第四十六話:出征
第1軍が朝鮮半島から満州を目指して北進を続けている頃、内地では3月15日に第2軍と隷下部隊に動員令が下された。
少尉に任官した兒玉白郎と乃木保典が所属する歩兵第1連隊も上級部隊である第1師団の出動に伴い戦場に出立する。満州へと向かう若者たちは今生の別れとなるかもしれない旅立ちを数日後に控え、内地での最後の休暇を与えられた。
故郷に帰る者もいれば道楽に浸るものもいる。だが、軍人の将官を父親に持つ二人の若い士官は立場的に道楽するのは慎まねばならない。
保典は出立前に兒玉十三朗に会って一言だけ挨拶を述べておきたいと白郎に言った。
第2軍の多くの将兵が休日を満喫する時、兒玉十三朗は勤務に着いていた。しかし、将校の特権から幾分かの時間をとる事ができる。
「よく来たね保典君」
と、保典と白郎が待つ茶の間に軍服を着こなした十三朗が入ってきた。
「本日は、お忙しい所をありがとうございます」
「なに、参謀職に比べれば今は幾分も楽をしているよ」
そう言い上がら、十三朗は床に置かれている茶菓子を食べるように勧める。
「ところで、どうかな。君の小隊は、小隊長なのだろう?」
「はい。召集兵を加え、小隊の兵士共々士気は上場です」
「そうか。それは何よりだ。これから戦場に行けば大忙しになるぞ。指揮官は常に部下に信頼されねばならない。それが死と隣り合わせの部下達の唯一のより所となる」
「はい。…あの、閣下」
「ん?何だね」
「ありがとうございます。父を再び軍人にさせていただき、感謝しております」
「なに、ロシアと国家の命運を掛けた一大戦争だからね。味方は一人でも多い方が良い。それに、君のお父さんは戦上手だからな」
それから時間の許す間、保典は十三朗と会話を続けた。それまで、保典は白郎に誘われて兒玉宅に訪ねる事が幾らかはあったが十三朗に会う機会は少なく、会えても挨拶だけで終わり直ぐに居なくなってしまう。
明治維新を逆賊から仕官して陸軍創設を影から支え、西南戦争から日清戦争の戦役で大きい功績を作り、今日の陸軍の形を築き上げた十三朗を保典は尊敬していた。
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そして、時間と言うのはあっという間に過ぎて行く。
「ではな、保典君。次に会う時は戦場だろう。それまで、死ぬんじゃないよ」
「はい。閣下も御体にお気をつけ下さい」
「保、心配するだけ無駄だぞ。わしの親父は、風邪ひいてぶっ倒れようが、鉄砲玉に射たれようが、後50年は長生できるさ」
と、白郎は笑いながら保典をからかう。
「黙れ。二等卒に落として保典君の弾除けにさせるぞ」
「冗談じゃない。年寄りの寝言は寝てから言えや」
二人は互いに暴言を吐いて罵り合う。しかし、それに憎悪は無く戯れ気に満ちていた。保典は親子のやり取りを呆然として聞いていた。
「いつもああなんです。お父さんとお兄さんは」
程なく兒玉親子のやり取りは終わった。
「いやはや、恥ずかしいところを見せてしまったね」
「いえ…」
「ヤエ、二人とは暫く会えなくなる。近くまで見送ってやりなさい」
「はい」
「白朗、忘れ物はないな」
「ガキじゃないんだ、あるわけないだろ。いって来るぞ」
「保典君も次は戦場で会おう」
「はい。閣下、それでは失礼致します」
白朗と保典は兒玉宅をでる。その後にヤエがついて来る。三人が外に出てから十三朗が家の前まで出て見送った。見えなくなるまで立っていた。
「さっきの事、家ではできないよ」
「さっきの事?」
「君と閣下との会話だよ」
「あんなのは小さいころからしょっちゅうのことさ。まぁ、確かに乃木閣下には、あんなことを言ったら酷い事になりそうだな」
「顔を真っ赤にして怒るだろうな」
白朗は、温厚で物静かな乃木希典の怒る顔を想像した。顔を殴られて二、三日は口を開かないだろう。いや、それ以上かもと考えた。
「お兄さん」
「どうしたヤエ?」
「戦争は、いつ終わるのでしょう?」
「こればっかは、なんとも言えんな」
白朗たち新米士官でさえ、ロシア軍と日本軍の戦力比はわきまえていた。それ故、満州で以下にして帝国陸軍がロシア軍を打ち負かすかは想像に及ばなかった。
「ロシア軍は清国軍よりも強大なんだ。だから、半年だけでは終わらないだろうし、一年以上も長引けば日本の財政が持たなくなる。多分、一年ぐらいはかかるだろうね」
と、保典が言った。
「そうですか…」
ヤエは少しうつむき、自分の袖の袂を握った。
「あっ、いかん!」
「どうかしたか?」
「財布を家に置き忘れた。取りに入ってくる。先にいっててくれや」
そう言って白朗は砂埃を立てて家に向かって駆けていった。
「やれやれ、あれじゃ戦地に出征した時には軍刀を忘れていくんじゃないか?」
保典は友人の失敗を苦笑する。
「本当ですね」
そして、ヤエは兄の失敗を人事のように笑みで済ます。
「ヤエさん。ここまででかまいません。後は一人で戻りますので」
「いえ、あと少しだけ御一緒させて下さい」
「…そうですか」
口を詰まらせた保典には彼女を戻らせる理由が思いつかなかった。それから暫く二人は一緒に歩いて行くが会話が無く進んでいくだけだった。
白朗は、まだ戻ってはこない。どれだけ時間が経っただろうか。落ち着かずにそわそわしい。何故だかわかっていた。側にヤエがいるからだ。この時が過ぎれば彼女とは会えなくなる。もしかしたら今生の別れとなるかもしれない。別れるまでに何かを言いたいが、もどかしくも言葉が出てこない。軍人でありながらも自分の根性の不甲斐なさに心が押しつぶしそうになる保典だった。
「あの、保典さん」
「!…なんですか?」
最初に無言を破いたのはヤエであった。
「その、今日はとても良いお天気ですね」
空は晴れている。それもいつもと変わらない東京の青空だった。
「そうですね」
「すいません。たわいない事を言って」
「謝らないで下さい。自分こそ何も話すことなくて、すみません」
「いえ、そんな…」
「………」
目が合った。そして、また言葉が無くなった。ヤエは何も言わずに保典の胸に身体をよせ、顔をうずめた。
「ヤエさん…」
呼んでも返事はこなかった。ぬくもり、鼓動が伝わってくる。彼女は静かに泣いていた。頭が小刻みに震えている。保典は力強く抱きしめたかった。全ての思いをありのまま教えたかった。安心させてあげたかった。だが、それをしなかった。これから戦地に赴く身である。生きて帰ってこれる保障はない。
もし今、ヤエに思いを伝えて戦場で死ねば彼女の心に生涯の重荷を背負わしてしまうかも知れなかった。保典はそれを恐れていた。身を寄せる彼女の両肩にそっと手を置いた。
「離れたくないです。ずっと、保典さんをお慕いしていました」
「………」
「生きて…、生きて帰って来て下さい」
震えた声に反して、ヤエの小柄な身体を押し付ける。保典に出来ることは彼女を受け止めることだけだ。
「ヤエさん、必ず帰って着ます。だから、泣かないで下さい」
この言葉にヤエは顔を上げて保典を見つめた。自分のために涙を流す乙女の泣き顔を見て保典は、己の運命を憎んだ。戦争を憎んだ。そして、この時が永遠に続いて欲しいと天に願ったのだった。