第六十三話:柳樹房
柳樹房と呼ばれる集落は、地形的に旅順の中心部に当たる。旅順要塞から約10キロ離れた場所に第3軍は臨時の司令部が置いた。
隷下部隊は、旅順要塞から西に第1師団が中央に第9師団、東に第11師団が配置され来る総攻撃に向けた準備が進んでいた。
兒玉十三朗は、自ら馬を引き旅順要塞を偵察に向かう。その護衛を勤めるのは従卒が一人だけ。身に付けているのは手拭いと弁当、双眼鏡に護身用の拳銃のみ。無駄な装飾品を外してカーキ色の軍服は一般兵と変わらない。
軍司令官自身による危険を顧みない偵察に参謀たちが護衛の人員増を促すが、それを十三朗は「反って敵に見つかってしまう」と言って断る。
「万一には乃木さんに作戦を託している」
そう言っては敵陣地まで馬を引く日々を続けた。司令部で事務処理をするのは乃木希典であった。
内地の参謀本部からは、一軍を束ねる将軍が指揮を疎かにして大局を見誤り兼ねない軽率な行為だと危惧された。しかし、そうした意見を参謀総長の山縣有朋は一蹴した。
一方、第3軍と対峙するロシア軍でも誤った情報が流れていた。彼らに雇用された諜報員が、柳樹房の臨時司令部を『司令部』と誤認し、司令部を留守にする間に指揮を代行する乃木希典を『第3軍司令官』として、収集された情報がステッセリ中将の下まで渡り、それがロシア満州軍総司令官のクロパトキン大将にも送られた。
後に、ロシア軍は日本軍の存在しない『幻の軍団』に大いに悩まされ続ける事となる。乃木将軍の指揮する軍団が日本陸軍最強の兵団と認識され、その動向に注意が向けられた。
まさか、日頃から従兵一人だけを連れて馬を引く将校が敵の軍司令官だと考えた諜報員はいなかった。同じ連絡将校が往来する位の報告として上げられる位でロシア軍からは大して重要視される事は無く、兒玉十三朗は旅順攻略が練り上げていた。
前線の部隊に着いたならば、現地の指揮官の案内を持って最前線に歩いて向かう。その経路は、徒歩斥候が使用する道なき道だ。
地図を見ながら先頭を行くのが十三朗で、六十過ぎの老将とは思えない程に軽快な足取りで歩き進んで行く。
敵陣地数キロの位置まで接近して自前の双眼鏡を使い敵の配備状況を伺う。
これまでに東鶏冠山、二竜山、松樹山の主要陣地を直に見てきた。どの禿げ山も同じ仕様に整備されていた。広範囲に埋設された地雷原に十字砲火を浴びせられる幾十もの機関銃陣地、何重にも設置された鉄条網は来る決戦に向けた準備が着々と進んでいる事が伺われた。
「ロシアめ、どの要塞もばか恐ろしく固めて来おった」
と、十三朗は言葉をもらした。




