第七十話:日章旗
二夜三日の戦闘は兒玉白朗の中隊にも相当の死傷者が出ていた。どの小隊も分隊以上の損害がでており、他の中隊や小隊の残存兵力を加えて戦力を維持していた。
個人に関しても、寝ずの晩の戦いで怪我や筋肉痛の無い者はいない。食事も録に取らず疲労も溜まって、気力で戦闘に従事するのが殆どだ。
誰の顔も剃った髭は濃くなり、汗や泥で汚れ、軍服も汚くグシャグシャである。
それでも皆が命令に従い着いて来た。
これまでに幾つかのロシア軍陣地を攻撃し、突破して進んできたが、何度も同じような戦いを繰り返してきてため、疲れ溜まった白朗の頭では今どこで戦っているか、うやむやになっていた。
取り合えずも、目の前の斜面上の敵前が味方の砲弾により爆発と土煙に覆われ、熱い爆風と一緒に細かな小石が顔に跳んでくる。
「突撃!」
と、最終弾の弾着に合わせてに待つサーベルをかざして、大声で合図を出す。しかし、銃声や砲声、爆音が間断なく鳴り響く戦場の中での人の声など10メートル先も届かない。
だが、白朗に従う男たちは彼を見ていた。中隊長が身を乗り出して走り出す。これに合わせ中隊が突撃を始める。
土煙の中を登り上がる。地面の凹凸に足を取られながらも走ったのだ。
躍進距離は長くはなかったが、突撃する彼らには戦場の緊張や興奮から長い時間と体感している。
その先には開けた頂上にたどり着いた。敵兵は一人もおらず、残された火器や弾箱が幾つも散らばり数体の遺体が放置されている。ロシア兵は日本軍の砲撃が止んだと同時に陣地を放棄した。
「藤野はいるか!?」
「はい、ここに!」
白朗に呼ばれて藤野一等卒が走ってきた。有刺鉄線に引っ掻けたのか、上着が酷く破けている。
「旗は無くしてないだろうな?」
「大丈夫です」
と、藤野は上着を開けて腹に巻いたシワシワの日の丸の旗を出した。
「よし、味方の方に振りかざせ」
「分かりました!」
大きな声を出して応答した藤野は、味方の方角に合わせて日章旗を銃の銃身と銃床に結んで頭上に掲げ振りかざした。
それから白朗は、双眼鏡で辺りを見渡した。見える眺めは、手前から市街地があり、その先には湾内の海が広がり、奥には黄海が広がる。湾内の隅には大小の鉄の塊の粒が幾つもの係留されているのが見えた。そして、雑嚢から地図と方位磁石を取りだし改めて現在地を確認する。
暫くして、後続の通信隊が有線を伸ばしてきて電話機を置いた。通信兵が動通確認した後に、受話器を白朗に渡した。送信機の手回しレバーを回転させて受話器を耳に当てた。
「軍司令部だ。見えるか敵艦隊は?」
相手の声がハッキリと聞こえた。機械越しから届くのは父親の声である。
「こちらは、歩兵第1連隊の兒玉白朗少尉であります。二百三高地の山頂から旅順港全域を一望できます。旅順艦隊の全力を確認できます!」
「万歳!」と、誰かが両手を上げて歓喜のあまり叫んだ。すると、周りの兵卒たちも釣られて声を上げて万歳をする。誰かが止めようともせず、腹のそこから力一杯に叫ぶ声の中に涙声も幾つか混ざっていた。
その声は電話越しから兒玉十三朗にも届いた。
「二百三高地の防御を固めるように」
と、十三朗はそれだけ言って司令部の置かれた建物の外に出た。前線で炸裂した火薬の臭いが風に流されて漂っている。
彼の眺める方向にニ百三高地がある。しかし、距離が遠く幾つかの丘に阻まれ直接現場を見ることはできなかった。だが、山頂に日の丸の旗が靡き、生き残った将兵たちが今も万歳と叫んでいる姿が目に浮かんでいた。