第八十二話:戦いに向けて
遼陽での日露両陸軍の会戦が迫っている。日本陸軍は、第1~3軍の他、新たに第4軍を加え、戦いに臨もうとしていた。
とは言え、その兵力は第10師団と後備歩兵第10旅団、第2軍から引き抜かれた第5師団である。軍司令官の野津道貫大将は、戊辰戦争からの軍歴で、先の日清戦争でも山縣有朋の後任で第1軍司令官に抜擢され、戦上手として陸軍内での評判は高かった。
8月5日の時点で、第1軍は遼陽から東の藍河に位置し、第2軍と第4軍は街道に沿って遼陽から南の海城にあった。そして、第3軍は満州軍総司令部と合流して遼陽に向かっていた。
「旅順の戦い、ご苦労様でした」
陣中で満州軍総司令官の大山巌大将が表敬に訪れた兒玉十三朗に言った。
「旅順の要塞と艦隊は今だ健在ですが、乃木さんに任せておれば大丈夫でしょう」
十三朗が言うと、「旅順はだいたいどの位で落とせる?」と、総参謀長の兒玉源太郎が聞く。
「年末には落とせるだろう」
「そんなにかかるか」
と、十三朗の問いに兒玉源太郎は眉を寄せ、腕を組んだ。
「乃木さんの手持ちの兵隊と弾薬だけでは、要塞の力攻めは無理だ。兵糧攻めが一番の方法だ」
「十三朗さんの言う通り、乃木さんに任せれば問題ないでしょう」
と、二人の話に入るように大山は言った。手にしていた扇を広げ、汗を流す顔に扇ぐ。
「さて、ところで」と、兒玉源太郎が切り出して、「せっかくお前が来たんだ。今後の作戦について話がある」
そう言って、側の大机の上に広がる作戦図に場所を移し、現在の戦況を話した。大間かな状況は、十三朗の知るところであったが、総司令部も遼陽のロシア軍の配備については情報が曖昧で苦慮していた。
第2軍及び第4軍は、ロシア軍の正面から攻勢させ、第1軍は東の山岳部から側面を攻める作戦が立案されている。
「第3軍についてだが」
兒玉源太郎は、第3軍を戦略予備として運用するか、最左翼に配置して第1軍と共同でロシア軍の側面を脅かし正面攻勢のための補助攻勢に当たらせるか、と考案していた。
「なるほど」
と、十三朗は腕を組んで作戦図を眺めた。敵の配置や規模等がこれまでの騎兵の情報によって、所々に記されている。
最左翼に配置された第2軍の正面には、鞍山站とその奥に首山堡と呼ばれる高地があった。この二つの高地のロシア軍の配置の記載が曖昧で、「二つの高地のどちらかが敵の主陣地だ。これを無視して第2軍の進撃はできない」と、兒玉源太郎は自軍に見立てた駒を動かしながら続けて、「どの高地にしろ敵の防御は固い。奥の軍は攻め倦ねるだろう。そこで、お前の第3軍を予備兵力として取って置くとして、奥が容易に落とせるのであれば西から迂回してロシア軍の背後を攻撃してもらいたいのだ」と、力強く述べた。
「だったら、予備にしろ搦手にしろ兵隊と大砲が足らん。何処かから少なくとも1個師団は都合はつかんのか?」
と、十三朗は言った。第3軍は第1師団を旅順に残地させ、第9師団と第11師団の戦力しかない。第7師団を編成に加える予定であるが、遼陽の戦いには間に合いそうにない。
「生憎だが、わしらには後備歩兵1個旅団しか手持ちはないのだ」
「砲兵も無理か?」
「悪いが手持ちは無い」
と、十三朗の要求は尽く却下されてしまい、ため息をつきながら、「クロパトキンめ、短い間に沢山の兵隊をヨーロッパから運び込みよって」と、言葉をもらした。