第七十六話:追走劇
東への回頭を済ませた第1戦隊は、再び『三笠』を先頭に旅順艦隊への二度目の丁字戦法を実行するため接敵を試みた。
両艦隊は、ハの字を書くように平行しながら約6千メートルの距離にあった。
「撃ち方、始め」と、東郷が言った。各艦の主砲が一斉に火を噴き唸りを上げた。目標は先頭の『レトヴィザン』である。ここにきて、いよいよロシア艦隊も反撃を行い、日露艦隊の砲撃戦となったが、時間が経つに連れてロシア側のどの艦も日本側以上の被害を被りつつあった。砲術練度においても日本海軍に分があったからだ。
ヴィトゲフトが艦隊を左に回頭させ、戦闘から離脱する指示を出した。旅順艦隊は再び第1戦隊とすれ違うように日本艦隊と距離を開けた。
「敵艦隊は旅順に引き返すのか?」
この時、砲雷の轟音が鳴り響き、海面から幾多の水柱が続けざまに立ち上がる戦場で彼方のロシア艦隊の動きが、さも引き返すのか様に日本側から捉えられた。
しかし、これがウラジオストクに向けた逃避行のための退避運動であったことに直ぐに気付いた者は無く、「敵はウラジオストクへ向かっている」と、その意図を察知するのに数分間を費やしていた。両艦隊の距離は既に3万メートルも離れている。
時刻は午後15時を過ぎていた。砲撃を止め、第1戦隊は艦隊を回して追撃に移る。この追走に約二時間も費やす事になるが、連合艦隊司令部は生きた心地がしていなかった。
旅順艦隊を取り逃がすことになれば、開戦来の犠牲と消耗が全て無駄になり、ロシア本国艦隊の増援が加われば形勢は一気に不利になり連合艦隊や日本の海上航路が危険に瀕してしまう。そうなれば、陸軍への兵站は貧弱になり日露戦争そのものの遂行に大きな影響をあたえてしまうのだ。
日が傾き始めてきた午後5時半頃にようやくロシア艦隊を捕捉し、射程圏内まで追い付いた。しかし、日本側のどの将校も気は晴れていない。敵艦隊にまだ一隻も損失艦が出ていなかった。
「日没までに勝負を着けたい」
逃走のための戦闘を繰り返す敵に日本艦隊は、旅順艦隊の撃滅を出来なくとも、旅順港への退却に持ち込みたかった。夏の日没は7時過ぎて暗くなる。そうなれば、闇夜に乗じて敵の逃避行は容易になってしまうのだ。
やはり、敵の動向を取り違えたための2時間の浪費は痛かった。
両艦隊が横に並び航行しながら再び砲撃が行われた。
旅順艦隊のヴィトゲフトにとっても決して余裕は無かったが、日本艦隊の攻撃に耐えて逃げ切れる目処が立ったのだ。