第八十一話:遼陽へ
児玉十三朗の率いる第3軍主力は、満州の前線に向かう途中にあった。鉄道を全力で用いる一方、数万の将兵の殆どは徒歩による行軍だ。
8月の中国は雨季の最中であり、雨水による道路の泥濘で兵馬の足は遅く、加えて夏期の熱気と湿気でいたずらに軍内の士気を下げ、時間と糧食を費やすばかりだった。
第3軍が目指す遼陽の都市郊外の一帯にロシア軍は長大な防御陣地を構築していた。その戦力はシベリア第1~4軍団、第10・17軍団からなり、兵力は22万に達しようとしている。
対する各日本軍部隊も遼陽に進軍を続けていた。第1軍は、ロシア軍との戦闘を交えながら鴨緑江を渡り、朝鮮から中国に入り、長白山脈の支脈である千山山脈を進んだ。
その後も敵警戒部隊との戦闘を続けながら、6月30日には遼陽から約100キロの位置に達しロシア軍と対峙した。
対してロシア軍は、フョードル・ケルレル中将を指揮官に鴨緑江会戦で被害を受けたロシア軍部隊を再編成し日本軍への反撃を行った。
7月17日、日本軍の守る摩天嶺を攻撃した。ここは布陣する第1軍の中央にあたり、砲撃と兵力を集中して突破を試みた。しかし、陣地を守備する日本軍第2師団は、半月かけて防御陣地を堅固なものとしており、偵察活動から敵の主攻撃目標になることも事前に察知していた。斯くして、ロシア軍の猛攻を防ぎ逆襲により撃退した。
30日には、日本軍の反攻が行われ、ロシア軍陣地への攻撃を実施するが、山間部での戦闘から部隊の進軍は思うように進まず、砲撃戦が活発に行われた。翌31日、日本軍の砲弾が前線にあったロシア軍司令部で炸裂し、ケルレル中将は命を落とした。この結果、ロシア軍の戦意は急落し、8月1日に陣地を放棄して退却を開始した。
これにより、第1軍は目の前のロシア軍が自然消滅したことにより遼陽への足掛かりが出来たのである。
一方で、第2軍は南山から得利寺の戦いで予想外の消耗に陥り、戦闘の都度補給を待ち、進軍の遅滞が続き、大本営から度々催促が届く始末だった。これは、日本軍が本格的な近代的兵器と用兵術を用いた列強との戦争に対する認識が欠如していたことにある。その上で、戊辰戦争からの戦闘経験豊かな奥保鞏大将は動じる事なく最善を尽くして軍を動かしていた。
補給を整え再び動き出した第2軍は、7月24日に大石橋に布陣するロシア軍シベリア第1軍団及び第4軍団を攻撃した。ロシア軍の砲兵は強力で、日本軍の前進を阻み、死傷者が続出するばかりだったが、翌25日には陣地を放棄して後退を開始した。
ロシア軍にとって大石橋は恒久的な陣地でなく、日本軍の時間稼ぎを目的とした大きな警戒線に過ぎず、遼陽の本陣地での撃退すべきとの計画的な撤退であった。
ともあれ、第2軍の正面のロシア軍は去っていったのだった。