春が咲くなら
そよ風が頬を撫でる。宙を舞っていた桜の花びらが一枚、肩の上にひらりと乗る。下ろしたてのショートブーツはまだ固くて、くるぶし辺りが擦れて少しだけ痛い。春の陽気に浮かれるような歳ではもうないのかもしれないけど、生まれて二十八度目の春を、私は身体全身で感じた。
マルティン・ハイデッガーは言った。世界の価値は、世界の外側になければならない。ごめん、嘘。これはルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの言葉。彼は言語哲学と分析哲学に大きな影響を与えた哲学者で、Wikipediaの顔写真が無駄にカッコいい人。そして、大学時代に教養哲学の単位を落とした私の見立てからすれば、彼は深い思索の果てに、神への祈りにたどり着いた人。ウィトゲンシュタインで思い出したけど、『シニフィアン』って言葉があるじゃん。あれって、何かお上品な喘ぎ声っぽくない?
買い物のため駅前まで歩いていく。地面に落ちた影はいつもより濃くて、日向部分はいつもより白い。風は湿気を帯びていて、暖かい。歳を取るにつれて失うものもあったけれど、昔の私では気にも留めなかった季節の匂いを、今ではこうやって楽しめるようになった。昔の私は今の私とは少し違う。生きる意味とか、人生の正解だとか、そんなことばっかり考えていた。
生きる意味を必死に探して、考えて、心の隅で生きる意味なんてなさそうな他の人をバカにして。だけどその刺々しい感情は、ブーメランのように私に返ってきて、結局は自己嫌悪の肥やしにしかならなかった。決して楽しいとは言えなかったその当時の人生というものを、自分なりに何とか正当化しようとする認知的不協和。苦しみながらも生き続けないといけない残酷な事実に、何か意味があって欲しいと思いたかった。生きる意味という漠然としたものでよかったから、すがりつける何かが欲しかった。今になって振り返って見ると、昔の私もいじらしいところあるじゃん、ってそんな優しい気持ちになれる。
昔ほど必死に物事を考えなくなった今の私は、昔の私からしたら軽蔑に値する人間なのかもしれない。別に今の私が正しいとは思わないし、昔の私は昔の私で、きっと正しいところもあったんだろう。でも、何が正しいかということにそこまで潔癖ではなくなった今の私は、そこまでシリアスにはならなくてもいいんじゃないって、昔の私の肩を優しく叩いて伝えてあげたい。昔から色んなものを失って、それとは別に色んなものを手に入れた。今の私と昔の私の重さを天秤にかけてみる。天秤が左右に揺れて、今の私に傾く。重さの差は約8キロ。それはちょうどここ十年で増えてしまった体重。もっと暖かくなったら、運動を始めよう。私はお腹に手を当て、そんなことを考える。
信号で立ち止まる。向かいの交差点に、若いお母さんと小さな男の子が並んで立っている。男の子は五歳くらいで、その小さい手でお母さんの手を強く握りしめている。可愛すぎて、拉致ってやろうかと冗談交じりに思ったりしてると、二人の後ろから、お父さんと男の子より二、三歳年上の女の子が合流する。信号が変わる。彼らは四人揃って歩き出す。すれ違う一瞬。仲睦まじい会話が聞こえてくる。微笑ましくて、羨ましくて、それからちょっぴり胸が締め付けられる。
今更どうしようもないことだけど、私の生まれ育った家庭環境はお世辞にもいいとは言えなかった。そのことを恨んだりもしたし、本を読み漁って、私の息苦しさの原因が家庭環境にあるのだと決めつけたりもした。でも、私の今の苦しみが、小さい頃にあまり愛されなかったことに起因するものだとして、その事実が私を苦しみから救い出してくれるわけではなかった。むしろ、今の苦しみは私のせいじゃなくて、他の誰かが悪いんだって思うことで、私は私じゃない他の誰かから救われるべき可哀想な人間なんだっていう心地の良い被害者意識と悲劇のヒロイン意識が導かれるだけ。でも、私が悪くないとして、私以外の誰かが悪いとして、だからといって、私以外の誰かが私の人生を変えてくれるわけじゃない。原因が私以外にあったとしても、私の人生に対する責任は私にしかない。被害者意識にがんじがらめにされた私がそのことをちゃんと受け止めて、みんなより遅めの一歩を踏み出すのに、あとどれくらいの時間がかかるのだろう。
買い物ついでに、コンビニでチューハイと焼き鳥と申し訳程度のサラダを買って、家に帰る。推しのユーチューバーの動画を見ながら食事を取って、コメント欄で重たい愛をつぶやく。湯船に浸かりながら流行りの音楽を口ずさんで、お風呂から上がったらお肌のお手入れをして、髪を乾かす。スマホをいじっていたら、いつの間にかもう寝る時間で、歯磨きをしてから寝床に入る。
こういう毎日を繰り返しながら、私は年を取っていって、結局何者にもなれないまま死んでいくんだろう。昔の私は何者にもなれない人生に恐怖すら感じていたけれど、今は一日一日を無事に過ごすのに精一杯で、そんなことを考える時間もない。それに、もし仮に私が何者かになれて、私は何者でもないという苦悩を解決することができたとしても、きっと今度は私が何者かであるという事実から生まれる苦悩に苛まれることになって、それを解決するためにまた、今と同じような恐怖と戦いながら、何も見えない暗闇の中でもがき続けなければならないのだろう。
そうであるならばいっそのこと、何者かになることによって、私が抱える全ての苦悩が魔法のように消え去るのだろうという淡い幻想を抱きながら、澱のように心の底に溜まった自分の気持ちと、気楽気ままに付き合っていきたい。きっと、その方が私らしいし、できるのであれば私らしくあることを一番大事にしていたい。私が何者にもになれないのだとしても、私らしく生きることはできる。私が何者かになるためには、思い通りにはいかない私以外の誰かが必要だけれど、私らしさを決めるためには、少なくとも私一人がいれば十分だから。
LINEの通知音が鳴る。身体を起こして、確認する。大学卒業以来、連絡を取っていない友達からの、今何してるのメッセージ。彼女のことは別に嫌いではなかったけれど、寝てたふりをすることに決める。部屋の電気を消し、暗がりの中でスマホを手にとって、明日の天気を確認する。掛け布団を肩まであげて目をつぶる。まだ冷たい布団の中で身体を動かしながら、私は先程見た天気予報を頭の中で繰り返す。
明日は曇のち晴れ。今日より少しだけ暖かい一日になるでしょう。