第六十話:旅順要塞
大連に上陸した満州軍司令部は、一部を北上させ総司令官以下の主要幕僚は第3軍司令部に足を運んだ。
その第3軍は、6月26日には手持ちの兵力を整えて南下を開始めており、金州以南から戦線を押し広げていた。しかし、思いの外に快進撃とはいかなかった。
迎え撃つロシア軍は、アレクサンドル・フォーク少将指揮下の四個連隊が一万の兵力をもって山岳地帯に幾何に築いた小規模な防御線を前線に構築して日本軍と戦った。
この時、主力は旅順要塞に配備され、主要陣地の工事に向けられていて第3軍と戦闘する部隊は遅滞作戦のための戦力に過ぎない。
だが、金州攻略の後だけに、部隊の攻撃と突撃は慎重に行われた。騎兵の偵察報告を基に砲兵が十分に陣地攻撃を施した後、歩兵が近接戦闘を挑む。
「ロシア兵は侮り難い」
と、兒玉十三朗は言う。占領地に軍司令部の参謀を引き連れて上がり、ロシア軍の残した野戦築城能力を分析した。なるほど、僅かな時間で中々の防御陣地を造り上げるロシア将兵の実力と士気は侮り難いものだ。
旅順には、ロシア関東軍司令官アナトーリイ・ステッセリ中将の下に旅順要塞司令司令コンスタンチン・スミルノフ中将がおり、指揮下に東シベリア狙撃兵第4師団と東シベリア狙撃兵第7師団の二つの師団と幾つかの直轄部隊からなり兵力は四万四千名に達していた。
『要塞』と、呼ばれる旅順口内の港湾を囲む丘陵に築かれた数々の陣地群は、19世紀後期に清国が北洋艦隊の拠点としたことから構築が始まった。日清戦争の後、旅順を租借したロシア帝国が膨大な予算を投じて要塞の近代化に着手した。
山頂の砲座を囲む深さ七メートルの長大な堀があり、落下した兵隊を掃射する銃眼が幾多も設けられている。その周囲には高電圧の鉄条網が何重にも築かれていた。そして、守備兵の籠る塹壕と銃座が複雑かつ綿密に用意され、歩兵の攻撃、防御、移動を容易なものとしている。各砲台や退避豪、交通豪には大量のコンクリートが使用されており、砲弾の攻撃に耐えうる設計となっていた更に地雷原や鉄条網が敷かれて突撃する幾万の歩兵部隊の攻撃を退ける機能を有していた。
東から東鶏冠山、二竜山、松樹山の強大な永久要塞があり、他に約110個の陣地が旅順港を囲むように設置されてあった。それらの砲座が近辺の陣地を射程に捉えており、相互に火力支援を出来るように計算されている。
この旅順要塞を東洋最強の近代要塞に成し遂げたのが、東シベリア狙撃兵第7師団長のロマン・コンドラチェンコ少将である。工兵将校として軍の工兵学校で首席の成績を出し、要塞・野戦築城において深い知識と経験を持ちロシア軍随一と評価されていた。旅順に着任したのは開戦から僅か一年前であった。