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if 明治興亡記  作者: 高田 昇
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第四十四話:福井丸

 2月24日の夜中、日本海軍は旅順艦隊の海上行動を封じ込めるため旅順口への閉塞作戦を実行する。艦隊から仕官以下77名の志願兵がそれぞれの閉塞船に分乗して出発した。


 天津丸

 報国丸

 仁川丸

 武揚丸

 武州丸


 この5隻の旧式船の内部に自沈用の爆薬を仕込んで行くわけなのだが、闇夜の航行だけに目的地点に閉塞船がすべて到達するのは至難であり警戒するロシア軍に発見されることも想定に収めねばならない。しかも閉塞船は速度も遅く軍艦のように装甲も無ければ武装も無い。沿岸砲台からの攻撃を集中的に受けやすく、爆薬に直撃弾が入れば沈没は免れない。


 そして最初の閉塞作戦は秋山真之と兒玉十五朗が想像したとおり、ロシア軍の監視に発見され猛烈な砲撃の前に失敗に終わったのだった。閉塞船は目的地点とは程遠い場所で自沈を実施して乗員はカッターで脱出を試みて成功したのだが、旅順口はその口を開いたままであった。


 この作戦で、77名の参加者のうち機関兵1名が戦死したに止まった。


*****


 一方、旅順港に留まり続ける旅順艦隊も2月8日の日本軍部隊による夜襲攻撃による被害とその後の対応の不手際から艦隊司令官のオスカル・スタルク中将がその職を解任され、後任にステパン・マカロフ中将が上がった。


 海軍軍人だった父親の影響により若き日より海軍を志し、任官後はロシア海軍の全ての艦隊に勤務し艦船を問わず様々な種類の船に乗り、二度の世界一周の航海を行っている。実戦面では1877年の露土戦争の際に水雷艇母艦『コンスタンチン大公』の艦長を勤め、トルコの軍艦に対して世界で最初に魚雷を使用させた人物でもあり、海軍戦術にも精通しており著者『海軍戦術論』は列強海軍の多くの海軍軍人に高い評価を受けた。まさにロシア海軍の名将である。


 マカロフは、直ちに下がりきった士気の建て直しのため小部隊をもって旅順口外へ出て沿岸砲台の射程内で偵察に出てきていた日本艦隊の駆逐艦部隊と交戦しては引き返す。


 そして日本海軍の更なる閉塞作戦に備えて対策も講じた。具体的には閉塞船の予測航路に汽船を沈めて進路妨害を施し、さらに口外には警備艦を配置して閉塞船の駆逐対策に努めた。


 ロシア軍は守りを固めて日本軍の次なる閉塞作戦を待ち受けた。


*****


 日本艦隊の第二次閉塞作戦は3月27日と決まった。


 千代丸

 福井丸

 弥彦丸

 米山丸


 閉塞船の乗員は艦隊から再び志願者を持って編成が決まった。広瀬武夫少佐も再び福井丸の船長として閉塞作戦に参加する。そして、貧弱な閉塞船隊の護衛のために数隻の駆逐艦の随伴も決まった。その駆逐艦の中に兒玉十五朗の『東雲』もあった。


 27日の正午過ぎ、閉塞作戦に参加する全ての人員が『三笠』に集められ作戦の説明から連合艦隊司令長官東郷平八郎大将の訓示だ。任務の遂行を期待するも将兵の無事を第一とする内容であった。


 これらが人通り終わると解散となりそれぞれの持ち場に戻り始める。


 「広瀬さん、兒玉!」


 業務を一段落させた真之は二人がいそうな甲版に上がり案の定、会話をしていた二人を見つけて声をかけた。


 「おぅ秋山、そろそろ来る頃だと兒玉と話していたところだ」


 「旅順艦隊の司令官が、あのマカロフ中将になっています。今度の閉塞作戦はロシア軍の抵抗も激しくなる筈です。無理はせんで下さい」


 連合艦隊の作戦参謀としての重責と旅順要塞の防御力を分析の範囲で強大だと知る真之は二人と違い険しい顔つきを崩せなかった。


 「何を言うちょる。前より危険だろうが何だろうが、戦場で危険はつき物だ」


 と、広瀬は真之の心情を察して普段の調子のままで応える。


 「それに、こんだぁ護衛の駆逐艦も数隻は出る。わしらが適当に暴れまくって沿岸砲の注意を引く。そうすればロシアは狙う的が多くなって多少の混乱はする」


 十五朗も強気な発言をするが、彼らも伊達に海を知り戦いを知り多くの海戦を経験してきたわけではない。いくら駆逐艦が沿岸砲台に対して反撃攻撃しても期待できる効果は得られないし、砲台側は優先的して閉塞船に放火を集中する。また、旅順口外には数多くの機雷が設置されており駆逐艦最大の武器である高速な機動力も制限されてしまう。


 真之には我慢出来なかった。もはや閉塞作戦は通用しないどころか時間の無駄であり将兵の無駄死になると考えていた。そのため、陸上から旅順を攻めロシア艦隊を撃破する戦略を一刻も早く実施したかった。


 「それにしても、旅順口を閉塞したら後が大変になるな」


 十五朗の言葉に二人は耳を傾けた。


 旅順口の閉塞が成功すれば、旅順のロシア軍は必然的に無力化となり日本軍の圧力の前に降伏せざる負えなくなる。国際法の慣例上では、戦勝国は敗戦国から自軍が進出した占領地を獲得できる事になっている。つまり、日露戦争で日本がロシアに勝てば日本軍が占領した土地の権益は日本に譲渡され旅順も再び日本の施政下に入る。そして旅順要塞は日本軍の管理下になり運用されるだろうが、旅順口を閉塞してしまえば日本海軍の旅順港の使用に制限がついてしまう。


 「兒玉よ、そりゃあ『捕らぬ狸の皮算用』ってやつだぞ」


 広瀬は苦笑しながら言った。


 「何言いますかぁ広瀬さん。この戦争は何があっても勝たねばならんのですよ。負けた後のことでなく勝った後のことを考えるのはいいことではありませんか?」


 作戦を前にして、広瀬や兒玉は無駄話に花を咲かせる。これを見て秋山は、ふと縁起でもない事が頭によぎる。


 ひょっとしたら、二人とは今生の別れになるのではないか。それを知ってか知らずか、別れを惜しんでいるのではないだろうか?


*****


 東京の北青山に陸軍大学校が所在する。本来なら陸軍の将校を育成する機関であるが、今は日露戦争中であり満州に派遣する第3軍の編成作業の実施と同時に臨時軍司令部が置かれていた。


 兒玉十三朗は第3軍司令官の立場にあった。大本営や参謀本部などを連日に渡り行き来しては調整や会議を行い、官舎に泊まり越しで出兵の準備を進めた。


 戦争が始まって一カ月が過ぎた。陸軍の先陣の第1軍は朝鮮半島の仁川港に主力の陸揚げ最中で、先鋒隊を勤める第12師団は半島を北上しつつロシア軍の小部隊を駆逐して中朝国境地帯である鴨緑江を目指した。


 日露陸軍による最初の会戦が迫る中、第3軍の任務が固まり始めていた。大本営を通じて海軍から陸軍に旅順要塞攻略の要請がきたからだ。


 連合艦隊の最新の戦況も陸軍に届けられる。開戦当初における旅順港夜襲作戦の微々たる戦果と旅順口封鎖の長期化、二度の閉塞作戦の失敗も十三朗の知る所だった。


 また、前線で戦う十五朗から手紙が送られて着ては戦況や連合艦隊内の状況も詳しく知ることができた。そして、二度目の閉塞作戦が行われてから数日が経ち弟からの手紙が十三朗の下に届けられたのだった。


 陸軍大学校の一室の机で作業の最中に、勤務の手助けを担う当番兵から手紙を渡された。それを一服がてらに封を開けて紙取り出して読む。


 「?」


 十三朗は今度の手紙を読み始めて普段とは違う違和感を覚えた。まず、初めに普段通りに詳しい戦況報告から始まっていた。


*****


 二回目の閉塞作戦は、計画通りに3月27日未明に決行された。縦隊で航行する閉塞船隊と左右に駆逐艦が護衛した。左前方に配置された駆逐艦は『東雲』である。沿岸部の砲台から探照灯が休むことなく闇夜の沖合いを照らし続ける。


 閉塞船隊は速度を上げつつ、動力機関を調整して旅順口に静かに向かう。探照灯に船体が照らされなくとも、船の航跡が波となって残る。海を知る人間には不自然な波の動きを見逃すことは無い。


 しかし、旅順口外への接近の最中であった。先頭を進む閉塞船『千代田』が不意に動いた探照灯の明かりに捕らえられた。途端、沿岸砲台が一斉に赤く発光して轟音が鳴る。ロシア軍の砲弾は正確に船隊に着弾していったが、静止目標とは違い運動する船に対して航跡に水柱が上がる。


 砲撃が始まって回避行動を取り続けた閉塞船隊であったが、複数の探照灯にも捕らえられ未来位置にも砲弾が着弾してきた。これによって、いよいよ閉塞船隊も隊列が維持できなくなり自由行動を取るに至った。閉塞船は各々が旅順口に向かうも、闇夜と砲撃によって現在地と目標を見失ってしまう。そして駆逐艦も回避行動を取りつつ速射砲で沿岸砲台に反撃を試みた。


 駆逐艦『東雲』は、閉塞船隊を捉えて援護に徹した。しかし、状況は圧倒的に日本側が不利であった。口外にはロシア海軍の駆逐艦部隊が待ち構えていた。日露駆逐艦部隊による水上戦闘も繰り広げられる事態になったが、日本側は指揮系統が崩壊し敵味方の識別が出来ず闇夜から攻撃してくるロシア海軍の駆逐艦に悪戦苦闘だった。


 そして最初に自沈したのは千代田であったが、旅順口とは程遠いところでの自爆であった。次に、弥彦丸がロシア駆逐艦の『レシーテリヌイ』の雷撃が命中して航行不能に陥り自沈する。この時点で二回目の閉塞作戦は失敗となった。


 だが、福井丸は乱戦の中で旅順口までたどり着いた。その隣には『東雲』が随伴していた。この後は船内の爆薬を遠隔操作で爆破させ、乗員は船外に非難すればよいだけである。しかし、敵艦はやって来た。砲艦『ボーブル』は福井丸に向かって艦砲射撃を行い進んできた。その進路を塞いだのが『東雲』であって、魚雷を放ち応戦する。


 その間、福井丸では自沈作業が懸命に進められていた。その時、駆逐艦『シーリヌイ』の放った魚雷が船体に命中した。爆薬庫の誘爆は免れたものの、被弾によって船内の浸水状況が酷く沈没の危機にあった。広瀬は部下に下船を命じた。船員は船長を含めて18人だった。集まったのは16人であった。いなかったのは、福井丸指揮官附の杉野孫七上等兵曹であった。自沈作業のために船内に行ったきり彼の姿を見たものはいなかった。


 広瀬は、その場にいる人員のみを下船させるように命じて船内に入っていった。


 「杉野ぉ!おらんのかぁっ!?返事しろぉ!!」


 必死に呼び叫ぶが、無情にも船内には沈没の音だけが響くだけだった。


 一方、船外では『東雲』が二隻のロシア艦と戦っていた。十五朗は、露天の艦橋から敵艦を離すこと無く捉え続けて福井丸への接近を許さなかった。


 福井丸からカッターが下ろされて乗員が下船していくのが見えたが、その後の動きがなかった。


 十五朗は、直ぐに広瀬が残った船員を探しているのだと察した。


 早くしろと、十五朗は福井丸を見ながら気を揉んだ。すると、閉塞船の後部甲板が爆発した。別のロシア艦が戦列に加わったのだ。


 「ちっくしょう目っ!何てこったい!!」


 いよいよ、十五朗にも打つ手が無くなった。一刻も早く乗員の離脱が求められた。


 速射砲の直撃により、船内は大きく揺れた。それでも広瀬は懸命に船内を探し回った。水に浸かり、火に入り進入可能な箇所をくまなく探したが杉野は見つからなかった。


 船内の火災が激しくなり、呼吸が苦しくなっため甲板に出ることにした。煤で顔や上着は汚れ、足も海水で濡れている。そこには、後方で戦果を待つ装飾を纏った参謀将校の様な華やかさは無く戦場に身を投じた男の姿に成り代わっていた。


 甲板は、杉野を探し戻る時とは打って変わり火に包まれて煙りを高々と上げている。


 下船せねばならない―


 傾く船体は滑りやすい。広瀬は火を避けつつバランスを保ちながらカッター船の位置まで向かったが、浸水の影響から船が傾き出して転倒する。その際、上着の内ポケットに入れていた恋人の写真が目の前に落ちた。水に濡れていて風に流されることは無かったが、グシャグシャだった。広瀬は慌てて写真を鷲掴みにして懐にしまい込み、下船位置まで駆け込んだ。


 そこには手すりが外されて綱梯子が下げられている。カッター船が閉塞船の横に付ついままで、部下達が船長の帰りを待っていた。


 広瀬は下の様子を確認して、福井丸から降りようとした。その時だった。突如として、今いる空間が閃光に包まれた。


 光の中は全てが真っ白で、物質を透かして身体に染み込んでくる。まるで、真っ白があらゆる物を全て呑み込み同化させて行くかの様に。


 広瀬は不思議な感覚だった。先程までの死に対する恐怖の感情が消えていった。それどころか、日露戦争による祖国と日本民族への憂い。自分への事、ロシアにいる恋人への事など全ての感情が真っ白になって行く。


 何もかもがどうでもよくなってきた。何のために生まれて、何のために海軍に入り、何のために今日を迎えているのか。


 広瀬は光の中で目を瞑り、全てを忘れて眠り込もうと決めたのだった。


*****


 二度目の閉塞作戦も無意味な失敗に終わった。四隻の閉塞船も任務を果たすことが出来ず撃破された。


 唯一、旅順口に辿り着けた『福井丸』も自爆すること無く放棄されたのだった。


 起爆装置を持っていた広瀬は、閉塞船から降りようとした時にロシア艦の放った砲弾が至近距離に着弾して炸裂して爆発に巻き込まれた。爆風に吹き飛ばされてカッター船に落下し、その際に起爆装置が損傷して爆薬を爆破させる事が不可能となった。


 その後、『福井丸』の乗員は『東雲』によって救助された。そして、広瀬武夫の死亡が確認されたのだった。


 300トンの小さく狭い駆逐艦の艦内で、遺体は艦長室に安置された。十五朗が無言の友人と対面したのは『東雲』が安全地帯に入ってからであった。


 顔に覆われた白布を退かして死に顔を覗く。顔中が煤で汚れていて髪型も乱れている。しかし、その表情は苦痛の末に息絶えた顔ではなく睡眠中の寝顔の様だった。


 「今にでも起き上がりそうな面しやがって、広瀬さんよ」


 そう言って、十五朗は手にしていた濡れた布で広瀬の顔についた煤を拭い始めた。汚れは簡単に布に吸い付いて顔が綺麗になっていく。


 そしたら、死に顔に意外な変化があるのに気付いた。髭の右片方が焼けて無くなっていたのだ。これでは遺体を見て悲しむ反面、不謹慎にも笑う者もでてしまう。


 「これじゃ、自慢の髭は全部剃るしかないですな。広瀬さん」


 と、十五朗は堂々とした表情でありながら髭が半分無くなっている死に顔を見て苦笑しながら言った。しかし、広瀬は返事を返してはこない。


 「何とか言って下さい広瀬さん。生き返って下さい広瀬さん。また秋山が苦労しますよ広瀬さん」


 室内に虚しく聞こえるのは動力機関の音に波の音だけだ。


 十五朗は、また暫く広瀬の顔を見てから白布で覆い隠して部屋を出た。


 兄さん。海軍は今、大変な事になっている。陸から旅順を攻め込んでくれ―


 次に兄へ宛てる手紙に今の海軍の心境と友人を失った心境を綴ろうと決めた。

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