第四十五話:鴨緑江会戦
戦争の中にある人の運命が何時どうなるかは誰にも分からない。
4月13日、旅順艦隊司令官にしてロシア海軍の名将であるステパン・マカロフ中将は旅順口沖で戦死した。
その日、哨戒任務についていたロシア海軍の駆逐艦が日本海軍の駆逐艦部隊と旅順口外で会敵して撃沈させられた。この事態を受け、旅順艦隊は戦艦と巡洋艦から成る部隊を出動させて日本海軍の駆逐に当たった。
この時、マカロフ中将は戦艦『ペトロパブロフスク』に乗艦して陣頭指揮を取ったのだった。
彼は旅順に着任してからは、日本艦隊との戦闘の度に陣頭指揮を取ってきた。連合艦隊の二度目の閉塞作戦の際も、砲艦『ボーブル』に乗艦して状況を掌握しつつ指揮をした。閉塞船『福井丸』を護衛する駆逐艦『東雲』とも対峙している。
ロシア艦隊が勢力圏から日本海軍を退け、遭難者の救助を済ませ帰還の途に着こうとした時だった。
先頭を進む『ペトロパブロフスク』の艦首から巨大な水柱が上がり艦の前面を包み込んだ。数秒後、大きな爆発音が周囲に響いた。
日本海軍は、閉塞作戦の中止の代案に旅順口沖に多くの機雷を設置した。
その機雷の一つに『ペトロパブロフスク』は触雷して被弾したのだ。艦は前から海面の中に吸い込まれて行き、轟音を上げつつ何の抵抗も無く海中に没した。
鋼鉄の巨艦が沈没するまでに五分もかからなかった。
662名の乗員中、500名以上が犠牲となった。その名簿の中に、マカロフ中将の名前も入っていた。歴戦の名将の最期は実に呆気ないものだった。
連合艦隊では当初、機雷によって敵戦艦一隻を撃沈したと久々の戦果に将兵の間から小さな歓喜が起こったが、程なくして旅順艦隊司令官の戦死の報が入ると連合艦隊幕僚は歓喜の声を上げた者はおらず呆然となるだけだった。
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日本海軍とロシア海軍が朝鮮の仁川沖で海戦となった2月9日から五日後の14日には陸軍の第12師団先遣隊の4個大隊が仁川港に上陸し、師団の主力も順次揚陸された。21日に鴨緑江南岸の義州に到着した。そして、3月14日には第1軍の主力が朝鮮北部の鎮南浦に上陸し、4月21日には全兵力が義州に集結した。
軍司令官に黒木為楨大将が、参謀長に藤井茂太少将が付いた。隷下部隊には三個師団を主力に五万の兵力を抱えていた。
近衛師団
近衛歩兵第1旅団
近衛歩兵第2旅団
第2師団
歩兵第3旅団
歩兵第25旅団
第12師団
歩兵第12旅団
歩兵第35旅団
工兵第1旅団
野戦砲兵重連隊
対するロシア軍シベリア第2軍団2個師団は、主力を鴨緑江北岸に集結させ日本軍の渡河作戦に備えた。ロシア側の兵力は2万4千と日本側に比べて半分と不利だったが、攻撃側の日本軍は対岸を渡る上で戦力が不足していた。
守備側にとって河川は天然の障害物である。ここを渡河するためには圧倒的な砲兵力をもって対岸陣地を攻撃して守備側の反撃を無力化した後に短時間内に部隊を対岸まで渡河させて広範囲を占領して橋頭堡を確保するのが攻撃側が損害を最小限に抑えて作戦を達成する理想的な方法なのだが、第1軍の砲兵力の全力を持ってしてもロシア軍の砲兵力を圧倒するまでには及ばなかった。
日露戦争初の大規模な会戦が繰り広げられようとしているだけに、各国の観戦武官や従軍記者が日露両軍に集まった。予想では、日本軍が勝利するものの数ヶ月の長期戦の末に多大な損害を被るだろうと。
渡河作戦の困難さは第1軍司令部一同は重々承知していた。それでも、この戦いで日本軍はロシア軍に圧倒的優勢化で快勝しないといけなかった。日本には日露戦争を独力で遂行するだけの戦費が無かった。日本銀行は副総裁の高橋是清は日本政府の指示によって海外での外貨獲得に苦心していたが、列強諸国は日露戦争はロシアの勝利に終わるだろうと見ていて日本に対する投資は無意味と見ていた。同盟国のイギリスでさえ慎重だった。
兒玉十三朗は、対露作戦計画を作成するに当たり、第1軍の司令官に黒木を選んだのは彼の猪突猛進な性格でありながらも思慮深さを兼ねた軍人であるからだった。出征前に兒玉は黒木と最後の段取りをした。話し合いはすぐに済み、黒木は退室する。
「先鋒は任せたぞ」
と、兒玉は言った。
「どうにかなろうぜ」
黒木は返した。若き日の血気盛んな軍人はそこには無く、大軍を束ねる大将の返事だった。
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兒玉の人選は的中だった。第1軍司令部の渡河作戦は巧妙だった。
『日本軍は鴨緑江河口から上陸作戦を決行する』
この情報をロシア側に流出させた。勿論、偽の情報である。
4月25日、海軍の第7戦隊の砲艦『摩耶』、『宇治』、水雷艇二隻、小型武装徴用船二隻が鴨緑江に現れ、対岸のロシア軍を攻撃した。これはロシア軍に偽情報を疑わせない様にするための海軍の支援だった。これによってロシア軍は広範囲に部隊を展開することを余儀なくされた。
この間、第1軍の部隊は慌しく渡河作戦の準備が進められた。鴨緑江中州の占領に伴う砲兵部隊の陣地転換や秘密裏の部隊の渡河を行い、29日までに日本軍の作戦準備は整った。司令部では渡河作戦決行は5月1日と決定していたが、前哨戦の最中に内地の大本営から渡河作戦の延期の要求が届いた。
海軍の事情により第2軍の5月1日からの遼東半島上陸が延期されたのだった。第2軍の上陸と同時に第1軍の渡河作戦決行を合わせて欲しいというものだった。しかし、大本営は渡河作戦の機会を逃すものだと黒木は却下して予定通りに作戦を開始する旨を返信した。
最前線でも作戦は着実に進められていた。まず、第12師団が29日に鴨緑江の上流部から渡河を開始した。川幅が狭いこともあり、ロシア軍は中流と下流部に部隊を展開していたこともあり5月1日の未明には師団全部隊の渡河が完了して清国領の水口鎮を占領した。
次に渡河作戦を開始したのが近衛師団だった。多数の浮き舟によって構築された複数の架橋を兵士たちが一目散に対岸目指して走りぬこうとする。闇夜の対岸の線から複数箇所から発光して轟音がなる。それから30秒ほどで水面が爆発して水柱が上がる。ロシア軍の砲撃だった。しかし、日本軍の工兵部隊は30日の夜間に架橋構築をしたこともあり砲の標準はデタラメで架橋への直撃弾は無いものの、近衛師団の渡河作戦の妨害は十分だった。ロシア軍は砲撃を続けた。それによって日本側から敵の砲兵陣地が容易に把握できた。
鴨緑江に黔定島と言う大きな中州があり、ここに密かに野砲兵第2連隊と野戦重砲兵連隊が配置されていた。対岸の全ロシア軍を砲撃の射程圏内に納められる絶好の場所だったからである。師団野砲兵連隊は75mm口径の三一式速射砲を主力野砲にしていたの対して第1軍に配属された野戦重砲兵連隊は12cm口径の克式十二糎榴弾砲を装備していた。ドイツのクリップ社製の野砲で対露砲撃戦の切り札として導入された。
野戦重砲兵連隊は、その存在をロシア軍に知らされないように小樹林の後方に配置されていて一切探知されることは無かった。砲撃の際は前線の砲兵観測班の情報によって砲撃座標がもたらされた。ロシア軍は、突然の日本軍の砲撃によって砲兵陣地が無力化されたのみならず、付近にあった部隊の指揮所にも砲弾が着弾して将校に多数の死傷者を出す事態が発生した。
この砲撃戦が戦闘の勝敗に多大な影響をもたらした。砲兵部隊は沈黙した上に指揮系統に混乱が生じた。これにより、近衛師団は部隊の被害を抑えて鴨緑江を渡りきり、第2師団も下流から渡河を開始して成功させた。そして、三個師団をもってロシア軍司令部の所在する九連城と周辺陣地の攻撃を開始し、1日の午後二時頃にはロシア軍の撤退によって日本軍は一帯を占領する。
日露戦争最初の陸戦は日本軍の快勝で終わった。932名の死傷者を出したものの、従来の戦術と重ね合わせても極めて少ない損害であると言われる。対してロシアは、少ない兵力である上に日本軍に奔走され部隊を広範囲に展開されたのが大きな敗因だった。2千名以上の犠牲者と重火器の損害を被り、士気を著しく下げながら後方の鳳凰城まで退却した。この戦果は両軍の観戦武官や従軍記者によって報じられ、列強の日露戦争の推移を大きく狂わせるのだった。