第一章2 『とある冬のはじまり』
『猛きものを勇者と呼ぶのならば、
底なしの臆病もののことを魔物と呼ぶのだろう』
――シュテリア・ホームレンプ――
著書「勇者とは何か」から
「生まれたって、元気な男の子だよ!」
「おおっ!」
井戸に向かって祈りの儀式をしていた村の男と子供たちは一気に歓声を上げた。
あちこちからあのローマンが二児の父親になるのかだとか、今夜の祝い飯はなんだろうかと声が上がる。
赤ん坊の父親であるローマンは、赤ん坊と出産間もない妻のリーリエの傍を離れられないので、今夜の祝いの準備をするのは男たちだ。
男たちはさっそくテオと名付けられた赤ん坊を一目見ようと中をのぞき見ようとするが、扉が開かれ黒に近い茶髪のウドが顔を出して注意する。
「赤ん坊を見たい気持ちは分かるけど、みんなに祝いの準備をしてもらわなきゃ困るんだ! 中途半端な祝いじゃテオが可哀そうじゃないか。それに今はまだ母さんやテオには会えないんだから、早く準備に取り掛かってくれよ!」
「ウドにそう言われちゃあ、しょうがねえよなあ。ほら、さっさと準備して赤ん坊をこの村に迎え入れてやらんとな」
「ありがとう、みんな」
赤ん坊の兄であるウドに言われちゃしょうがない。
それも、まだ子供のウドに言われちゃ。
男と子供たちが動き出したのを見ると、ウドは家の中には入らず、完全に外に出てしまった。
手伝いをするわけではない。
これからウドは『薬の魔女』のところにいかなければならないのだ。
これから薬の魔女のところに行かなければならない。
もし行かないようであれば、新しく生まれたばかりのテオはそう長くは持たない。
ウドが知っている薬の魔女のところに行かなければならない理由はたったそれだけだ。
しかし、同時にウドが薬の魔女のところに行かなければならない理由はそれだけで十分だ。
ウドたちが住む村の中心からは少し離れた、北のミロム山のふもとにある木造り小屋の丸い扉を叩くと、中からは水の音と花の香りがだたよってくる。
お入り、とでも言わんばかりに扉が開かれ、ウドは動いていないのに小屋の中にしまわれてしまう。
中にいる老婆こそ薬の魔女本人である。
「これはこれは、新しい命が生まれたということか?」
「は、はい! えっと、名前はテオって言って、おれの弟です」
「リーリエとローマンの子供だったな――アジッタとホメェルが混じるなどこれ以上はならないと言ったはずなのに……」
「え、ええっと……?」
薬の魔女の言葉は幼いウドには理解できない。
しかし、言葉の全てを説明するのは面倒なようすで、困惑するウドを傍目に薬の魔女は棚のあちらこちらにある瓶や植物をとっては、かばんの中にいれていく。
それを興味深そうにウドはのぞき込むが、もちろん説明はない。
「新しい命が芽生えたんだ、わたしも現役時代を思い出してもう少し働くとするか」
「早くしなきゃ、テオが死んじゃいます! お願いします!」
「ああ、変なことを言われたんだろう? そんなに心配することじゃない。薬の魔女に治せないことはそうない。病気であればの話だが」
「びょうき……? グォルガムなんかは……?」
「グォルガムなんて古い言葉を使う子供もいるのか――ああ、リーリエの子供だったね。穢れぐらい知っているか」
「あの、それで」
「いや、グォルガムなんてものはわたしの範疇外だよ。ちょっとやそっとの知識でなんとかできるようなもんじゃない。少なくともこの村では祓うすることはできないだろうね。水の都まで行くんだったら別さ。あそこにはわたしなんかよりもずっと優れた魔女がうんといる。祓うぐらい簡単なことさ。さ、早く行くよ乗りな」
差し出された手に困惑するウド。
乗りな、と言われても何も乗るようなものはない――そう口にしようと思った瞬間だった。
ウドの視界が縦横無尽に揺れだし、右に左にくらくらしたかと思えば気付いたときに着いていたのは村の中央にある井戸だった。
「い、今のはもしかして」
「そうだよ、移動の魔法だよ。魔女だけが使える絶対の法則だよ」
老婆は年不相応ともとれる無邪気な笑みを浮かべると、魔法による移動に慣れておらず、乗り物酔いをしたような状態に陥っているウドのことなんか気にも留めず、赤ん坊テオが待つ家の中へ入っていった。
ウドの頭がさえてきたころには、家の中はすでに盛り上がっていた。
大人たちの手に小さな杯があるところを見るに、どうやら酒を飲んでいるらしい。
祝い酒だと薬の魔女が準備したものだった。
「おや、ウド。『魔法酔い』はすぐに治ったねえ。家族が全員揃ったところだし、村長もいるところだし、さっさと誕生のお祝いをしてやろうかね」
杯を持った大人たちに一歩下がるよう命じて、かばんの中から薬の魔女は大きな杖を取り出す。
(そ、村長のことをじじい呼びするだなんて薬の魔女って一体何者。しかもどう考えてもあんな大きさの杖なんてかばんの中に入るわけないのに、魔法ってすごいや)
「水の神よ、新たなる神の民の誕生に祝福を」
杯から水があふれ出したかと思った瞬間――――即座に部屋が水で満たされていく。
息ができなくなる。
直感的にそう思って息を止めてみたウドだけれど、薬の魔女から「大丈夫だよ」と声がかかり、恐る恐る目を開けてみる。
(なんて美しいんだろう……)
家の中にいるはずなのに、目の前に広がっているのは確実に水の世界だ。
きらきらと泡沫のようなものがどこからか浮き出ては消えていく。
ウドにとっての水と言って連想させるものは村の西側を通っている川と中央の井戸と水がめぐらいのものだが、これはそのどれとも違っていた。
むかし、村にやって来た商人たちに見せてもらった輝く石のようなきらめきを水が持っていた。
ちっちゃなウドの体の何十倍もある量の水が一気に動き出したかと思えば、薬の魔女が持っている大きな杖に向かって集まっていく。
どんどんと水がなくなっていき、やがて杖の頭部につけられている淡い青色で書かれた記号が光ると完全に水はなくなった。
記号から光がふわふわと浮かび始め、母親が抱くテオの額に向かっていった。
「うわあ……」
思わず声を上げてしまった。
それぐらいウドには綺麗で、初めて見る光景だったのだ。
父親のローマンも村長も産婆も素敵――という顔をしているが、ウドのように純粋に驚いて感動しているわけではない。
「これで終わりだよ。テオの健やかなる健康を祈っているよ。テオの健康状態や産後の経過観察をしたいから、五日にいっぺんはこの家に訪れるよ。何かあったらすぐに小屋に来るんだ。病気じゃなかったとしても、ちょっとでも違和感を感じたらだよ。分かったね」
「分かっていますよ、薬の魔女さま。この度もお救いいただき、ありがとうございました」
「それがわたしの仕事だからね。それじゃあ――――」
「待ってください!」
別れを告げようとする薬の魔女の言葉をウドが遮る。
声は震えている。
緊張からくる震えだろうか。
「また、魔法見せてくれますか?」
違ったようだ。
感動からくる震えだったようだ。
薬の魔女は鷹揚にうなずいた。
「当たり前だよ。それがわたしの仕事だからね」
今度は薬の魔女は本当に帰っていった。
――――これが、大魔法使いウドの誕生の瞬間だった。