第七十ニ話:旅順落日
「艦隊は直ちにウラジオストクに回航せよ」
と、サンクトペテルブルクからの勅命が旅順要塞に送られたのは8月7日のことであった。
ロシア本国では、当初こそ日露戦争を名目に南下政策の完成を目指し反体制力を押さえて極東に兵力を派遣し、国家事業に多額の血税が投入される。ところが、日本軍の侵攻は防ぎ切れず、戦いの行方は予想外の長期化となり、更なる兵力の極東派遣を招いた。
これにより、血税の強要を強いられる国民の不満は募り、7月28日に内務大臣ヴャチェスラフ・プレーヴェの乗る移動中の馬車が都内で革命派の襲撃により命を落とす。
彼は、対日強硬派として日露戦争開戦に賛成を示しており、大臣としての政策は、反体制派を徹底的に弾圧し、強引な手腕による地方行政の管理は多くの敵を作ることになっていた。
大臣を暗殺された帝政内の衝撃は大きく、特に皇帝ニコライ2世は軍部の報告とは裏腹に日本軍との度重なる陸海軍の連敗に加え内政を揺るがす事態に戦争の行く末に不安が過り出していた。
要塞内では、連戦連敗続きと日本軍の圧力に将兵のストレスは限界に達していた。加えて、夏期の気温上昇による暑さの中の軍事行動から揉め事や体調不良を訴える者が日に日に増えていた。
旅順のロシア陸海軍は、日本軍に包囲されてから以後の善後策を繰り返し協議してきたが、これまでの戦闘によって被害を被り孤立無援となった陸軍は、その原因となる艦隊の籠城を妬ましく見ていた。
「艦隊はいつまでも港内に留まっているのか?」
と、言うのが旅順要塞司令官のアナトーリイ・ステッセリ中将だ。
旅順艦隊司令官であったステパン・マカロフ中将が、4月13日に旅順口沖で乗艦する『ペトロパヴロフスク』が機雷触雷による撃沈によって戦死してからは、臨時艦隊司令官に就いたのは次級者のヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将である。
彼は、先任者のマカロフ中将の限定的ながらも攻勢的な姿勢だったのとは対照的で、旅順要塞の沿岸砲に防護されながら旅順口内の港内にひたすら隠れてきた。
「本国艦隊の増援を待って日本艦隊を退けるのが海軍の基本方針である」
と、ヴィトゲフトが戦略を述べてもステッセリは小者を見下すよにして否定的な意見を吐き続ける。
「では、ウラジオストクに移動すれば良いではないか」
「日本艦隊に阻まれてしまうので無理だ」
「それは貴官の指揮が下手だからではないか?」
いよいよ堪忍袋の緒が切れたヴィトゲフトは、椅子から立ち上がると腰のサーベルを握った。これに慌てて隣席する幕僚が抑えて宥める。一発即発であった。
旅順艦隊が、連合艦隊と刺し違える覚悟で戦いを挑んだとすれば、両艦隊の軍艦が黄海の海底に沈んでいくことになるだろう。仮にそうなれば、連合艦隊が被る損害は後のロシア本国艦隊との対決を考える上で致命的である。また、旅順艦隊のウラジオストクまでの活路も開けただろう。
日露戦争の推移を変えうる決断をヴィトゲフトが拒み続けたのは、戦果よりも損失に重きを置いたことにあった。高額な軍艦を失うことによるロシア海軍内での自身の発言力の失墜を恐れた。