chap.2
《二》
昨日、一緒に下校していたもう一人の友達と別れて、茉莉奈と二人だけで歩いていた時だった。青い空にもくもくと立ち上がっている大きな入道雲を見上げながら、
「夏休み、どこか旅行に行く?」
と言いかけた花を遮るようにして、茉莉奈が言った。
「花ちゃん、好きな人いる?」
花はきっぱりと首を振った。
「いない」
ちょっといいなと思っている人はいるけれど、そんなことを茉莉奈に打ち明けようなんて微塵も思わない。
「へえー。恋愛に興味ないとか?」
「うん、別にないかな」
「そっか」
ほんとはいるんでしょ、教えてよ、と言われることを覚悟していたので、花は少し拍子抜けした。茉莉奈は、頭の両側で縛った髪につけたオレンジ色のリボンを揺らして、楽しそうに、
「私はね、好きな人いるんだー。でも、そうだね、花ちゃんは、好きな人とか作らないほうがいいのかも。うん、作らないほうがいいよきっと、一生」
一生、なんて言われて花は驚いた。
「…なんで?」
「え?…うーん…」
茉莉奈は少し言い淀むようにしてから、
「…怒らないー?」
そのわざとらしい言い方に嫌な予感はしたけれど、花は答えた。
「怒らないよ」
「あのさ、光君って自閉症でしょ?」
「?…うん」
「自閉症って、遺伝でなるんだって。だから、将来、自閉症の弟がいる花ちゃんの子供が自閉症になる確率は、例えば私の子供が自閉症になる確率よりも、うんと高いわけ。男の人は、自閉症の子供なんて持ちたくないから、花ちゃんに光君みたいな弟がいるってわかったら、付き合ったり、結婚したりしたがらないだろうって、うちのママが言ってたの。花ちゃん可哀想ね、恋愛も結婚もできないかもしれないわね、って」
茉莉奈は、まるで練習してあった劇のセリフのように一気にそう言った。そして花を見てにこっとした。
「だから、今花ちゃんが恋愛に興味ないって聞いて、私、安心しちゃった。花ちゃんが好きな人に振られて傷つくのなんて、見たくないもん」
花は精一杯の努力をして、ふふっと笑って肩をすくめてみせた。
「うん、恋愛なんて全然興味ないから、大丈夫。結婚なんかもしたいと思わないし、そんな話、私には全然関係な…」
「あ、あとね、あとね、これもママが言ってたんだけどぉ」
茉莉奈が早口で遮る。
「自閉症ってね、たまにすごい才能のある子がいたりするんだって。めちゃくちゃ頭良かったりとか、天才的な記憶力があったりとか。で、自閉症の子の兄弟って、やっぱり遺伝があるから、自閉症の子と似た性質を持つことが多いんだって。だからさ、花ちゃんが作文上手かったり成績良かったりするのって、光君の自閉症の血のおかげなんだよ、きっと。花ちゃんラッキーだったね!光君がいなかったらさ、なんにもできない落ちこぼれだったかもよ」
「へえー、そうなんだ、知らなかった。じゃあ光に感謝しなきゃね」
調子を合わせて目を丸くしてみせると、茉莉奈が熱心に頷いた。
「そうそう!ほんと、光君のおかげだもんね!」
茉莉奈と別れて家に帰ってから、花はお気に入りの水色のゴムで髪をぎゅっと縛り、ヘッドフォンをつけてピアノの練習をした。光が壊すと困るので、電子ピアノは花の部屋に置いてある。お母さんは最初、
「光ちゃんだって弾きたいかもしれないじゃない」
と言って居間に置きたがったのだけれど、お父さんが
「電子だけど一応ピアノだ。楽器はおもちゃじゃないんだから。それなりの値段してるんだし、壊れたら困る」
と言ったので、花の部屋に置くことになった。小さな部屋なのでキツキツだけれど、仕方がない。
猛烈な勢いでハノンを弾きながら、花は歯を食いしばった。
大っ嫌い!
大っ嫌い!大っ嫌い!大っ嫌い!
あれは絶対わざとだ。何が「傷つくのなんて見たくないもん」だ。傷つけようとして言ったに決まってる!
あれほんとなの?
光のせいで、私は恋愛も結婚もできないの?
自分の成績がいいのが光の血のおかげだなんて、そんなことはありっこないと花は思った。花に流れているのはお父さんとお母さんの血であって、光の血ではないのだから。
けれど、男の人が自閉症の子供を持ちたくないから、自閉症の弟を持つ自分とは結婚したくないというのは、十分あり得ることのような気がした。
——花ちゃんの子供が自閉症になる確率は、例えば私の子供が自閉症になる確率よりもうんと高いわけ。
そう言った時の茉莉奈の得意気な口調が思い出されて、花は唇を噛んだ。
——花ちゃん可哀想ね、恋愛も結婚もできないかもしれないわね。
「ちょっと花ちゃん、うるさいわよ!」
鋭いノックの音と同時に勢いよくドアが開いてお母さんが入ってきたので、花はびくっとしてピアノを弾く手を止めた。
このノックについては、前にお母さんに抗議したことがある。ノックをすると同時にドアを開けるのではノックの意味がない。プライバシーの侵害だ。そう思って、「どうぞ」と言ってから開けるようにしてほしいとお母さんに頼んだら、
「子供のくせにプライバシーだなんてなに言ってるの。本当はドアだって開けっぱなしにしとくべきなのよ!」
と怒られた。
「そんなにダカダカすごい勢いで弾かないでよ。どうして今日はそんなにうるさいの?」
苛々した口調で言われて、花はヘッドフォンを外し、憤然とお母さんに向かい合った。
「ねえ、自閉症って遺伝なんでしょ?」
お母さんは面白くなさそうな顔をした。
「…そう言われてるみたいね」
「男の人は自分の子供が自閉症になるのが嫌だから、自閉症の弟がいる私なんかと付き合ったり結婚したりしたがらないってほんと?」
お母さんの眉がぎゅっと寄った。
「誰がそんなこと言ったの?」
「茉莉奈ちゃん。茉莉奈ちゃんのお母さんが言ってたんだって。花ちゃんは恋愛も結婚もできないかもしれなくて可哀想って」
泣くつもりなんてこれっぽっちもなかったのに、目に涙が溢れて花は自分で驚いた。慌てて手の甲で拭う。お母さんは呆れたように大きな声で言った。
「いやあだ、なに泣いてるの?ばっかみたい」
そう言われたら、もっと涙が出てきた。
「そんなくだらないことでめそめそすることないでしょう。恋愛だの結婚だの、子供のくせに馬鹿馬鹿しい。花ちゃんは、もっとしっかりした子だと思ってたのになあ。がっかりしちゃうわ」
お母さんは、わざとらしい、からかうような口調で言う。
花はしゃくりあげた。どうしてだかわからないけれど、辛くて胸が痛かった。
お母さんは苛々したようなため息をつき、今度は真面目な口調で言った。
「それは、世の中にはそういう考え方をする男の人だっているでしょうよ。でもね、そんな男はこっちから願い下げ!って思ってればいいの。だってそうでしょう?自閉症の子は嫌だなんていう人は、優しい心のない、悪い人に決まってるんだから。どんなに頭が良くて、成功している人で、花ちゃんや他の健常者に優しい人でも、光ちゃんみたいな子を嫌がったり、自分の子供が自閉症になったら嫌だなんて思うような人は、ダメな人よ。そんな人と結婚したいなんて、花ちゃんは思わないに決まってるから大丈夫」
「でも…」
涙を拭き拭き、花は言った。何か納得がいかない。でも何に納得がいかないのか自分でもよくわからない。頭の中を探りながら言葉を紡ぐ。
「つまり…他の人は…普通に…何にも心配しないで、たくさんの人の中から相手を選べるけど、私はそうじゃないってことなんでしょ?他の人よりも、恋愛とか結婚とかできる可能性が低くて…」
「へえー!そんなふうにネガティブに考えるの花ちゃんは!」
お母さんが皮肉っぽく遮った。
「光ちゃんのおかげでいい人が選べるから私は幸せだな、光ちゃんみたいな弟がいて私は恵まれてるな、ってどうして思えないの?」
「……」
花が黙っていると、お母さんの目つきが険しくなった。
「花ちゃんは、光ちゃんのせいで結婚できないかもしれないって言われて、光ちゃんのことを嫌だと思ってるんでしょう!」
「…そんなことないけど」
「『けど』?『けど』なんなの?自分の弟を嫌だなんて思うような子はね、誰とも結婚できないわよ!そんな汚い心は顔にも表れるから、そんな子のことはどんな男の人も絶対に好きになったりしないから!あなたみたいな子はね、一人で寂しく生きればいいんですよっ」
そう言い捨てて、お母さんはドアを叩きつけるようにして出ていった。ドアのこちら側にかけてあったリースが大きく揺れ、鈴が一つ取れてフローリングの床にバウンドし、悲しそうな音を立てて転がった。
「あっ」
花は急いで立ち上がり、銀色の鈴を拾い上げた。よかった、壊れてはいない。
可憐な白いデイジーの花輪に濃淡二本の細い空色のリボンをからませて、所々に銀の鈴をつけたリースは、この五月に学校の工作クラブで作ったものだ。先生が「これとっても素敵!お金出して買いたいくらい!」と褒めてくれた。
「痛かった?ごめんね」
手のひらの窪みにちょこんと載った小さな鈴に謝ったら、また涙で目の前が霞んだ。
大っ嫌い。
茉莉奈ちゃんも、お母さんも、大っ嫌い。
そのあと一日中、お母さんは口をきいてくれなかった。
お風呂から出て、いつものように居間のドアのところから
「上がりましたー」
と声をかけても返事なし。
「なんだ、また喧嘩したの?」
居間の向こうにあるダイニングから、遅い夕食を食べているらしいお父さんがちょっとおどけた口調で言うのが聞こえ、お母さんがフンと鼻を鳴らして、
「あんまり情けなくて口きく気がしないだけよ」
と聞こえよがしに答えていた。
いつもなら、お父さんに「お帰りなさい」と言いにいくところだけれど、花は踵を返した。
——また喧嘩したの?
階段を上りながら、花はため息をついた。
去年あたりからお母さんと喧嘩になることが増えていた。お母さんに言わせれば、原因は花が反抗期で生意気になったからということらしいが、花はお母さんにそんなふうに決めつけてほしくなかった。
反抗期?生意気?
どうしても納得がいかなかった。もっと、違うことが原因だと花は思っていた。
今年の二月。雪が降った日のことだった。
お母さんと喧嘩をした後に謝りにいったら、眉をしかめ腕組みをしたお母さんに、
「花ちゃんはこの頃お母さんの言うことにいちいちすぐに怒るでしょう。それがいけないのよ。そこを直さなくちゃだめ。いくら反抗期だって、そういちいち突っかかってこられて喧嘩になるんじゃ、お母さんだっていい加減嫌になるわ」
と言われ、真面目に反省した花は、自分の部屋に戻ってよく考えてみた。
どうして私は、お母さんの言うことにムッとしたりカッとしたりするんだろう…。
しばらく考えて、花はあることに気がついた。
花が何かについて自分の考えを真面目に述べたり、お母さんの言っていることの間違いを真面目に指摘したりすると、お母さんはいつも花をからかうような態度をとるのだ。
おどけた顔をして、またはニヤニヤ笑って、または馬鹿にしたように、
「へえー左様ですか」
「ふうーん」
「ま、ご意見ありがたく承っておきましょう」
などと言う。
機嫌の悪い時だと、それが
「ふん、なーに言ってるんだか!」
「くだらない!」
「まー随分偉そうな口をきくようになったわね!」
などとなる。
花はそれがとても嫌だった。そうやってからかうような態度を取られると、見下されているような、馬鹿にされているような気がしてしまい、腹が立って、「なんでそういうこと言うの⁈」などと口答えしてしまい、喧嘩になるのだ。思い出してみると、ほとんどいつも同じパターンだ。
そうか、これだったんだ…。
モヤモヤしていた心の中が、少し整理されたような気持ちになった。
しかし怒りの原因がわかったからといって、事態は好転しなかった。
これがお母さんの口癖なんだから仕方ない、悪気があってのことではないんだ、と思おうとしても、うまくいかなかった。馬鹿にされれば、どうしたって腹が立って口答えしてしまう。
口癖だから仕方ないというのは変だ、と花は思った。
赤毛のアンの第二巻『アンの青春』にも出てきたけれど、例えば周りの人をピンや針で刺しながら歩き回る人が、『すいませんね、これが私の癖なもんで』と言って、それをやり続けていいわけはない。
ピンや針を刺されて痛い思いをしている周りの人たちは、その癖を直すように、そんなことはやめるように、その人に頼んだっていいはずじゃない?「痛くて嫌だから、そういうことをするのはやめてください」って。
それで、桃の節句の日、花は意を決して、お母さんに、そういう態度はやめてくれるようにお願いしてみた。買い物から帰ってきたお母さんを手伝って、冷蔵庫やパントリーに食料をしまっていた時のことだ。
お母さんは、ひな祭りの歌をハミングしたりして機嫌が良さそうだ。花は、よし、と心を決めて切り出した。
「ねえ、お母さん」
「んー?」
「…あのね、私が真面目な意見を言ったりすると、お母さん、よく、からかうような、見下したような態度をとるでしょ。『へえー左様ですか』とか『ふん、なーに言ってるんだか!』とか言って」
「……」
ちらりと見ると、さっきまで柔らかだったお母さんの表情が固くなっている。
怒っている。
どきっとしたけれど花は続けた。どうしても伝えたかった。私は間違ったことはしていない、と思った。
学校の先生たちだって、お母さん本人だって、友達に嫌なことをされたら、嫌だからやめてほしいとはっきり言いなさい、っていつも言ってるじゃない。だからお母さんだってわかってくれるはず。
「私は真面目に自分の意見を言ってるのに、そういう態度を取られると傷つくし…嫌な気持ちがするから、やめてほしいの」
「……」
「私は別に、偉そうにしているつもりはないし、お母さんと普通に話したくて私の考えを真面目に話しているだけなのに、『ずいぶん偉そうな口をきくようになったわね』なんて言われると…」
するとお母さんは、不機嫌な顔で顎を突き出した。
「へいへい、わかりましたよ!」
乱暴な、馬鹿にしたような口調だった。
花は、驚き、困惑した。
花が予想していたのは、真面目な謝罪か、真面目なお説教だった。
真面目な意見を真面目な態度で聞いてくれないことに対して抗議しているのに、お母さんは何故またこんな態度を取るんだろう?
自分の言ったことがきちんと通じなかったのかもしれないと思った花は、
「例えば今みたいのもね、私が真面目にお願いしてるのに、そんなふうに…」
と急いで説明し始めた。するとお母さんが怒鳴った。
「わかったって言ってるでしょ!」
バン!と冷蔵庫の扉を閉め、お母さんはドカドカと足音をさせてキッチンを出ていった。ドスドスと階段を上がる音に混じって、「世話してもらってるくせに何を偉そうに!」という怒りに満ちた声がし、少ししてバターン!とお母さんたちの寝室のドアが閉まる音がして、家の中は数秒間シーンとなった。
すぐに、光の部屋が騒がしくなり始めた。光はお母さんの機嫌にものすごく敏感だ。「マルノウチセン!マルノウチセン!」と不安そうな声で繰り返し叫びながら、飛び跳ねている。
花はどんどん大きくなっていく光の叫び声とドスンドスンという音を聞きながら、しばらくの間ただ呆然と立ちつくしていたけれど、ショッピングバッグの中に冷蔵庫に入れなければいけないものが残っていないかどうかだけ確認し、そのままキッチンを出て自分の部屋へ向かった。残りはお母さんが後で一人で片付ければいい、と思った。お母さんのためになんか、もう何もしたくないと思った。
光がたてている騒音に隠れるようにして、静かに素早く階段を上り、お母さんたちの部屋とは階段を挟んで反対方向にある自分の部屋に入ってドアを閉め、苦労して勉強机を動かし、バリケードのようにドアにくっつけた。これでもしお母さんが入ってこようとしても防ぐことができる。
いつもの位置にポツンと残された椅子の上に膝を抱えて座った。
大きなため息が出た。
なんだか、何かが永遠に壊れてしまったような気がした。
あのひな祭りの日から、花の中で、お母さんという人の存在が変わり始めた。
それまでは、お母さんは普通に「お母さん」でしかなかった。厳しくて、きついことも不公平なこともいっぱい言うし、よく喧嘩もするけれど、でも一緒におしゃべりしたり笑ったりもする、大好きな「お母さん」という存在でしかなかった。
でもあのひな祭りの日に、今までお母さんを見る時にいつも必ずそこにあった「お母さん」という仮面が外れた。花はその下から現れた顔を注意深く眺めた。
こんなひどい振る舞いをするこの人は、一体どういう人なんだろう、と花は考えた。
ずいぶん子供っぽい、自制心のない、威張った、乱暴な人だな、と思った。
この人のことを、好きだとは思えない気がした。
でも好きでいたかった。仲良しでいたいと思った。離れてしまうのは嫌だった。
大好きな「お母さん」を失うのは嫌だった。
「この人」なんかじゃなく「お母さん」でいてほしかった。
冷たい気持ちになるのは嫌だった。温かい気持ちでいたかった。
私が我慢すればいいのかな、と花は思った。できるだけ生意気なことを言わないようにして、喧嘩にならないようにして、仲良くしていければいいんだよね、きっと。
…でも、どうしても喧嘩になってしまう。
——なんだ、また喧嘩したの?
——あんまり情けなくて、口きく気がしないだけよ。
お父さんとお母さんの声が頭の中で繰り返される。
自分の部屋のドアをそっと閉めて、花はため息をついた。
どうしてもうまくいかない。何かがおかしい気がする。…でもどうしたらいいのかわからないし、何がおかしいのかわからない。
カーテンの隙間から入ってくる街灯の灯りが、机の上に光の筋を作り、その中にぽつんと一つ置かれた銀色の鈴が静かに光っていた。
「明日、ちゃんとまた縫い付けてあげるからね」
机の前に寄って、花は小声で鈴に言った。
「ひとりぼっちは寂しいもんね」