろう、と思う。

 小さい時は、可愛いからって家の中で一緒に暮らして、躾もして、でも身体が大きくなったら、もう可愛くないし、邪魔だから、って外に鎖で繋いで、犬小屋に毛布も入れてあげないなんて。他の人に、もういらないから、よかったら連れてってくれって言うなんて。

 人の気持ちって、そんなふうに変わってしまうものなの?

 「可愛い、好き」って思っていたのが、「いらない、邪魔」ってなったりするの?

 どうしてそんなふうになるんだろう?どうしてそんなふうに思うんだろう?

 考え込んで沈黙した花に、藤井君がそっと声をかけた。

「どうしたの?」

「えっ。うん…なんていうか…」

 花は、少しためらいがちに思いを言葉にした。

「そんなふうに、気持ちがね、変わっちゃうことがあるんだなって思って…。最初は可愛いって思ってたんでしょ。なのに、」

 ハナにできるだけ聞こえないように、声を小さくする。

「二年も経たないうちに、もう可愛くないからいらない、なんて…」

 ざわざわした思いをなんとか説明したくて、考えを巡らし、言葉を探す。

「…私、ペットと暮らしたことはないけど、でも、例えば、小さい頃から好きだったおもちゃとかぬいぐるみとか絵本とか、今も大事だよ。確かにもうその子たちと昔みたいには遊ばなかったりはするけど、でもいらないなんて思えない。なんか…そんなのかわいそうっていうか、その子達に悪いっていうか、失礼っていうか」

 藤井君が勢い込んでうんうんと頷く。

「僕も同じ。僕もさ、ハナのこと聞いてから、そういうこと色々いっぱい考えたんだ」

 ローテーブルに頬杖をつき、眉を寄せた生真面目な顔で藤井君は言葉を続けた。

「世の中にはそういう人たちがいるんだなって思った。物も、動物も、人も、大事にできない人たちが」

「…人も?」

「幼児虐待とかさ。自分の子供を虐待して、ひどい時には死なせちゃう親だっているじゃない?」

「ああ……」

 そういえばたまにそういう痛ましいニュースを目にする。

「あれだって、きっと最初は可愛いって思ってるんだと思う。自分の子供だもんね。でも、泣き声がうるさいとか、いうこと聞かないとか、世話するのに時間がかかるとか、そういうことでだんだん嫌になって、可愛いって思えなくなって、暴力振るったり、ご飯あげなかったり、寒いのに家の中に入れてあげなかったりとか、ひどいことするようになるんだと思う」

 藤井君はため息をついて、クッキーをほぼ食べ終えようとしているハナを眺めた。

「普通の人は、相手を、それが動物だろうと人間だろうと、大事にしようって気持ちがあるから、たとえ心の中でちょこっと『子犬の時の方が可愛かったな』とか『大きくなったから部屋のスペースが足りないな』とか思ったとしても、それでその犬を外に放り出したりしないと思うし、『いらないから連れってってくれ』なんて言わないと思うし、自分の子供が泣いたり、いうこと聞かなかったりして腹が立っても、躾だとか言って虐待したりしないと思う。相手を大事にしようっていう気持ちを持てない人が、そういうことするんだと思うんだ」

 大事にしようっていう気持ち。

 花はその言葉を心の中で繰り返した。

 相手を大事にしようっていう気持ち。

 藤井君が、熱のこもった口調で続ける。

「そういう人たちは、相手の気持ちを思いやるってことができないんだと思う。自分の気持ちばっかりが大事なんだ。()()()その犬をもう可愛いと思わないから、()()()その犬をもう家の中に置いときたくないから、追い出しちゃえ、って思ってその通りにしちゃう。犬がどんな気持ちがするかなんて考えない。子供がいうこと聞かなくて、()()()腹立ってムカついて、怒鳴ったり殴ったり蹴ったりしたいから、子供のこと怒鳴ったり殴ったり蹴ったりする。子供の気持ちなんて考えない。自分だけが大事なんだよ。自分さえよければいいんだ。相手の気持ちを考えない」

 花は、少し上気した藤井君の真剣な顔をじっと見て、深く頷いた。

 藤井君、きっと、たくさんたくさんこのことについて考えたんだろうな。

 少しの沈黙の後、藤井君は内緒話をするように少し前屈みになって、低い声で言った。

「ハナの元の飼い主さ、ハナが吠えてうるさいからって、声帯をとっちゃう手術をしようと思ってたんだって」

 花はぎょっとした。

 声帯をとっちゃう?

「…それって、それって、つまり、声が出なくなるようにしちゃうってこと⁈」

「そう」

「……」

 息が詰まって胸の奥が震えた。

 そんな、そんなひどいことをする人がいるのか!

 花の心の叫びが聞こえたかのように、藤井君が続けた。

「たまにいるらしいよ、そういう人。犬が吠えてうるさいとか、近所迷惑だとか言って。ブリーダーの人とかもね」

「…ひどい!信じらんない!」

 思わず大きな声が出た。はらわたが煮えくりかえる。なんてひどいんだろう!許せない!

 すると、クッキーを食べ終わって、また花の脚にくっつくようにして寝そべっていたハナが、身体の向きをちょっと変えて、片方の手をベシッと花の脚に載せた。花はびっくりしてハナを見た。真っ黒な目が花の目をじっと見つめている。

 藤井君がくすくす笑った。

「ハナ、たまにそういうことするんだよ。こないだも、僕とお父さんがちょっと言い合いみたいになったら、ソファに座ってた僕の脚に手を載せて、僕の顔をじいっと見て。『喧嘩しないで』って言うみたいに」

「ええーすごい」

 花も笑って、ハナのミルクティー色の温かい身体をゴシゴシなでた。

「ハナすごいなあ。仲裁役だ。怒ってるのわかっちゃうの?」

 ハナの目が嬉しそうにキラキラする。

 わかっちゃうよ。

「そっか、わかっちゃうか。ねえ、ハナ、よかったね。手術なんかされなくて本当によかった。危機一髪だったね。藤井君のお家に来られてよかったね」

 ハナがニコニコしてバタバタと太い尻尾を振った。

「来られてよかった、って言ってる」

 藤井君と目を合わせて笑った。


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