第六十六話:乃木爺
前線の歩兵第1連隊の陣中も重苦しい空気が漂っていた。
連隊に旅団から命令が下達された。連隊長は三人の大隊長に旅団長から与えられた命令を下ろす。そして、各大隊長は各々に所属する中隊の長に命令を達した。
兒玉白朗は南山の戦い以降、中隊長心得のままだ。彼の中隊の三個小隊の小隊長には、1小隊長に乃木保典が、2小隊と3小隊には召集された予備役少尉と曹長の中堅者が就く。何処も彼処も兵員不足が目立つ。
「今度の戦闘は、かなり動き回るんだな」
と、白朗の作戦説明に保典は地図を見ながらで言葉を漏らした。
第1連隊の親部隊である第1師団は旅順の東部を担当する。現在の兵力の配置は東部を第1師団、中部を第11師団、西部を第9師団が並列に並んでいる。
第3軍が与えた作戦は、第9師団及び第11師団は正面の大弧山を共同で占領し、二個師団の活動に合わせて第1師団は側面の大迂回を行い、二百三高地と周辺一帯の陣地占領であった。
「二百三高地はどこです?」
新参小隊長の一人が口にした。彼らの持つ地図は日清戦役時の物で、二百三高地の地名はどこにも記されていない。
白朗は、懐から鉛筆を取り出して「ここだ」と、二百三高地の位置を丸く囲んだ。
「この高地を我々が奪取すれば、港内な旅順艦隊は丸見えになり、陸からの砲撃が容易になるらしい」
しかし、そのためにはロシア軍の構築した幾多の防御線を突破し長い距離を前進しなければならない。
戦略上の目的は理解はできても、現実的に理不尽な作戦を現場に突き付けてくる事に今更ながら軍人の宿命を思い知らされる。
「藤野一等卒、入ります」
と、元中隊らっぱ手が入ってきた。南山の戦いを生き残り、歩兵に戻されていた。
「おう、どうした?」
白朗が用を尋ねると、ぎこちない返事が返ってきた。
「それが、乃木中将閣下が御見えになりました」
中の一同が、えっとした表情になる。
「えっ、視察される話は聞いてないぞ」
「とにかく出迎えるぞ」
そう言うと帽子を被り、身だしなみを軽く整えて指揮官達は天幕から出る。
「おい、乃木爺が来たぞ」
と、若い兵卒達が同じことを話す。
兒玉十三朗が馬に乗って単身で繰り返し最前線に向かい、軍司令官不在間を副司令官の乃木希典が司令業務を処理する。その逆に、十三朗が司令部にある時は乃木が馬に乗り部隊を巡回する。
「見回りに行ってきます」と、近くの者に一言だけ告げて、何時何処の部隊に赴くと前もっているわけでなく士官に状況を聞き下士官兵を励ます。
第3軍司令部に各師団旅団等の長が集まり、旅順攻略の命令が下されていた時に、乃木は副軍司令官の役職にあっても直接的な部隊指揮権が無く好き勝手ができた。馬に乗り、ふらふらと前線に赴いた。
そのため噂を知る者達の間では、「乃木爺」の渾名で呼ばれていた。
「お邪魔します。貴官の部隊を見に参りました」
と、柔らかな丁寧な口調で前に出た白朗に一礼する。
「とんでもごさいません。御案内致します」
白朗も前に出て部隊を案内する。希典が後ろに続いて残りの小隊長は先に小隊に戻した。
「白朗君、君と話をするのは何時振りになるかな」
「士官学校以来になります」
「もう、そんなになるのか」
「あの時は、色々と戦術指南をしていただきました」
昔話を語りながら各小隊の宿営と歩哨陣地、防御陣地を案内した。切迫する状況であっても末端の兵卒から中堅下士官にも統率が行き届いている。宿営地の整頓から陣地の位置や構築等にも余念がなかった。
「元気にやっているか?」
乃木は宿営に着くなり天幕を捲り中でくつろぐ兵卒や、歩哨の兵に話しかけたりする。
陸軍内では古武士の様に無口で一筋縄に職務を全うすると評判だが、ここでは気さくな親父の様に出会う兵士に声を掛けた。
「父さんが、あんなに喋る所を初めて見た」
と、保典が言葉を漏らす。乃木中将の明治維新から日清戦役までの波乱万丈の戦歴は白朗も知るところにある。戦いに人生を尽くした人間は、一朝有事にあって活気を取り戻すようだ。
その後も、中隊陣地を一回りし一時間程で中隊本部の天幕に戻った。
「中隊の陣地や配置、部下の休息は十分とっているね」
「やれる内にやる様に徹底させてあります」
「うん、部下達に未練を残させないようにな」
「はい」
「おい、保典」
と、希典は懐から手のひらほどの大きさの布袋を倅に渡した。中には金平糖が詰まっていた。
「お母さんからだ。疲れたら食えと言っていた」
「ありがとうございます」
「次の戦いは近い。今のうちに飯を沢山食べておけ」
と、希典は馬に跨がり愛馬を走らせた。その手綱さばきは、休職から復帰したばかりとは思わせない見事なものだった。