第七十五話:丁字戦法
艦隊旗艦『三笠』を先頭に、続く『朝日』、『富士』、『敷島』は日本海軍が揃えた新鋭戦艦で、第1艦隊第1戦隊は連合艦隊の花形部隊だ。
第1戦隊には元々6隻の戦艦が配備されていたが、旅順口沖を哨戒中にロシアの機雷に触雷して2隻喪失した。この穴を埋めるために第3艦隊から装甲巡洋艦『春日』と『日進』─共にイタリア製─が戦列に組み込まれた。排水量7,700tと第2戦隊の9,000tクラスの主力装甲巡洋艦等には及ばないものの、その搭載する艦砲は25センチ─『春日』のみ─から20センチ砲は他の同世代装甲巡洋艦に劣らない武装であった。
しかし、開戦来の戦闘で日本艦隊もロシア艦隊同様に母港への帰港が行われないままの状況が続いていた。十分な設備を整えた敵地に近い港湾の当ては無く、どの艦も外見の傷みが見えており、ボイラーの煤は取り除かれず、艦底にたくさんの蠣が付着している。こうした中で出動態勢を維持していたが、十分に整った状態とは程遠いのが現状で、旅順艦隊との対決に挑もうとしていたのだ。
東シナ海から中国大陸に向かい流れる黒潮に逆らいながら、午後12時半頃に旅順沖から約43キロの地点で日本艦隊主力が旅順艦隊を補足した。東郷以下の幕僚は艦隊艦橋の上甲板に上がり指揮をとる。
海域には第1艦隊の第1戦隊と第3戦隊の他に第3艦隊主力の第5戦隊と第6戦隊があり、数的戦力では日本側がロシアを上回っていたが、どの艦も火力、速力、排水量のどれかで性能に劣る巡洋艦や一線を退いた旧式艦で占めおり、敵の補足と追跡、妨害が任務であった。
北西から南進する旅順艦隊を北東から第1戦隊が会敵する様にして、日露戦争における黄海の海戦が始まった。日本艦隊が挑発を兼ね牽制射撃を行い敵の出方を伺うも、ロシア艦隊は反撃のための艦隊運動は取らずウラジオストクへ向かう航路を進もうとしていた。
この時、連合艦隊司令部の腹の内の作戦は、敵艦隊の進路を遮り全艦の一斉射による集中攻によって敵艦を先頭から撃破していくものであった。所謂『丁字戦法』と呼ばれる戦い方だ。
最初の機会が訪れたのは、午後1時を過ぎた頃だ。艦隊最後尾の『日進』が旅順艦隊を横切ってから「艦隊左8点一斉回頭」と、東郷が指示を出した。
『三笠』のマストの信号旗が上がり、それを確認した後続艦が後ろの後続へと同じく信号旗を上げる。これによって、縦一列に進む艦隊は各艦が同じタイミングに左へ90度舵を切り横隊となり一時的のロシア艦隊に背を向ける様に進んだ。
そして、「左8点一斉回頭」と、10分後に東郷が再び同じ指示を出す。艦隊は再び90度向きを変え、『日進』を先頭に一列となりロシア艦隊の先頭を塞ぐようにした。この時の両艦隊の距離は約1万メートルである。
「今の我々と東郷の艦隊とでは、実力に差がありすぎる」
と、目の前で日本海軍の高度な艦隊運動を目の当たりにした『レトヴィザン』に乗艦するヴィトゲフトは艦隊を東へ転針させ、西方向に進む第1戦隊とすれ違いするように日本艦隊との戦闘を避け戦域の離脱を図ろうとしていたのだった。
「旅順艦隊を取り逃してはいけない」
真横をすり抜けていく敵艦隊を『三笠』の上甲板から、眺めていることしかできない東郷達であったが、「右16点一斉回頭」と指示を出したのは午後1時30分を過ぎてからだ。