第六十九話:戦場の女神
歩兵部隊の前進開始は準備砲撃の最終弾の着弾から行われた。斜面を登り上がる日本兵は、50メートルもない距離のロシア軍陣地に殺到した。塹壕に乗り込んだ兵隊は敵に止めを差して一掃する。そして、次の第ニ線陣地、第三線陣地に向かうのだ。
突撃する日本軍を襲うのは破壊を免れた地雷やロシア兵、後方の本要塞に備われた砲弾である。爆発した地雷の痕を進み、反撃をするロシア兵を射殺する。しかし、頭上から炸裂する榴弾には手も足もでない。細かな無数の破片が日本兵の集団をなぎ倒す。
部隊の指揮所に次々と戦果報告が届き、戦果拡大に移る旨が伝えられた。そして、犠牲者の人数も知るところになる。
二夜三日続いた戦闘は、第3軍の死傷者は千名に達し、消費した砲弾も三分のニにも及んだ。特に、第1師団は作戦の都合上で要塞側面への迂回と陣地突破で大きな運動と戦闘が強いられた。
師団の不幸は、作戦開始から目標の達成までの間、師団隷下の全部隊が不眠不休の戦いを求められたことだ。この命令に将兵は良く応えた。食えず眠れずの状況下で戦った。
第1師団の突進を支えたのが砲兵であった。師団砲兵、旅団砲兵、独立砲兵の砲弾が次々と師団の前方に着弾する。
陸軍は、日清戦役後の軍拡で戦力の増強に合わせ、砲兵の拡充に力を注いだ。部隊の増強や砲の製造開発、国外企業からの購入によることは勿論、将校の育成から砲術の運用まで、新技術の導入と試行錯誤を繰り返し、日露開戦までに世界屈指の砲兵を作り上げた。
日本砲兵を支えたのが気球観測と地上観測である。空地の数ヵ所の観測地点から送られる目標の正確な座標を割だし、射撃部隊によって砲撃する仕組だ。
「日本軍は攻城砲を使っている」
と、ロシア軍旅順要塞司令部の主要将校の所在する作戦指揮所の下に、二十八糎砲の攻撃を受けた部隊や堡塁から被害の報告が伝えられる。
錯綜する情報の中で、ロシア軍司令官のステッセリ中将は必要な情報を求めた。攻城砲の威力に対する堡塁の強度だ。
要塞の築城と防衛計画を担ったコンドラチェンコ少将は、先の戦闘で戦死し、最も頼りとするアドバイザーを失った司令部参謀たちは、確信となる情報を得ようと通信や伝令を使い早々に対応した。
結局のところ、銃座や交通路、待避豪などに上に大量のコンクリートを注がれた堡塁を二十八糎砲の砲弾を以てしても打ち砕くことはできなかった。
「日本砲兵は大したことはない」
と、ステッセリは言った。この後に第3軍が幾万発の砲弾を降り注ごうと、幾万人の歩兵を突撃させようとべトンに覆われた幾多の堡塁の火器に日本兵は阻まれ攻略は頓挫する。その間に、遼陽のクロパトキン軍が大山の軍を打ち破り南下して残りの日本軍を大陸から駆逐するだろう。東郷の艦隊は、ロシア本国の増援艦隊と旅順艦隊が打ち破る。
極東最大の旅順要塞を攻略する手段を持たない日本陸軍は、その戦力を旅順と遼陽に割き分けねばならぬ状況となり、兵力の少ない日本軍を困窮させる状態を作る。
ステッセリは、日本軍の実力を図り戦争の推移の現実味を見いだした。
しかし、前線で戦うロシア将兵にとって日本砲兵は猛威であった。簡易的に築城された前哨陣地は、主陣地の為の時間稼ぎが目的であり、撤退の時期は現場部隊長の裁量か上級部隊長の指示による。
日本軍の砲撃はロシア兵を陣地ごと吹き飛ばし、日本兵が蹂躙する。故に古今東西の地上戦では砲兵は、『戦場の女神』と呼ばれる。
「第9師団、水師営を占領」
「第11師団、大弧山を占領」
戦闘三日目には第3軍司令部の下に東部と中央の部隊の戦果が入る。何人かの若い幕僚たちは歓喜したが、兒玉十三朗は「それ以上、兵を進めるな」と、淡々に両師団長に次の指示を出す。二つの師団が取った占領地な更に南は旅順要塞の主陣地にぶつかるからだ。
前線の戦いは、まだ止む気配は見せていない。