第四十七話:南山の戦い
第2軍を乗せた船団は、5月5日に遼東半島の塩大澳に上陸し、13日には全兵力が上陸を完了した。
旅順を除く半島の占領し、旅順要塞のロシア軍を孤立させる狙いがあった。この戦略目標達成の為には、金州のロシア軍と戦わなければならなかった。旅順から内陸部を繋ぐ鉄道網の通過拠点で、地理的価値はロシア側からも認識されていて都市の南方に『南山』と呼ばれる小さな山がある。ここにロシア軍は多数の火砲を設置し、陣地を構成させ、障害を準備して来る日本軍の侵攻を待ち構えていた。
ロシア軍の守備兵力は約17,000名、対する日本軍第2軍の投入兵力は38,500名である。三個師団を有する大兵団ではあったが、東西を大連湾と金州湾に挟まれ、山岳地帯の多い狭い戦場地域であり、投入する戦力が局地的に限定されてしまう。
日本軍には不利的要素が幾つか抱えていた。戦力的にロシア軍の二倍はあるものの数的には兵力不足であった。古今東西の軍事的常識と照らし合わせて見ると、防御側の戦力を制するには、攻撃側は三倍の戦力で挑まねばならない。
先の第1軍の鴨緑江の戦いの様に平地での戦闘とは違い、第2軍は山地を登り上がらねばなず、兵隊の体力消耗は計り知れない。況してや、初の欧州列強との全面戦争であり、近代的防御陣営を攻略する事となった。
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5月15日、第2軍は金州へ向けて進軍を開始する。その間、前衛はロシア軍の前哨陣地を次々と突破していった。
24日の時点で全部隊が金州に到着して布陣を完了させる。第4師団が金州城の攻略を含めて東側左翼を担当する。中央に第1師団があり、西側右翼には第3師団が配置された。後方には第2軍直轄の野戦重砲兵連隊が構えていた。また、騎兵第1旅団もその隷下に加わっていたが、部隊の特性上から別動部隊として遼陽へ向けて北上を開始していた。
戦闘の火蓋を切ったのは第4師団の金州城攻撃からだった。25日の明け方と共に日本軍のロシア軍陣地への砲撃が始まった。都市を囲む高い城壁の中に籠るロシア軍は防御準備を万端にした状態で侵攻する日本軍に挑んだ。
進路を阻む鉄条網に地雷原は砲撃の目標から外されており、隠蔽された野戦陣地から攻撃されて進撃を開始した日本軍の歩兵部隊は死傷者を続出させ、大きな足止めを受けた。
前線から金州城への砲撃要請が出されたが、日露戦争を注目する国際社会に日本の人道遵守を守る観点から非戦闘民の残る市街地への砲撃を上層部が却下した。
代わりに第1師団から援兵を派遣する事となったが根本的な解決策にはならず、多大な犠牲を強いる突撃の力押しにより夕刻に城門に達して破壊した門より城内に雪崩れ込んでロシア軍を駆逐させた。
南山への総攻撃は翌26日となっが、第2軍の士気は著しいものではなかった。金州城のロシア軍守備兵は多くなく、主力は南山の陣地にある。火砲や防御陣地、障害物の規模も金州城の非ではない。
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第1師団は南山攻撃の為の準備が完了していた。25日の夜半、歩兵第1連隊の宿営地は嵐の後の静けさだった。
兒玉白朗と乃木保典は共に同じ大隊に所属しているが中隊は違っていた。それでも機会が有れば顔を出していた。
「何処もかしこも葬式のようなあんばいだな」
と、白朗は言った。陣中は静かだった。明日の総攻撃に備えて休める内に休んでいるようだ。殆どの者に実戦経験が無く、明日の我が身を案じているのだろう。
「第4師団が相当やられたからな」
二人は天幕の外に出て、茂みに入り小便をたしていた。辺りは真っ暗闇で星明かりを頼りに足元を確かめる。5月だけに昼間は暖かいが夜間は冷える。宿営地が平地であるだけに風も当たりやすくて寒い。
「あれは城内に砲弾をぶちこめなかったからな。出来ていたら、あれだけの死人は出なかったろう」
「その上、ロシア軍は機関銃を上手に配置していたらしい」
「かつて、ヨーロッパ最強だったナポレオンのフランス軍を破った軍隊だ。世界最強の陸軍を名のるだけはある」
「戻ろう。身体が冷えてきた」
肌に刺す冷たい風は止む気配はなく、寒さで耳や頬は赤くなるほどだ。用をたした二人は天幕に引き返そうと歩いた。その先には陣所の灯りが点々と照らしていた。軍隊は性質上、夜間の照明は敵の偵察に位置を特定されてしまうため無駄な灯りは制限される。しかし、それでも周囲には幾つもの灯火が見えていた。
砲兵や工兵は翌日の攻撃準備のため夜通しで作業をしており、小さな灯りが点々と着いていた。連隊の宿営地でも並ぶ天幕群では、やはり照明の制限が緩く明るかった。敵の襲撃はないと上層部が判断したのだろう。
南山のロシア軍陣地では、日本軍の夜襲に備えて複数のサーチライトの光線が周囲を照らし回っている。まるで、得たいの知れない巨大な怪物が闇夜の中で幾つもの目を動かし回しているようだ。
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らっぱの音色が暗闇の中から風に乗って聞こえてきた。起床や食事、消灯や突撃など聴き馴染みのある曲だ。
「藤野か。気合い入れてらっぱの練習しているのは」
と、白朗が声をかけた。
「お疲れ様です!」
声を掛けられた藤野一等卒は、らっぱを止めて敬礼をした。
「良いあんばいの音色だったな。俺にも吹かせてくれや?」
「はい、どうぞ」
と、藤野はらっぱの笛口を上着でさっと脱ぐって白朗に渡した。吹いて見ると、全く音が出ない。
「駄目だな。音が出ない」
そう言ってらっぱを返すと藤野は上手に『食事』を吹いて見せた。
「藤野も明日が実戦が初めてか?」
「はいっ、明日は自分が中隊のらっぱ卒をやります」
「そうか、らっぱに集中し過ぎて露助の機関銃に射たれるなよ」
「はい、ありがとうございます」
保典の言葉に元気に返事をする。開戦前から同じ中隊に所属し、年代的にも程近い弟分だ。他にも直属の小隊に多くの弟分がいる。しかし、次の日には全員が生き残る保証は何処にもない。